アレグロ

2014/3/16発行
A5/28P/オンデマンド/300円

U-17合宿直前、シリアス
燃え尽き症候群だった白石と、待っていた千歳の話。

 

▼サンプル

 最初に耳を撫でたのはささやかな水音だった。
 白石ははっとして目を開いた。ほとんど闇だった。光源のわからないほんの微かな薄明かりだけが靄のように立ち込めている。わずかな光を受けてちらちらと模様が揺れたから、水音はそこから響いたのだと知れた。果ては見えない。海だろうか、と思う。けれど潮の香りがしない。
 後ろを振り返った。正面と違って、そこは完全な闇に沈黙していた。確か坂だった、と思う。直感でわかった。長い長い坂道を登ってきたんだって、記憶でなく足にまとわりつく疲労が告げた。
 ぴちゃん、と、もう一度、今度ははっきりと飛沫の跳ねる音がした。正面に向き直ると、どこから落ちてきたとも知れない僅かな水滴を起点に波紋が広がった。まったく欠けることのない正円が何十もの層を作って静かに水面を揺らす。
 白石は何も身につけていなかった。何も持たない、生まれたときの姿で、ただじっと繰り返される幾何学模様を眺めていた。
 ふと腹のあたりに違和感を感じた。何だろうと思って見下ろすと、眼前に拡がる水面から、太くも細くもない管が伸びている。それは真っ直ぐに臍へと繋がっていた。触れるとひどく柔らかい。左手で握り込むと拍動があった。何かが流れている。
 その紐に力が加わった。とても弱い。ともすれば気付かないほどの力なのに、どうしてか抗えなかった。ばちゃん、と水面を打って、いとも簡単に白石は目の前の水たまりへと落ちた。
 無数の泡沫が頭上へと立ち上っていく。包まれた液体はひどく温かい。
 生命を生む、原始の海。どうしてか懐かしいような。
 呼吸は必要なかった。不思議と苦しくなかった。
 薄い光はまたたく間に遠くなった。臍から伸びる管にはゆるやかな引力がかかり続けている。本物の闇の中、音もなく溺れていく過程に底知れない恐怖が募る。
 どこまで沈むのか、少しは抵抗するべきなのか、考えたって力は入らない。この温度を心地良いとも思うし、一方で闇を恐ろしいとも思う。おまけにひどく眠い。疲れているのだ、と思った。いっそ目を閉じて永遠にこの液体の中で眠ってしまおうか。それはとても素晴らしい考えに思えた。
 ——かえんの?
 どこからか声が聞こえた。聞き覚えがあった。
 ——しょうもな。
 そうじゃないって、気付いてすぐに音源を探した。その声は聞いたのではない。いつも声帯から直接響いていた、それは白石自身の声だった。
 ——そんなんお前らしないやろ。
 強烈な光が射した。目を開いていても閉じていても関係のないような、ただ一瞬の翳りすら許さない閃光が闇を焼く。嘘みたいに腕が、脚が、軽くなる。意志が全身に伝わる。手を伸ばした。きっとあれだ、あれが行きたかった場所で、居たかった場所だ。絡みつく管が煩わしくて引きちぎる。そこから漏れだしたのは濁った液体で、けれど泳ぎだす白石の速度を前にその色は一瞬にして溶けた。
 後ろは見ないで、まっすぐ前へ。もうすぐ届く。そう思った。

