来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを
来むとは待たじ 来じと言ふものを
雨が、そこら中の地面を打って跳ね上がっていた。ありとあらゆるものはこれでもかと言わんばかりに濡れ、人々は皆水溜まりばかりを見て慎重に歩いていた。屋根の下にいたとしてもそれは変わらない。排水溝が飲み込みきれなかった雨水は路上よりも酷い水の溜まり場を作っていたし、走り去る人々や渋滞に巻き込まれた運転手が乱暴に水しぶきを飛ばしていった。
屑桐が此処へ来てもう五時間になる。五時間、身じろぎ一つせずにずっと立っていた。喉が渇いても昼食の時間が過ぎても、向かいのコンビニへ入ることすらせずにずっと立っていた。
彼は基本的に律儀な人間だった。小学校から今までで学校を休んだのは祖父が死んで葬式に出掛けていた二日間と、遅いおたふく風邪にかかったときの三日間だけで、遅刻をしたのは中学校の時忘れた折り紙を取りに帰った二回だけ、早退をしたのも小学校の時学校に現れた猫を追いかけていった一回きりだ(ちなみに彼は最後まで学校を出てきたことに気付いていなかった)ただ、授業の欠課数は驚くほどに多い。一度屋上へ行ってしまうと終礼の終わりを告げるチャイムまで何も聞こえなくなってしまうからだ。だからいくら無遅刻無欠席だったとしても彼の生活態度が上がることはなかったし、勉強もしないため成績もそれに然りだ。
御柳が待ち合わせに来ないのはいつものことだ。十回約束をして一回守ればいいほうだろうし、来るときも必ず三時間は遅れる。彼は基本的に何に対してもルーズで、学校も遅刻をしない日は無い。
まだ夏になる前の雨水は、確実に屑桐の体温を奪っていた。それでもかかった水しぶきを拭うこともなく、屑桐はそこに立ち尽くしていた。もうすぐ一日の四分の一を雨に濡れた街の観賞に使い切ってしまいそうだ。何かを見ているようで何も見ていない目は、もしかすると夢でも見ているのかもしれない。冷たかった店先のショーウィンドウはすっかり温められて、外との気温差に曇ってしまっていた。
「来るっつって来ないときもあんだから、来ないもん待つこともないっしょ」
御柳はいつもそう言う。けれど屑桐は来るかもしれないほうの可能性をいつも待っていて、それが御柳には通じないことにまだ気がついていない。運が良ければ届く御柳からの連絡が来るまで、そこを動くことはない。
雨の所為で幾分早くなった薄暗い空の下、思い出したように屑桐の携帯が鳴る。その途端、屑桐は誰からかの確認もせずにその場を離れた。後には曇ったショーウィンドウが残っただけだった。
WRITING[2003.01.02]
験なき ものを思はず 一坏の濁れる酒を 飲むべくあるらし
手の中にある小さなグラスを見つめていた。飲みかけの焼酎の水割りが波紋を作っているのを、御柳は食い入るように見つめていた。
「…なんかオヤジくさ〜」
「うるさい」
これしかなかったんだ、屑桐はプラスチックの、やはり小さなコップで水割りを飲んでいた。焼酎は安物のもらいものだった。
「何の用だ」
「別に何もないっすよ」
机の上のつまみに手を伸ばす。
「先輩ガム持ってないんすか?」
無い、と短く答えて続きを飲む。
「使えねぇ…」
「何か言ったか」
「いえ別に」
御柳が持て余していた水割りを一気に飲み干す。新しく水割りを作るために簡易な台所へと向かった。
屑桐は比較的、少しの量をゆっくりと時間をかけて飲むタイプだ。御柳は対照的に、あまり味は気にせずどんどん量を飲むタイプだった。隠し持っていた酒がみるみる減っていくのを、屑桐はただ見ているだけだった。ふと水割りを作ろうとしていた御柳の手が止まる。
