即興小説ログ「都合のいい男」※お題:人妻の人
馬鹿だ馬鹿だと思っちゃいたが、ここまで馬鹿だとは思わなかった。
「テメェはなんもわかってねぇな。出会うのが早いか遅いかだけの違いだろうが」
そんな風に吠えていたのがいつのことだったか。
「あいつは確実に俺を選ぶんだよ。なんせ俺だからな」
親指立てて自分を指して、自信満々に口角を上げる馬鹿をお前らしいと思ったことは認める。せいぜい痛い目見るがいいさ、そう思ったことも認める。
けれど、雨降りの野良犬よろしく項垂れるこいつを見るなんて、誰が予想しただろう?
「つまりテメェは馬鹿なんだな」
「うるせえ黙れ、殺すぞ」
何年も前から聞き慣れた品の欠片もない口調に怒ってやるのが優しさなんじゃないか、そう思うくらい口調と裏腹に弱っている喜一はレジの前でそれでも仁王立ちしていた。店全体が見えなくて店番の俺はもちろん辟易した。誰か後ろでレジ待ちしてんじゃねぇだろうなと思って首を伸ばす。誰も待っちゃいねえ。舌打ちが漏れた。
雨の中傘もささずに現れた喜一が言うにはだ。かねてから旦那がいるとわかっていた女に入れ込んだ挙句、向こうの家族にバレて女に裏切られ、実家や本人の足元を見られてそれはものすごい慰謝料を取られたと、まあ要約すればそういう話だった。
よくある話といえばそうだし、馬鹿にしか起こらない話といってもそうだ。
「で、なんだよ。まさか報告に来たってーんじゃねぇだろうな?」
「は、馬鹿言ってんじゃねぇ」
「じゃあなんだよ。なんか買うのか?」
立ち上がったって到底届きようのない目線を見下ろすことは何年も前に諦めて、その代わり座った体勢から思い切り睨み上げる。体躯ばかりはいつも通り忌々しいくらい威風堂々としているのに、眦にいつもの力はない。それが俺を苛立たせる。
「俺はやめとけって言っただろが」
「貴様の助言は聞かん」
「ああそうかよ。それでどんな目に遭った?」
ぐぬぬ、と音が聞こえそうなくらい拳を握りしめる喜一にいっそ興醒めさえ覚える。このくらいで言い負けんじゃねぇっつの。
「……クソが」
胸ぐら掴んで引き寄せて、喧嘩を売るように口付ける。至近距離で合った喜一の目が一瞬見開かれ、眉間に寄った皺で少し力強さが戻ったかと思った途端に後頭部を掴まれた。侵入する舌が気持ち悪いと同時に遮るレジ台が邪魔だ。そうしたらどうだ、長身の喜一はレジ台なんてまるで存在しないかのようにひょいと乗り越えてくる。そのまま体重をかけてくるものだから椅子が倒れて派手な音がした。畜生、親父が降りてきたらどうすんだ。
何度も角度を変えて深くなる口付けと、肩甲骨に当たる硬い床と。雨に濡れた前髪が額に雫を落として思わず体が揺れる。
「人のモンが欲しかったか?」
溺れてやるのが悔しくて、離れ切らない距離で嘲るように囁いてやる。あからさまに不快を表情に刻む喜一が愛おしくて、これだからこいつはやめられない。
「アホか、俺は物乞いなんてしねえ」
「金持ちの発想だな。死ね」
わかってんだよ喜一、お前結局帰る場所はここしかねえんだろ。それでも誰のものでもない女が相手ならもしかして、って思っていたんだいつも。人のもんに熱中してる間俺の心が少し穏やかだったなんて言ったら、お前勝ち誇ったように笑うんだろうな。