即興小説ログ「灰色の春」
春が好きだった。
愛する草花が咲き乱れ、新生活に少し緊張した人々が街にあふれ、誰もが何かが始まると期待をする。そんな季節に生まれたことを、何度だって感謝した。
春が好きだった。
「……報告は以上だ」
そう言って真田が帽子の鍔を引いた様子を、気配だけで感じ取る。新しい練習メニューや新しい部員、みんながどんな風に練習に打ち込んでいるか、俺はずっと窓の外を見ながら聞いていた。
「順調そうじゃないか。安心したよ」
振り向いて微笑み、そう伝える。あからさまな安堵が真田から漏れる。
「それで幸村、病状の方は……」
「変わりないよ」
何を期待しているのか毎回欠かすことのない問いは遮ってしまった。少し緩んだ空気が再び緊張をはらんで、疎ましい。再び窓へ目を向ける。切り取られた常緑樹だけが見える味気ない風景だ。
「そんな顔するなよ。俺は必ず戻る」
「うむ。すまない」
もしかするとこの真田の起伏を楽しんでいるのかもしれないと思う。随分悪趣味だ。けれど少しくらい許して欲しい。ここはあまりに娯楽に乏しい。
「苦労をかける。メールで連絡くれるだけでもいいのに」
「めーる、は、」
「苦手なんだろ。知ってるよ」
戯けて笑ったつもりだけどどうだろう。何せ筋肉が思った通りに動かないのだ。うまく笑えなかったとしても、目は合わせていないからわからないかな。
「そうではない。この目でお前を確かめたいのだ」
案の定、改まった声で真田はそんなことを言う。真田との付き合いは長い。こいつはそういう奴なんだ。
「確かめるって、何を? 俺が生きているかどうか?」
ああ随分性格が悪くなったものだなあと自分を嘲る。この部屋でもう何ヶ月が過ぎたのだろう。秋が冬になって、今はもう春だ。大好きだった春だ。
「あー……幸村、おまん、いつもこうなんか?」
突然、真田の口調が変わった。はっとして振り向くと、そこにはさっきまでいたはずの真田がいない。代わりに見えるのは、脱色だかなんだか知らないが不自然に白い髪。
「仁王……お前だったのか」
「まさか気付かんとはな。随分鈍ったもんじゃのう」
被っていた帽子とカツラをぞんざいにラケットバッグへ突っ込んでいる。その所作からは既に真田の欠片も感じられなくて、イリュージョンはここまできていたのかといっそ感心してしまう。
「随分悪趣味じゃないか。何しに来たんだい?」
「ひどい言い草じゃのう。今日は真田が来れんけえ、代わりに来たっちゅーのに」
「蓮二でいいだろ」
「参謀に頼まれたんぜよ。こないだ青学に偵察に行ったとかなんとかで、忙しいんじゃと」
さっきまで直立不動だった姿勢はどこへやら、ベッドを囲むカーテンに隠れていたパイプ椅子を引きずり出して勝手に座る。どさり、と荒々しい音を立てて。
「いい機会だから俺を嘲りに来たということかい?」
「ほう。随分荒んどるみたいじゃのう」
「お前が悪趣味だからだろ。真田になるなんてどうかしてる」
「俺が俺のままで来ても入れてくれんじゃろ」
言われた言葉が図星をついて、腹立たしくて体を倒した。窓も仁王も見ない。視界には不思議な模様をした天井があるだけだ。
「帰れよ」
それだけ言って目を閉じる。俺は真田ほど仁王を嫌っていないけれど、だからといってこんな場所で会いたい人間かと問われればそうではない。仁王だって決して俺を好んではいないはずだ。
けれど何秒数えても立ち去る気配がなくて、薄っすらとベッドサイドへ目を開いた。そこにあるのは、哀れみでも嘲りでもなんでもない、ただ俺を見下ろす無表情がある。
「……なんだよ」
いたたまれなくなったのは俺の方で、入らない力を振り絞って体を起こす。せめて同じ目線でと思ったのだ。見下されるのは本意でない。
「嗤うなら嗤えよ。そのために来たんじゃないのか」
息が苦しい。体を折ってしまう俺の背に仁王の手が添えられる。
「違うって言うとろうが」
あまりの屈辱に縋るものがなくて窓を見た。常緑樹はずっと変わらない。何ヶ月も前から変わらない。
「仁王……仁王、いまは、春だよな」
「ああ、そうじゃな」
「違うんだよ。冬の間はまだよかったんだ、世界は灰色で正しいから。でも、春は違うだろう? もっと色んな色が溢れて、眩しくて……」
「幸村、」
咎めるような仁王の声が響く。わかってるんだ、お前、こういう空気、嫌いだろ? だからだよ。
「違うんだよ」
ああ俺はどうしてしまったんだろう。どうなってしまうんだろう。こんなところでこんなことをしている場合じゃないんだ。早く治して全国三連覇を果たさなければ。思えば思うほど体が動かなくて叫び出したくなる。そして叫ぶ力もないことを知るんだ。
「ああ、違う。お前はそうやないぜよ。しっかりしんしゃい」
少し大声を上げただけで発作みたいに上下する背を擦る手が温かい。仁王って体温が低いんだ。そんな手でさえ温かくて涙が出そうだなんて本当に俺はどうかしている。