「ビールは」
「冷蔵庫の奧」
「どうも」
グラスを台所に置いたまま、缶ビールを二本持って戻ってきた。
「オレは飲まないぞ」
「わかってますよ、何でオレがわざわざ先輩の分まで取って来ないといけないんですか」
プルトップを開けて一口飲む。
「あの焼酎甘すぎるんすよ」
「それは悪かったな」
安物だから仕方がないだろう、ため息をついて屑桐は時計を見上げる。日付はとっくに変わっていた。
「用が無いなら帰れ」
たまに、何の連絡もよこさずに姿を現す御柳を、決して屑桐は悪く思っていたわけではない。御柳が屑桐の元へ来るときはいつでも何か理由のあるときだったし、気丈に見えるこの少年が意外なところで脆いことも知っていた。御柳がやって来る理由はその時々で様々だ。それを言うか言わないかは御柳の気分次第で、屑桐はただ一緒に酒を飲んでやるだけでよかった。帰れと言って帰る人間でもないし、本当に帰って欲しければ力ずくで追い出すことだってできる。だからあえて屑桐は一回だけ「帰れ」と言うだけだ。夜中の突然の来訪を歓迎しているとでも思われてはいけないからだ。
「犬がね、死んでたんすよ」
「は?」
「道路で、車に轢かれて」
「そうか」
「すんげー可哀想でしたよ、誰も気味悪がって近付かないんすよ。あんまり可哀想なんでその犬埋めてきました」
都会の人間は冷たいねえ、ああ、此処都会じゃないっけ。乾いた笑いを発しながら二本目のビールを開ける。
「飲み過ぎだ」
屑桐が缶を奪い取った。御柳は恨めしそうに屑桐を見上げる。
「だーいじょうぶですってオレ強いですからぁ」
視点も、奪い返そうとした手も宙を泳ぎ、御柳はそのまま机につっぷして寝てしまった。
「犬だと?俺を騙せると思ってるのか」
適当に落ちていた毛布を拾い上げ、肩にかけておく。
「明日の朝練遅れたら罰だ」
絶対に遅れるだろうがな。少し頬を緩めて言う。自分も寝なければいけない。屑桐は最近御柳の所為で寝不足気味だった。
WRITING[2003.01.04]
また違う彼らの話「随分遅いんだな」
朝練を終えて校舎へと向かう途中だった。どれだけ隠れて歩こうとも御柳の赤い髪は目立ちすぎる。もっとも、御柳は遅刻を見つからないよう気を配るような性格ではなかったし、仮に本気で隠れようと思えばそのくらいのことは簡単にできるだろう。部の集団から離れた屑桐が目の前に仁王立ちしていても眠そうな目で見上げるだけだった。
「あー、おはようございまーす」
ガムをふくらましながら器用に話す。そう言って御柳は通りすぎようとしたが、屑桐がそれを止めた。
「朝練には必ず来いと言っているだろう。昨日はどこへ行っていた」
昨日ー?ただでさえ低血圧で働かない頭を使おうとしない御柳は、屑桐の言葉を理解するのにかなりの時間をかけた。
「覚えてないっスー。そういえば今朝気が付いたら隣に知らない女が寝ててビビったんスよ。どっから入ってきたんだこいつーって感じでしたねマジで」
もうちょっとで110番するとこでしたよ。八重歯を覗かせてからっぽに笑う。屑桐は軽く舌打ちをして、朝の御柳と話すことは諦めた。
「昼休み教室にいろ。話がある」
「アンタのほうこそ紙飛行機投げて遊んでないように気ィつけたほうがいいんじゃないスかー?何なら俺が屋上行きましょうか」
何が可笑しいのか御柳は笑うことをやめない。予鈴が鳴ってからもう大分時間が経っていた。
「昼休みに教室だ。必ずだぞ」
そう言い残して屑桐は教室へと向かった。
「…うるさい奴だねまったく…」
屑桐が去ったその途端笑うのをやめ、ガムをふくらませて御柳も教室へと向かう。本鈴がなり始めてもその速度は変えなかった。
WRITING[2003.01.13]
ガムと雑誌の話「先輩って音楽聞くんすねぇ…」
