だが、この夢なくして、なんの人生だろうか
―――F.ナンセン『フラム号漂流記』
01:炎
屋上の、フェンスの向こうに立っていた。錯乱しているのか何なのか、自分がどうして此処に立っているのか、どうやって此処まで来たのか、それは何も思い出せなかった。ただ一歩踏み出してしまえばそこに自分を支えるものはなく、その下には沢山の人間と車とドブネズミがいる。それだけはわかっていた。オレはそんな場所に立って、ぼんやりとその向こうを眺めていた。
オレに例えば自殺願望があったなら。それは別に不自然な行為でもなく、むしろ当たり前とも言えるものだったはずだ。人の少ないビルの屋上で佇んでいる。けれどオレは自殺なんてする気は毛頭無いし、そんな安っぽいことをするほど落ちぶれてもいない。そもそもそんなことをする理由がない。幾度と無く他人を自殺まで追い込んだことはあったけれど、自分が追い込まれたことは一度としてなかったように思う。
「何をしている」
突然、背後の扉が開いた。廃ビル同然のうち捨てられた古い高層マンションでそんなことがあるはずがなかった。それでも扉を開いてこちらを見つめている人物はいて、そしてそれはオレのよく見知った人物だった。
「……っ」
その人の名前を呼ぼうとして気付いた。どうやら俺は今声が出ないらしい。その人は特に何をするでもなくこちらを見つめていた。
「飛ぶのか」
その人がふと、いきなりそう言って、どこから取り出したのかわからない紙飛行機をふわり、と飛ばした。紙飛行機は寸分の狂いもなく丁寧に折られていて、オレの横をすり抜けて空へと舞っていった。何故か紙飛行機が飛んだ瞬間、その紙飛行機がどれだけ精密に折られているかを俺は知ることができた。
「飛ぶなら飛べばいい」
無表情だったその人が初めて笑った瞬間、いつも隠そうともしない頬の火傷が燃え上がった。燃え上がって燃えさかって、炎はみるみるうちにその人を喰い尽くし、オレはフェンスの向こう側でその光景に見惚れていた。とても綺麗な炎の色だと思った。
炎はその人を喰らうと一直線にこちらへ向かってきた。大口を開ける炎を避けようとして後ろに仰け反る。途端、そこには何もなかったことを思い出した。フェンスを掴もうとした手は空を掴み、体が浮いて胃の持ち上がるような不快な感じが体を支配した。どうにも落ち着かない――そうだ、今日はガムを忘れていた――遠くに鳥の形をした炎が見えた。それは空高く、高くへと飛んでいく。オレは真っ逆さまに地面に向かってダイビングしていた。
地面にぶつかる寸前、オレは意識を取り戻した。
WRITING[2003.01.01]
02:サイバアボウイ地下の、回路の中にいた。そこはいつでも終わりのない迷路になっていて、オレがそこを彷徨い始めてからもう八年が過ぎていた。
回路の途中には所々"休憩所"と呼ばれる場所があって、そこには必ず誰かが座っていた。エネルギー貯蓄装置のノズルを腹の真ん中に差し込む。随分スタミナが無くなっていた。先に座っていたのは小さな小さな子供で、一回り小さい隣の装置を使っていた。メーターが大分上がっている。あと十分もすればいなくなってしまうだろう。エネルギーを蓄える間に携帯用スタミナ増強剤を補給する。前回休憩所に寄ったのは二週間前だったから随分減ってしまっていた。増強剤をタンクいっぱいに詰めて後ろを振り向くとさっきの子供はもう居なくなっていた。オレに繋がる貯蓄装置のメーターはまだ四分の一もふれていない。この分だとあと半日はかかりそうだった。
子供が出て行って十五分くらいすると、随分息の上がった長身の男が入ってきた。蒼い髪をしていて色眼鏡をつけていた。つけているヘッドホンからは途切れ途切れに音楽の断片が聞こえてくる。オレの知らない曲だった。
その男が貯蓄装置の準備をしているときに、左腕についているプレートを見ることが出来た。『SHIBA』と書かれたそのプレートはまだ新しく光っていて、オレのプレートとは大違いだった。
「シバ?(^_-)」
短くそう呼ぶと男はびっくりしたように振り向いた。
「プレートだよ(^^;)」
