どこまで行っても俺は俺でお前はお前や。せやのに一箇所だけ繋がれるとこがあるやなんて、神様も酷なことしよるもんやな。そう思わんか?千歳。
Chapter 1. WRONG DIRECTION
「今日はここか」
いよいよ強くなってきた日差しは木立に拡散されて優しい。それでも降りしきる蝉時雨は校内より一層激しく、体感温度を上昇させる。
脱ぎ散らかされてあらぬ方向に倒れる鉄下駄を見やって、溜息が漏れる。こんな時間は無駄や、と思う。白石は潔癖なまでに無駄を嫌う。
「おはよ、白石」
「おはようちゃうわボケ」
無駄な時間を使わせた男は持て余すほどの長身を優雅に横たえ、まるで悪びれもしない微笑みを白石に向ける。結構な身長差があるのに見下ろすことに違和感を覚えないのは、つまりこういったシチュエーションが日常化していることを示す。そのことに思い当たってまた白石は溜息を吐く。
「そぎゃん溜息ばっか吐きよったら、幸せが逃げっとよ」
「誰のせいやねん」
凄んでみても効果がないことはわかっている。早よ起きろや、知らず低くなる声を抑えられず白石は苛立つ。
「部活始まるで、千歳」
急かす白石をよそに、千歳は”でかい”と称される体躯を更に伸ばしてうーん、と唸る。それから漸く勢いをつけて上半身を起こした。そんなことが自然にできる程度には鍛えられた筋肉を持っている。
「また見つかっちしもたばい」
アホ、と毒付いて白石は踵を返す。体を起こすところまで見届けると、あとはきちんとついてくることを知っていた。
本当にサボるつもりならば、千歳は白石が探す領域になど留まらない。学校の中庭や屋上、裏山くらいまでは探索範囲で、元より無駄を嫌う白石はその範囲に千歳が居なければ潔く諦める。携帯は大抵の場合意味をなさない。故意にではなく、電池が切れていることがほとんどだ。そもそも部活前にそんな探索をすること自体白石の完璧なスケジュールに組み込まれる謂れはなかったのだが、根が生真面目な白石はそれも部長の務めだと誰に言われるでもなく習慣にしていた。
「今日は暑かね」
鉄下駄を履き直した千歳は、元来の高身長を更に嵩増しして二メートルを超える。隣を歩く白石はそれでも百八十近くはあるが、並ぶと肩を超えるかどうかだ。話すにも見上げ続けると肩が凝るから、と白石はいつも前を見たまま千歳と話す。千歳にしたって人と目を合わせて会話することにこだわりなど持っていない。現に今も飛び立つ鳥や場違いに咲くヒナゲシなんかを眺めている。
「お前今日ダブルス練習な」
「誰と?」
「俺」
「そりゃ楽しみばい」
相手は誰ったい?空気だけで笑っていることがわかる。木立に遮られた穏やかな日差しと千歳の鉄下駄が抉る土の音が心地良い。何だかんだでこの時間を嫌っていない自分に気付いて白石は軽く肩を竦める。随分とほだされてしまったものだ。
裏山の優しさを知っていれば、コートに容赦なく降り注ぐ陽光は必要以上に体力を奪う気がする。
「白石、任せんね!」
「頼むわ!」
白石も千歳も、オールラウンダーであるが故に前衛・後衛は選ばない。お前が前におったら邪魔でかなわん、という白石の一言でポジションは決まった。
後衛の千歳が放った打球は綺麗な放物線を描き、ネットを挟んで立つ財前の後ろ、忍足の逆サイドに吸い込まれる。ここしかない、というポイントだ。けれどそれでは決まらない。駿足の忍足が間一髪拾い上げ、それなりの速度を持って返って来たボールを今度はポーチに出た白石が捉える。フォローに動いた財前の逆を付くドロップボレー。殺された勢いのまま、ボールはコロコロと力なく転がった。
「ゲームセット、ウォンバイ白石・千歳ペア!」
審判の声が響いて下級生の歓声が上がる。レギュラー同士の実践練習はギャラリーも増える。
「やっぱ白石のテニスは完璧ばいね」
「当たり前やろ」
彼らがコートを後にして、入れ違いに次のペアが入る。
「ナイスゲームや、千歳」
水分補給のため水飲み場に向かう道すがら、ハイタッチを交わした。双方とも思い通りのゲームメイクができた納得のいく試合だった。
「久々のダブルスやったばってん、おもしろかね」
直射日光の当たる水道から出る水は夏の訪れと共に温くなる一方だ。千歳は特に気にすることなく喉を鳴らして渇きを癒す。白石はその色褪せたコンクリートにもたれ掛かり、持参したミネラルウォーターを飲んでいる。
「獅子楽んときてシングルスばっかやったん?」
「半々たい。二年やったちいうのもあるし、桔平と組むごたる多かったとよ」
桔平、という名前に白石は少しだけ反応する。顔を洗う千歳は気付かない。
「やっぱ相性よかったん?」
