後悔したかてもう遅い。

Chapter 2. MORE INJECTIONS

千歳の部屋は驚くほど殺風景で、炬燵兼用の卓袱台とプラスチック製の簡素なチェスト以外に家具はなく、あとは炊飯器と小さな冷蔵庫、ノートパソコンの側に散乱したDVDがあるのみだった。寝具といえば薄っぺらい布団が無造作に広げられたままだ。数少ない食器は備え付けのキッチンに付属のステンレス製棚に伏せられているだけで、コンロには大した使用の痕跡も見られずパソコンの横で干からびたカップラーメンの器が普段の食生活を物語っている。
 初めてこの部屋に来たとき、不摂生しか読み取れないその部屋に白石は母親よろしく小言を並べ立てたが、仮宿でしかないと言わんばかりの様相に悲しさや切なさが先行したことを覚えている。生活感はそれなりにあるけれど定住感は皆無だ。ここに留まるつもりはないと暗に伝えるこの部屋には何度訪れても不快感が拭えない。
 「相変わらずテキトーな生活しとんな」
 「まあ寝に帰るだけやけんね」
 食生活を見かねた白石はせめて自分がいるときだけはと簡素な食事を用意する。インスタントでは摂れない野菜を中心に、一汁三菜とまではいかなくともある程度栄養バランスの取れたメニューを選んだ。
 「お前、三者面談サボったんやて?」
 味噌汁を啜りながら、白石は昼間教師に聞いた話を思い出して尋ねた。
 「そげなもんあったとね?」
 「日付書いたプリントもろたやろ」
 「知らんばい」
 ほんまお前なあ、本日何度目かの溜息をついて、白石は炊飯器に手を延ばす。使う食器は小さく、成長期の彼には物足りない。元より人を呼ぶ仕様でない千歳の家にある食器はどれも不揃いだった。二人分のご飯と味噌汁をよそってしまえばあとは大きな皿が一つだけ。自然と主菜や副菜はオードブル形式となってしまう。取り皿もない。
 「ゆうてお前、親出て来れるん?」
 「平日やったら難しかね」
 「どうすんねん?」
 どうすっとね、と考えているのかいないのかわからない素振りで千歳は中央に盛られた青椒肉絲に箸をのばす。
 「白石出てくれんね?」
 名案と言わんばかりに千歳が目を輝かせる。
 「アホか、俺はお前のオカンちゃうぞ」
 「ばってん、飯もうまかごと」
 オカンのごたるもんとよ、と悪びれず笑う。
 「とりあえず先生に相談しーや」
 「せやね」
 ほんまにわかってんのか、と白石が訝しげな目線を向けても、わかっとーよと曖昧な笑顔しか見せない。このままでは本当に自分が参加することになりそうだと味噌汁を飲み干しながら白石は思った。

 食事が終わればすることは何もない。この部屋にある娯楽といえばDVDくらいのもので、内容は全てジブリアニメだ。白石はジブリが嫌いなわけではなかったが、男二人黙ってアニメを観る趣味もなかった。インターネットを引いていないパソコンでは潰せる時間も限られる。プリインストールのゲームくらいあるだろうが、大抵それらは一人用だった。
 そういうわけで大抵の場合千歳は白石を抱く。白石が覚えている限り抱かれなかったことはないから、毎回と言っていい。白石は、田舎はすることないから初体験年齢が早いんやっけ、とまるで関係ないことを思い浮かべる。

 方法を誤ったと、気付いたときには遅かった。ともすれば次の瞬間にも消えてしまいそうな千歳を、なんとか留まらせるにはどうすればいいかと考えを巡らせていた春の終わり、初めて訪れた千歳の部屋で不意に抱き寄せられたのが最初だった。
 今ならば、ただの気紛れだったとわかる。部活中、コートを見つめながら時折ふと寂しげな色を宿すその目には気付いていて、もしもそれを少しでも埋められるならばと、それが少しでも千歳をこの地に繋ぎ止められるならばと、安易に応じてしまった。
 三回目の夜、白石は聞いた。「橘とも寝たんか」と。聞いてから後悔した。そんなことは聞くべきではなかった。千歳は馬鹿にするように笑って「気持ち悪かこつ言わんね」と答えた。
 聞いてどうするつもりだったのだろうと白石は思った。答えがどちらでもそこに待つのは絶望だ。イエスならば自分が過去の代替だと思い知るだけだし、ノーならばお前じゃだめだと言われるようなものだ。
 千歳はきっと白石を馬鹿にしたような笑い方なんてしない。けれど橘にはする。白石は抱く。けれど橘は抱かない。それは悲痛な程に白石を絶望させた。それからこの不道徳で不誠実で、おまけに非生産的なこの関係を続ける決意をさせた。それは諦めに近かった。

