大柴ハピバ
――テメェの馬鹿はいつまで経っても直んねえな
――んだと!?
――鏡見てこいよ、顔に馬鹿って書いてあんだろが!
包丁の裏で叩く肉は、父親が奮発して買ってくれていた豚ではなくて牛だ。同じタンパク質なのだから安いほうがいいだろ、なんて言ったってあいつは聞きやしない。つきたい悪態を抑えて力任せに叩くと、塩胡椒の香ばしさが広がるからたまらない。
喧嘩なんて珍しくないから理由をいつも忘れてしまう。久々の有給を浮かない気分で過ごすハメになるなんてなかなかやってくれる。牛でも喰わなきゃやってられねえ。
赤ワインを振れば、一瞬炎が上がった。居住人数に見合わない4LDKの部屋に香ばしさが一層深みを増す。
「俺、やっぱり天才かな」
なんて。
喧嘩をする度、あいつはもう帰ってこねえんじゃねえかって、湧き上がる気持ちを人は不安と呼ぶのかもしれない。俺は不安だ。同じピッチで駆け回っていた頃も、合鍵が手に馴染んだ今でも。
不安な夜を乗り越え、同じ部屋に帰ること7年か。三十路も目の前だ。帰ってこない日が今日だっておかしくない。頭の代わりにフライパンを振る。
喧嘩の理由は覚えていた。悔しいから悪癖みたいに忘れたフリをしているだけだ。なんでもすぐに忘れちまうあいつの脳みそを、どれほど羨んだろう。
「……そろそろか」
ほどよいウェルダンを確認して火を止めた。冷蔵庫を開ければシャンパンの温度がひんやりと掌を冷ます。
――今日の休みを手に入れるために一ヶ月前から仕事の算段をつけていたなんて、あいつには考えも及ばないんだろうな。
「ただいま」
玄関の物音と共に聞き慣れた声が響いた。想定より思い切り振り返ってしまい、廊下の長い高級マンションに心底感謝した。まだ数秒、リビングの扉が開くまで時間がある。
「おい、聞こえねえのか」
「ああ、おかえり」
誕生日おめでとう、なんて言ってやるか、馬鹿。