どやろね、蛇口を閉めて水気を払う。
「親友やったけん息は合っとったと思うとよ」
ふーん。タオルを持たない千歳に白石が予備を投げつける。ありがとう、千歳は笑う。
「ばってん白石のがやり易かね」
「そうか?」
「桔平のプレイスタイルは独特やったけん」
そう言って千歳は慈しむようにどこか遠い目をした。そんな目してよう言うわ、白石は気付かれないようまた溜息を吐いた。蝉の声が煩くまとわり付く。
千歳には帰る場所がある、というのは近頃白石が自分に言い聞かせ続けていることだ。どこか根無し草のように放浪を繰り返す千歳を、どうしようもなく繋ぎ止められるのが自分たちでないことくらい白石には痛いほどわかっていた。そしてその帰る場所というものが、頻繁に帰省する彼本来の家庭ですらないことも知っていた。彼が妹を大事にしているだとか、故郷にいる友人と今でも連絡を取り合っているだとか、そんなことは白石にとってさして重要ではなく、彼が例えば自分と忍足のやり取りを眺めている時なんかにそれを苦しいほど実感するのだった。
千歳が帰りたいのは家族でも故郷でもない。それはもはや概念へと昇華しつつある過去の幻影だった。昨年の全国大会で見た、九州二翼と呼ばれた千歳の相棒、その片翼のことを白石は朧げに思い出す。千歳は彼に関して多くを語りはしなかったが、時折思い出したようにその名を口にする。今のように遠くを見るその先に、確かな幻影をいつも感じた。
だから千歳の姿が見えないと、無駄な時間だと知りつつも白石は彼を捜した。勝ったもん勝ちというスローガンを達成するコマとしてではなく、圧倒的存在感を放ちながらもどこか希薄である彼自身を、失いたくないと思い始めている自分に随分前から気付いていた。
部活が終わり、チームメイトは次々に部室を後にする。ほなお先、とかまた明日、と掛けられる声に逐一返事をしながら、白石は黙々と部誌を記入し続ける。
最後の一人だった小石川が去り、いつも煩いほど騒がしい部室に沈黙が降りた。そして突然白石は自分の体が拡散しているかのような感覚に襲われる。いつもは狭いと思うのに、ある程度の人数を収容できる部室は一人でいるには持て余す空間で、バランスが上手く取れないのかもしれない。
「……あいつ、何してんねん」
押し潰されそうな空気に耐え切れず、声を出す。あまり正しくは響かなかった。
どこに居ても目立つ長身の千歳は、きちんと最後まで部活に出ていたにも関わらず部室に姿を見せていない。白石は待っていた。全員の帰宅を確認しなければ鍵をかけられないというのも一つの理由だったが、それだけではないと自覚している。
時計を見遣ると六時半を回っていた。いくら日の長い季節といっても窓から見える空の明度は刻一刻と落ち続ける一方だ。
「……探すしかないな」
本当はとうに書き終わっていた部誌を閉じて立ち上がる。今度はいつも通りの声が響いた。扉に手を掛けて押すと、しかし存外感触が軽かった。
「千歳」
そこにはユニフォームのままの千歳が飄々と立っていた。
「白石、もう帰ると?」
「いやお前おらんから探しに行くとこやってん、着替えもせんとどこ行っとったん」
「部室裏にむぞらしか猫ばおったけん、夢中になってしもたとよ」
お前なあ、と白石は呆れたように溜息を吐く。
「俺が鍵閉めて先帰っとったらどないすんねん」
「そんときはそんときばい」
完璧主義の白石にとって、こういった千歳の物言いは時折酷く腹立たしく感じる。その腹立たしさの正体が長い間わからずにいたが、たぶんそれは羨望だった。その結論は一層白石を苛立たせた。
「もう帰るで、早よ着替えや」
はいはい、と笑いながらも千歳のペースは変わらない。
「今日、家来っと?」
ロッカーに手を掛けながら白石の方は向かずに千歳が尋ねる。
「……どっちでも」
何ねそれ、千歳は笑う。ええから早よ着替え、投げつけるように言って白石は窓の外を見る。空はほとんど夜に近い色に変わっていた。
約束はなかった。いつもそうだった。たまたま千歳が真面目に部活に参加して、たまたま最後まで部室に残っていたときの気紛れだった(部長の白石は常に最後まで残っている)。千歳が居ようが居まいがみんなでわいわい帰宅することの方が多かったから、頻度としては高くない。いくつかの条件が重なれば白石は千歳の家に泊まる。約束がないから予定としては成り立たない。
そのときはそのとき、なんて軽蔑していたはずの行動をしているのはどっちだと気付いて白石はまた溜息を漏らした。ほんまに幸せ逃げてまうわ、と今日の溜息を数える。数えている途中で、ところで幸せって何やろ、と考えてやめた。