オレの左腕を見せる。輝きを失いかけたプレートにもしっかりと『ROKU』の文字は刻まれたままだった。"シバ"は緩やかに微笑んでゆっくりと腰を落ち着けた。
"シバ"はクライアントを旅立ってから、一ヶ月も休憩所に寄っていなかったらしい。エネルギーの減り具合でわかる。残り少ないポケットマネーで温かい活性剤を奢ってやった。辺りは随分寒い。丁寧に礼を言って"シバ"は活性剤を受け取った。俺は自分の分のプルトップを開けて一口飲む。隣を見ればまだ開けられていない活性剤があった。
「どうしたのさ(?_?)」
聞いても何も言わないし、変な奴だと思った。しばらくすると缶を頬に当てて微笑むとプルトップを開けて飲み出した。
「熱いの嫌い気?(-_-)」
尋ねると首を縦に振る。言ってくれればコールドにしたというのに。
此処では一度迷ってしまえば外には出られない。クライアントを旅立ってからは一直線に中枢を目指さなければならないのだ。例え旅立ったばかりの者に出会えたとしてもついていってはいけない。最後は二人で遭難するしかなくなるからだ。此処での時間は外の世界の何万倍も速く過ぎていく。オレが八年も彷徨っているというのに外の世界ではまだ一瞬しか経っていないはずだ。クライアントはオレが迷ってしまったことにもまだ気付いていないだろう。
メーターが上がりきったところでオレは立ち上がった。決して辿り着くことはもうないけれど、それでも中枢に向かわなければならない。それが回路に入ってしまった者の使命で、唯一の目的だからだ。座っている"シバ"に別れを告げて回路に戻る。そろそろエネルギーを貯める金も無くなってきた。あと三ヶ月も生きられないかもしれない。
絶望にまみれた旅路を急ぐ。ああ、何処かの部品が朽ちていく。確実に迫る死期を感じながら、そしてオレはゆっくりと目を覚ました。
WRITING[2003.01.03]
03:不眠夢を見なくなったのはいつからだっただろう。いつからか上を向いてしか眠れなくなってしまった。こんなはずじゃなかった。寝ても覚めてもつきまとう鼻水が鬱陶しくて、けれど鬱陶しがったところでそれが治るわけでもない。まともに喋ることすら困難なのに、眠ることなんてできるわけがなかった。
人は言う。「鼻水くらい風邪ひいたら出るよ」。確かにそのとおりだった。しかしそれは一時的なもので、しかもそんなの軽い場合が多いから、朝起きてからの鼻づまりに苦しむだけでいいのだ。口を開けなければ息をすることもままならない。そんな鼻づまりの状態は酷い風邪だって大概二、三日で治る。ずるい、と言えば滑稽に見えるだろうか。けれどそれはとても深刻で、重要な問題なのだ。
例えば授業中に寝たとしよう。軽く、軽く意識が飛んでしまうことなら多々ある。眠るのはいい。慢性鼻炎で、慢性寝不足なのだから。問題は起きたときだ。起きたとき、必ずと言っていいほどクラスの人間から奇妙な声が上がる。あれほど恥ずかしいことはない。授業ちゅうに眠るには机につっぷすしかない。下を向いて眠るということはこういう人間にとって禁忌なのだ。
寝返りを何度も打つ。半回転もできない微妙な寝返りだ。何度も鼻をかむ。まだだ、まだ何かが奧に引っかかっている。
眠ることは容易かった。もうメイクで隠せないほど隈ができているし、何だかんだで授業中に寝ている時間は多い。けれど眠り続けることはできなかった。息苦しさに何度目が覚めればいいのかわからない。そして何度目が覚めても朝まで起き続けることすらできない。そんな浅く短い眠りを繰り返してじっと耐えているだけ。朝を求め続けるだけ。起き上がれば眠らなくてすむ。眠りたいけど眠るのは辛い。夢のない、自分の寝息が聞こえる程度の眠りなんて欲しくない。
夢を見たという人々は何を見ていたのだろうか。夢を見たことがないわけじゃない。うんと、うんと小さい頃は毎日夢を見ながら眠っていたのだと思う。けれど、夢は忘れやすいものだと誰かが言っていた。朝起きたら忘れてるよ。だったら小さい頃の夢は?そんなの覚えているわけがない。