 がくりと身体が揺れた気がして開いた視界がぼんやりと滲む闇しか映さなかったことに、白石は正直に戸惑った。あれ、どうしてだろう、何かとても明るいものを見つけた気がしたのに。身体から力を抜いたら左腕がぽすんと落ちた。腕を伸ばしていた、それはどうやら現実らしかった。
くすぐったい。拡散していた意識を拾っていくと、腹の辺りにおかしな感覚があった。不思議に思って視線を下ろせば、蠢く影がひとつある。微かな驚きと共に夢はすぐに消えた。数秒のあとには夢を見ていたことさえ忘れていた。
「え、ちょ、なにしてんの」
「ん?」
 白石の声に反応して千歳が顔を上げた。中途半端に伸びた髪が脇腹を掠めて、意識の外で身体が揺れた。服を着ていないから遮るものが何もない。いつの間に脱がしたんだと毒突きかけて、そういえば最初から着ていなかったんだと白石は思い出した。
「ん? やなくて……あっ」
 ひとときだけ視線を白石に送った千歳は中途半端に被った布団の奥へと引っ込んで、それから躊躇いもなく白石自身を口に含んだ。知らない間に勃たされていた性器に血流が増して、白石の意識だけが置いてきぼりを喰らう。這い回る舌に自分の形を思い知らされるのはひどく悔しかった。
「ちょお、やめ……って、なあっ……」
 覚醒させられて間もない意識と、少し早く起こされていた快感が噛み合なくて戸惑いだけが募っていく。遠ざけようと手を足を使って押し遣ったって千歳はびくともしない。質量の差だってわかっているけれど、わかる分だけ悔しくなる。
「ほんま……あっ、あっ……!」
 抵抗に少しも構うつもりもなく口の中に含んだものを吸い上げる千歳の、ちょうど下唇の辺りが白石の敏感な場所を辿った。白石は意志と関係なしに耳を塞いだ。それが余計に脳内へと快感を響かせるものだから、まったくもって失敗だったと気付く。抵抗が弱まったことに満足して千歳は好き勝手に口を動かした。
「や、やって、ほんま、あっ……あっ、」
 まだ眠りの残渣の残る思考は簡単に崩されて、千歳の舌は白石を知り尽くした高みへと簡単に押し上げる。塞ぐことをやめた耳にはわざとらしい水音が届いた。
「や……あ、う、やっ、あっ、……ああっ!」
 たったの一瞬、世界の全てが消え失せたと錯覚する圧倒的な解放があって、ぎゅっと閉じた瞼の裏で白い闇が弾けて散った。鼓動が、鼓膜ではなく身体の底から響いた。まるで鐘のように。
脈と同じ速度で精を吐き出す器官は未だ千歳の口内にあって、徐々に戻ってくるものはどこまでも沈んでいくような怠さと悔しさだった。白石はそっと目を開いた。それとほぼ同時、ようやく身体を起こした千歳が天井を覆った。
「さすがに薄かね」
 すっかりとただの薄闇に戻った視界、決して直接的ではない、カーテンの向こうから滲む頼りない街灯の光を受けて千歳が口の端を舐めた。光る液体が千歳の唾液なのか自分の精液なのか、考えるだけで嫌になって白石は目を逸らした。翻弄されるのは好きでなかった。
 汗と湿気を存分に吸い込んだ薄い布団は決して寝心地がいいわけではなくて、それでも達した揺れ戻しに沈む白石はもう一度眠ってしまおうかと目を閉じた。そのすぐ傍、枕の隣に千歳は右手を降ろした。それから、ほとんど眠りに呑まれかけている白石に気付いていないわけはなかっただろうけれど、少しも躊躇わないで左の指先を白石の性器の更に奥へと潜り込ませた。白石の身体がぴくりと揺れて、重い瞼が少しだけ開く。
「まだやんの?」
「ん」
 眠る前に散々拡げられたそこは、残っていた体液を助けにすんなりと指を受け入れてしまう。躊躇なく分け入る千歳の指は正確に白石の弱いところを知っている。強制力の強い眠気が絶え間なく意識を襲うのに、身体だけがまったく別の反応を見せる。
「も、ええやん……っ、さんっ、ざんヤっ……あっ」
 ほとんど必要のない前戯はすぐに終わって、千歳は遠慮なく自身を宛てがった。疲れ果てた白石に緊張が走る。強ばった分だけ痛みが増すと随分前から知っているけれど、その瞬間だけにはいつまで経っても適応することができなかった。
「眠かったら寝てたっちゃよかよ」
「え? なに……」
 ふと動きを止めた千歳が白石の頬を包んだ。身体の分だけ大きな掌はひどく優しい温度をしていて、ほんの束の間、時間が動きを止めた。
 白石の力が抜けた、その瞬間を千歳は逃さない。掴んだ腰を引き寄せて一気に貫く。
「ぅあっ! あっ、ああっ、……っ!」
 押し入った質量は、そのまま容赦なく律動を始める。圧迫感と、微かな痛みと、増すばかりの快感にすぐに何もわからなくなった。