 非生産的ってほんまそれやな、千歳の背中越しに薄汚れた天井を見ながらぼんやりと白石は思う。彼らがどれだけ精を注ぎあってもそこから何かが生まれることはない。遺伝子にはこんなことは記されていないはずだ。生きて増やして種を保存するために有性生殖は発達した。なら俺らが今してることは何なんやろう、純粋に彼は疑問に思う。
 それにしたって彼らは中学生で、何かが生まれても困る立場にあった。「子供が出来た」なんてセリフはまだ祝福でなく悲壮を伴って吐かれる言葉であって、歓迎されるべき言葉ではない。けれど彼らはまさに男性の性欲のピークにあって、それを考慮すると男相手というのはなかなかに合理的な選択なのではないかとも考えられる。
 白石は自分さえ納得できる理由があればそれでよかった。終わった後に後悔しないだけの尤もらしい言い訳さえあれば。それを用意すれば後は千歳に委ねるだけだ。現に進行形で思考は霞み始めている。

 千歳が身体を揺する。白石はその背に爪を立てる。今ある快楽は確かに千歳から与えられているのに、その存在をひどく遠く感じた。吐息も体液もどちらのものかわからないほど混ざり合うのに、どうしてかいつでも身体は境界線を保ったままだった。一人の部室では拡散した身体が、二人だと収束するなんて馬鹿げている。抱かれてるから悪いんかな、熱を持つ思考の片隅にそんな考えが過る。
 モテる部類に入る白石は、何度か告白されたことはあったが、結局誰とも付き合わなかった。忍足は「理想が高すぎるんや」と恨みがましい目で白石を見たが、気が乗らないのだから仕方がない。そういうわけで、白石は未だに誰かを抱くという経験がなかった。簡潔に言って童貞だった。
 もし俺が抱く側やったらこの距離も無くなるんやろか、白石は千歳を見上げる。窓から射し込む薄明かりが逆光になって、その表情はよく見えない。自分の思う通りに動けるなら近付けるような気もするが、自ら足掻く分絶望も強くなるような気がした。そんなら俺はこっち側でええわ、と白石は思う。少なくとも千歳に対しては、これ以上絶望などしたくなかった。
 どうしたって好きになれない生臭い匂いが鼻をついて、ややあって千歳が倒れ込んだ。白石はその重みを感じる。重みがあるということは別の個体だということだ。こんなんただ単にお互いが他人やって確かめるだけの行為やないか、と白石は思った。薄い布団に擦られた背中が痛かった。

街灯の拡散しきる直前の光に照らされた千歳は、今は右側だけを白石に見せている。千歳の右目にはほとんど視力がない。だからおそらく今白石のことは見えていない。
 窓辺に置かれた灰皿には無精故にある程度の山ができている。白石が初めて見たときはギョっとしたが、一日一度、形式ばった苦言を呈するだけに留めた。普段吸わないことは知っている。それでも白石を抱いた後、決まりごとのように千歳はタールの少ない煙草を吸った。
 「こんな百害あって一利なしなもん、なんで吸うねん」
 枕元に置かれた金マルのボックスパッケージを手の中で弄び、白石はごちる。マニアと呼ばれるほど健康にうるさい白石にとっては天敵のようなものだ。
 「習慣みたいなもんばいね」
 悪びれずに千歳は開けた窓から紫煙を吐き出す。夏の夜特有の風のない空気が微かに紫煙を押し戻し、その香りに白石は眉を顰める。
 「いつから吸ってん?」
 「んー、小五か六?」
 「は?」思わず千歳を振り返る。
 「あんまガラのいいとこやなかったけんね。ばってん中学入ってテニス始めてからはほとんど吸っとらんと」
 桔平に怒られようけん、と続いて、白石は聞こえなかった振りをした。
 「吸わんでいけてるんやったら俺の前でも吸うなや」
 「ばってんこぎゃんこつ後は、落ち着かんけん」
 ならばこんなことはやめればいい、とは返せない。あの吸殻のうち何本が自分と寝た証拠なのだろうと考えると頭が痛くなる。煙草一つやめさせられないクセに、過去への嫉妬じみた感情からどうしても繋ぎ止めておきたいなどと考える自分は、どれだけ独善的なのだろうと白石はまた一つ溜息を吐く。
 「千歳」
 「なんね?」
 灰皿に吸殻を押し付けながら千歳は振り向く。白石は良い加減疲れた、と思う。
 「引き止めてもええか」
 白石は千歳の目を見ない。手の中のパッケージを眺めている。ロゴの上半分を隠したら何とやら、とかいう都市伝説があったなとぼんやりと考える。
 「消えるなて、言ってもええか」
 千歳はすぐに答えない。吸殻の端にしがみつく最後の赤い火を執拗に追いかけている。
 きっとこの沈黙は共有されない、と白石は思う。待つ側と待たせる側の時間の流れ方は往々にして違っている。
 完全に消火したことを確認して、漸く千歳が口を開く。
 「白石がまた見つけてくれればよかとね、いつものごたる」
 白石は振り向かない。Marlboroの文字を追ってばかりいる。布擦れの音が響いて、やがて影が差す。
 「それとも、探してくれんと?」
 手の中のボックスを取り上げられて、観念したように白石は顔を上げる。窓から射し込む街灯の光が千歳の左耳に体の一部かのようにつけられたままのピアスに反射して揺れる。
 「アホ」
 電気を点けない部屋の中で、影が重なる。はぐらかされたと思いながら、それを赦す自分はやっぱりほだされてしまっていると白石は自嘲し、目を閉じた。

2012.7.22