窓の外が白む前に起きる。部員が沢山いる部だったけれど、朝練へ行く時間はきっと早いほうだった。早く行きたいんじゃない、早く朝を迎えたいだけだ。東から太陽が昇る。あと何回日の出を見ればこの苦しみから解放されるのだろう。あと何回目を覚ませば爽快な朝を迎えることができるのだろう。
WRITING[2003.01.06]
04:砂漠見渡す限りに砂が広がっていた。というより、辺りにはもう砂しか残っていなかった。
俺は夢を見ていた。長くて短い夏の夢だ。それは叶えるための夢だったかもしれないし、朝起きれば忘れてしまう夢だったかもしれない。もうどちらでもいいことだった。
砂に埋もれているものを俺は知っている。それは全て埋もれて、ひからびて、消えていったものたちだ。それが何かを俺だけは知っている。それを知る者はもう俺しかいない。そんな果てしない砂漠の中で、どうして大切なものだけを探す必要があるだろう。どうして俺は未だに大切なものたちだけを探しているのだろう。全ては夢だった。覚めてはいけない夢。覚醒してしまった俺はもう夢を見ることができないのだろう。あるいは、見てはいけない夢を見ているのかもしれない。永遠に覚めない夢を。垣間見える別世界に、始めからひきこまれてはいけなかったのだ。
雲のない昼を越え、月のない夜を越えてそこに座り続けた。遥か遠くにあるはずの歪んだ地平線はいつか夢で見た城を思わせる。その城は砂漠の蜃気楼の向こうにあった。その城へ向かっていたのは俺ではなかった。今なら行けるだろうか。あの歪む地平線を目指せばいつか黄金の城に辿り着くだろうか。無理だな、と瞬時に思う。もう此処には海さえ無い。全てが砂に覆われた不毛の土地だ。此処には誰もいないし、いたところでひからびて死んでしまうだけだった。そういう人間を最初の二日間はずっと見ていた。三日目から誰もいなくなり、それから俺は俺がひからびるのを待っている。月が昇ればそれでサヨナラだ。月が昇る夜は雲で覆われた昼の日にやってくる。空は今日も雲一つ無い良い天気で、今日も月の昇らない夜が来るだろう。だから俺は消えない。それでも俺は待っている。
紙飛行機を飛ばしていた。この四角い紙がどこにあったのかは知らない。気付けば俺は砂漠の真ん中で常に紙飛行機を飛ばしていた。まっすぐに、まっすぐに飛ばそうとしても必ず左に曲がってしまう紙飛行機だ。風の吹かないこの土地で、それでも紙飛行機は左に曲がり続ける。あの長くて短い夏の夢で紙飛行機がまっすぐに飛び続けていたのを覚えている。いつだってまっすぐ、まっすぐに飛んでいたのについに地平線を越えることはなかった。あの夢に地平線を見たことがなかったからだ。今なら飛ぶかもしれない。あの歪んだ地平線まで、紙飛行機は飛んでいくかもしれない。けれどそれも無理な話だった。紙飛行機は左に曲がり、ゆっくりと俺の周りを旋回し続けるだけだ。左回りにいくつもの紙飛行機が飛んでいる。例えば地球を巡る月のように、太陽を巡る地球のように、俺をとりまいては落ちていった。それで俺の周りには円陣を組むように紙飛行機がたくさん落ちていた。全てが左を向いたそれがいくつも重なって。そして、ひからびて消えていく。紙飛行機は二十五機を超えなかった。全て砂に還ってしまった。
俺の名前は何だった。夢の中で大切な者達がたしかに俺を呼んでいた。ああ、全て霞んで、消えていく。俺が愛した顔も声も、全て紙飛行機が奪い取っていった。あの長くて短い夏の夢はやはり、朝起きれば忘れてしまう、そんな夢だったようだ。紙飛行機に記憶を奪われ、それを飛ばし続けて最後に紙飛行機の飛ばし方を忘れたら、月はやっと昇るかもしれない。俺も砂に還れるかもしれない。夢を見ないはみだしものの砂粒にでも俺はなりたかった。月が昇るのを待っていた。
ひからびて消えていった仲間達は未だに夢を見続けているのだろうか。あの長くて短い夢の続きを。そこに俺はいるだろうか。誰か俺を夢に見てくれているのだろうか。終わらないはずの夢から覚めてしまえばひからびることさえ叶わない。消えていく人々をただ見守るだけだ。そんな世界の中で、俺は夢を見ることもなくただ座り続けるだろう。紙飛行機を飛ばし続けるだろう。
WRITING[2003.01.15]