御柳の噛むガムはいつも同じモノというわけではなかった。それは例えば奴が捨てていく紙くずだとか、すれ違ったときに漂ってくる香りだとかそういうことでわかる。唯一の共通点はそれが全て膨らますことのできるガムだ、ということだけだった。
「どういう意味だ」
「いや、あんまり聞きそうにないなぁとか思って」
だって似合わないじゃないっすか。数えるほどしかないCDジャケットを弄んでは元に戻す。
「しかも洋楽ばっか」
「悪いか」
「別に。でも先輩あんまり聞いてないでしょ。どれも全部埃たまってますよ」
掃除くらいしたらどうなんですか?やがてCDに興味を失くした御柳はオレの隣を通りすぎて小さなテーブルの側に座った。今日のガムは甘ったるい香りのするものだった。
置いてあった雑誌をめくる。めくるだけで読んではいない。不定期にしか買わない雑誌も一度目を通せば二度と読み返さない。向かいに座る御柳も同じように、次から次へとページをめくっていく。一文も読んでいるようには見えない。要するにただの暇潰しなわけだ。
「ねえ先輩」
「何だ」
お互い顔を上げずに会話をする。目だけはページを追って、けれど文字は追わない。
「ガキ産むのって辛いんすか」
「は?」
顔を上げても奴は平然とページをめくり続けているだけだった。ガムは膨らまされて奴の顔を隠している。
「いや辛いかなぁって何となく」
「オレに聞くな」
それもそうっすね。奴は最後のページをめくって雑誌を閉じた。新しい雑誌を取り出して、また気怠そうにめくり始める。
「じゃー質問変えますよ」
味が無くなったのか膨らみにくくなったのか、噛んでいたガムを吐き出して新しいものに替える。隣には読み終えた一冊目の雑誌が放っておかれたままだ。
「死ぬのは?」
「は?」
「辛いんすか」
「だからオレに聞くな。オレは子供を産んだこともないし死んだこともない」
「わかってますよ、んなこと」
「…何が言いたい」
もし、もしですよ?御柳が例え話をするのは珍しかった。
「もし両方辛かったら嫌だなぁって。死ぬのが辛いなら辛い思いしてまで産んで欲しくないっすよ。そう思いません?」
「突飛だな」
御柳の言動には時々ついていけないことがある。正直奴と話していて、最初から最後まで今何の話をしているのかわかっていた試しがない。疲れるといえば疲れるが、それも多分慣れてしまっているのだろう。現にオレは奴の話を聞きながら雑誌をめくり続けることができる。奴と渡り合うにはそれだけで充分だ。
「別にどうでもいいんすけどそんなこと」
机の上に置かれているガムを見る。半分ほど包装がめくられていて、一つだけ外に出ていた。おもむろにそれを取って包みを開ける。奴とすれ違ったときと同じ甘ったるい香りがした。それを口に入れる。甘い。
「あ!?ちょっと何勝手に食ってんすか!」
無言で噛む。御柳が睨んでいるのがわかるがオレはそっちを見ずに雑誌ばかりめくっていた。諦めたのか奴も再び雑誌に目を落としたようだった。基本的に奴には執着心というものがない。いい意味でも悪い意味でもそれは御柳の特徴だった。
「…先輩ってガム噛むんすねぇ」
「どういう意味だ」
「いや、あんまり噛みそうにないなぁとか思って」
「悪いか」
「別に。でも人の勝手に取んじゃねぇよ」
「敬語を使え。というより甘いぞこれ」
「そりゃそうっしょ、イチゴ味だし?」
「…よく食うなそんなもの」
目の前で器用に膨らまされるガムを見てオレもやってみようと思った。ガキの頃何度かやったように膨らまそうと試みたが、何かよくわからないまましぼんでしまった。
「ダッセ」
「…悪かったな」
あとは無言で雑誌をめくり続けた。
WRITING[2003.01.06]