――テメェの馬鹿はいつまで経っても直んねえな
――んだと!?
――鏡見てこいよ、顔に馬鹿って書いてあんだろが!
包丁の裏で叩く肉は、父親が奮発して買ってくれていた豚ではなくて牛だ。同じタンパク質なのだから安いほうがいいだろ、なんて言ったってあいつは聞きやしない。つきたい悪態を抑えて力任せに叩くと、塩胡椒の香ばしさが広がるからたまらない。
喧嘩なんて珍しくないから理由をいつも忘れてしまう。…
閉め切ったカーテンの向こうでは夜が始まっているようだった。日中のうだるような暑さはまだ継続中で、つけたばかりの冷房はまだ部屋を冷やしきらない。
「ちょっとクロ、待って」
「待たねえ」
「暑いよ」
鞄を置いた瞬間後ろから抱きしめた研磨の体温が熱くて暑さのことはどうでもよくなった。こめかみのあたりにキスを落とすと、機嫌悪そうに頭を振る。それでも腕の中で反転した研磨が俺の襟ぐりを掴むから、引か…
漸く鼻が麻痺して血の匂いを感じなくなった頃、次に周囲を包んだのは人の肉が焼ける匂いだった。
敵のアジトを跡形もなく消し去るという任務は、生け捕り対象も引き出すべき情報もなく、分類としては楽な方だ。
「二十三分。思ったより早く終わったねえ」
「どれくらいを想定してた」
「バレなければ十分、バレたら三十分というところかな」
いきなり火を放って敵が散り散りになると面倒だから、そんな理由でまず…
馬鹿だ馬鹿だと思っちゃいたが、ここまで馬鹿だとは思わなかった。
「テメェはなんもわかってねぇな。出会うのが早いか遅いかだけの違いだろうが」
そんな風に吠えていたのがいつのことだったか。
「あいつは確実に俺を選ぶんだよ。なんせ俺だからな」
親指立てて自分を指して、自信満々に口角を上げる馬鹿をお前らしいと思ったことは認める。せいぜい痛い目見るがいいさ、そう思ったことも認める。
けれど、雨降…
鼓動と同じ速さで伝わる鈍痛にはいつまで経っても慣れやしない。そいつはドクドクと遠慮なく眼窩の奥を打ち鳴らして容赦なく思考を停止させる。窓の表面に伝う雨垂れが水の膜を作って息が苦しい。雨の日はいつもこうだ、嫌になる。
雨なんて昔から好きではなかった。濡れると冷たいし傘は邪魔だし湿気で髪は爆発するし。好きなのは突き抜ける高い蒼い空とかいついつまでも流れてゆく雲とか、あるいは雨上がりの虹とかそういう…
春が好きだった。
愛する草花が咲き乱れ、新生活に少し緊張した人々が街にあふれ、誰もが何かが始まると期待をする。そんな季節に生まれたことを、何度だって感謝した。
春が好きだった。
「……報告は以上だ」
そう言って真田が帽子の鍔を引いた様子を、気配だけで感じ取る。新しい練習メニューや新しい部員、みんながどんな風に練習に打ち込んでいるか、俺はずっと窓の外を見ながら聞いていた。
「順調そうじゃ…
物心つくまで認識していた人間の顔はたったの四種類だ。父と、姉と、無数の戦士たちと、それからおれたち。
おれたちって言ったって、お互い見分けくらいはついていた。気がつけば髪型は違っていたし、たった四人の兄弟で明確なヒエラルキーだってあった。おれたちは間違えることなく互いの名を呼び、家臣の誰かが誰かを呼び間違おうものなら寄ってたかってぶちのめした。
でも考えてみてほしい。同じ日に生まれた同じ顔が…
香りや色のきつい草花には大抵毒があるもんや、毒草が好きなどという変わった趣味の持ち主がいつか言っていた。だから秋が来るたびどうしてかノスタルジーな気分を呼び覚ますこの香りにも毒があると信じて疑わなかった。
「金木犀? ゼロではないけど、毒草っちゅう分類ではないなあ」
それなのに、力説していた本人がそう言うものだから脱力してしまった。
「そうなんだ。質が悪いね」
なんとなしに感想を口にした…
「ときどき頭の中でゴォーーーって音がして、何もわからなくなるんすよ」
薄暗い部室、蛍光灯を跳ね返すトロフィーたちの輝きがたまに呪いみたいに見える、なんて言っていたのは誰だったろう。うずくまって震える赤也の声は変なふうに反響して耳がおかしくなったのかと思う。ほらときどきあるだろう、夜の病室で誰の声もしない静寂なんてどうだい?
「人が傷ついてるか、自分なのか、それだけの話っす」
だったら自分の…
「授業だりぃよ全っ然身に入んねえ。赤也が借りてる漫画の続き忘れやがったから続きが気になって仕方なくてさ。俺はちゃんとあいつに貸す分持ってきたんだぜ? ほんとあいつ、ああいうとこ、どうしようもねえよなあ。こないだもーー」
丸井はよく喋る。驚くほどよく喋る。昨日のテレビがどうした何組の誰々が誰々と付き合ってる新製品のガムは味の持ちが足りない云々。右から左へ抜けていく中身のない音の羅列は、雑多な会話の飛…