(中略)

 テニスをしているときの、少しだけ浮遊した、透明な意識が好きだった。
 落日の軌道で振り下ろしたラケットの、その先から放たれる直線より美しいものを知らなかった。勝つか負けるか、ギリギリのところで研ぎ澄まされる意識の明瞭さ、正しく取り込まれる呼吸、自分の確実性について常に裁かれ続けるような、誤摩化しを許されないコートの上では他のどんな場所よりも生を実感できた。
 余った時間は全て基礎に費やし、勝っても負けても徹底的にイメージ通りでなかったものを洗い出し、イメージと体躯の両方に修正を加えた。その頑迷さはときに不要な心配の声を拾ったけれど、どれも白石にとっては雑音でしかなかった。やがて人々が口にする「完璧」という言葉でさえノイズのひとつとして処理された。
 完璧は確かに白石の目指したものだったけれど、完璧を目指すことと完璧であることはまるで違っている。完璧というのは概念だ。果ての存在なんて認めた瞬間きっと踏みしめた地面ごと崩れて朽ち果ててしまう。完璧なイメージを描いてただそれを一心に辿り続けていく。立ち止まれば勝てないと、勝ち誇れば果ててしまうと、そう信じて止まなかった。それが白石の強さだった。
「白石は危なっかしかねえ」
 出会って間もない頃、千歳がそんな風に白石を評したことがある。
「なんも迷いのなかけん、自分が死んでも気付かんのじゃなかと?」
「そうかもしれんなあ」
 白石は笑って答えた。偽りではなかったと思う。
「妥協して生きていけるほど器用やないねん。それで死ぬんやったら、それまでのもんやったってことやろ」
それが白石だった。

 白石の中で何かがぷっつりと音を立てて途絶えたのは、決して負けたその瞬間ではなかった。その時点では白石はまだ正しく四天宝寺の部長であったし、やるべきことが沢山あったから、心の真ん中にぴんと張った糸は少しも張力を変えなかった。悔しがる部員を笑顔で励ます余裕さえあった。最後まで完璧で強い自分でいようとするその在り方はまったくもって白石らしい判断だった。描いたイメージを忠実に辿る、テニスと同じ要領で白石は自分を演じきった。
 そして、全てが終わって、一人、また一人と帰路につく部員を見送った後のことだ。人の行き交う新大阪駅、コンコースのど真ん中で白石の動きはすっかりと止まった。
 全ての音が止み、視界は霞み、四肢のどこにも意志が届かなくなった。それまで抱え込んできた緊張感や責任感や重圧感がすっと霧散して、一切の張力がゼロへと帰した。
「白石」
 どうしてそのとき千歳がまだ解散場所に留まっていたのか白石は知らない。たまたま出遅れたようでもあったし、待っていたようでもあったし、帰る場所がひとつもなかったようでもあった。とにかく彼らは二人きり残されていて、顔を見合わせて、消去法で笑った。
「帰らんと?」
「自分こそ」
 平然を装おうとしたけれど、声が掠れてうまくいかなかった。白石は途方に暮れて、せっかく浮かべた笑みも消してしまった。見上げなければ目を合わせられない千歳の高さに疲れて視線も落とした。別に目を合わせる必要なんてこれっぽっちもなかった。見るべきを失い、千歳の、ボタンを止められていないYシャツの胸元にのぞく幾何学模様をぼんやりと眺めた。
「帰りたくなかと?」
「別に、そういうわけや……」
 ない、という語尾はほとんど消え入っていた。帰りたくないんじゃなくて、たぶん、帰れない。それをうまく伝えられる気がしなくて、重い、自分のものでないような右腕をようやく動かして千歳のYシャツを掴んだ。
「帰らんとなら、じゃあ、うち来っと?」
 暫し間を空けて、白石は下を向いたまま小さく頷いた。特に深く考えて出した答えではなく、ただここで千歳に連れ出してもらわなかったら、もうどこにも行けないと足が訴えていた。
 千歳はシャツを力なく掴む白石の指先を外し、そのまま握った。引きずられる要領でようやく白石の足は動いた。