遭難
A5/48P/オンデマンド/500円
原作沿い、初夏~全国大会、シリアス
自分で精一杯の二人が身体の関係はありつつも互いの領域に踏み込むことはせず、それぞれの全国大会を終えて、とほうにくれた挙げ句「テニスしようぜ!」となる話。
▼サンプル
『ゲームセット、ウォンバイ毛利! 6ー0』
硬質な審判の声が響き、会場が湧いた。オレンジに黒のラインの入ったユニフォームが歓喜に彩られ、黄と緑をしたユニフォームが色褪せる。
「決まったばい」
「ああ」
どちらの領域でもない、一般観覧席で彼らは簡潔に事実を語った。着込んでいるのは水色と白のストライプ柄のユニフォームで、片方の髪は明度の低い藍色、もう片方は太陽光を存分に跳ね返す金色だ。簡潔に言って目立つ。
立ち上がってアリーナへの通路に向かう彼らに、「九州二翼だろ、あれ」という囁きが投げ掛けられる。彼らはそのどれにも一切取り合わなかった。
「やっぱ立海やったばいね」
「まあ、順当な結果ちゃろう」
圧倒的強さを見せつけたオレンジ色のチームを講評しながら、青い髪をした背の高い方、千歳は何とはなしに、黄と緑に飾られたベンチを見遣った。その彩度の高さに似合わず包み込む空気は重い。テニスが勝敗を分ける目的を有する限りそれはとてもありふれた光景だった。誰かは勝ち、誰かは負ける。別段同情を感じるほどでもない光景で、千歳は整列に向かうレギュラー陣をぼんやりと見定める。
「……お」
その中に、何やら目を引く選手がいた。色素の薄い髪に目が行ったのが最初で、次に指先から間接の辺りまでぐるぐると巻かれた包帯。ベンチから立ち上がり、歯を食いしばってじっと目を閉じている。泣き出すのかと思ってにわかに歩く速度を緩めてみたが、開いた目は存外鋭い色を宿し、迷いの無い直線でコートへと歩き出した。強い。
「桔平、あれ、誰か知っとっと?」
視線はアリーナへと向けたまま、先を歩く金髪の相棒に尋ねた。彼は立ち止まり、千歳の目線を追う。
「どれね?」
「あの、包帯巻いとう子」
千歳が日焼けした手で目線の先を指差すと、正しくそのベクトルを追った彼が、ああ、とひとつ頷いた。
「部長の白石っち奴ばい。去年の新人戦で話題になっとったとよ。知らんと?」
「知らん。去年の新人戦ちこつは、タメと?」
「タメばい。やけん、来年も出てくっとやろ」
「ふーん」
二年生で部長とはご苦労なことだ。自分ならば頼まれてもそんな面倒事はごめんだな、と千歳は思った。
白石というらしいその選手はネット際の一番端に並んだ。千歳の場所からは顔がよく見える。敗退した選手にしては、ひどく尖った、鋭い瞳をしていた。負けた悔しさというよりは、敗退して尚消えない敵意を思い切り放出するような瞳だ。惜しいなあと千歳は思った。ああいう瞳をする奴は大抵本能を丸ごと揺さぶるような鋭いテニスをする。隣にいる橘と同じように。
「何ね千歳、気になると?」
「……別に」
行くぞ、と急かされて千歳はその場を離れる。彼らにも試合が控えていた。
千歳はその頃既に同年代どころか日本人の平均身長もゆうに超え、ありとあらゆる物事が面白いほど上手くいく環境を、当然のものとして享受していた。例として、年齢に制限のある行為を外部から咎められることもなかったし、身に覚えのない因縁をつけられても適当に腕を振り回せばそれだけで相手は怖気付いたし、少し街へ出ればいくらでも声を掛けてくる女達がいた。もちろんテニスに於いてもその天からの贈り物は効力を発揮し、ラケットを持って一年も経たないうちに、少なくとも地元に敵は居なくなった。
ただし、ただ一人、千歳と渡り合うだけの実力を兼ね備えた今隣にいる存在が、それも同じチーム内にあったので、すぐに情熱を失った他の競技とは違ってコートに立ち続けることを選んだ。千歳は無二のライバル兼相棒という存在も含め、何もかも満たされていた。だから白石というその線の細い少年の瞳に一瞬目を奪われたといっても、それは単にそれだけのことだった。
ただ、彼のテニスを見てみたかったとだけ、漠然と思った。
(中略)
「先に言うとくけどな、俺は何も持ってやらへんで」
最初の日、白石はきっぱりとそう言い放った。あまりに唐突だったので、半分ほど進めた腰は止まり、仕方なしに千歳は白石を覗き込んだ。きっと間抜けな顔をしていただろう。
「……どぎゃん意味ね」
「そのまんまや。お前が何背たろうてきたんか知らんけど、俺はそんなんに興味ないし、関わる気もあらへん」
白石の意味を探ろうとして、彼の視線が真っ直ぐに千歳の右目だけを捉えていることに気が付いた。通りで微妙に目が合わないわけだった。
「余裕もないしな。自分でいっぱいいっぱいや。背負うもんは自分で決めとる」
それでええんやったら、進めて。白石はそう言った。つまり、受容と引き換えの拒絶を提示しているらしい。
ふと、この大人びた子供はどのような人生を歩んできたのだろうか、と千歳は思った。白石を押し倒したのはほとんどが衝動で、拒まれればすぐに身を引くつもりだったし、求められてもやはり突き放して二度と触れないつもりだった。そのどちらでもない選択肢を平然と掴んだ白石を、面白いと思った。
「そぎゃんこつ、言われんでもそのつもりったい」
にっこりと笑って千歳は言った。
「そらええこっちゃ。自分もそういうタイプやもんなあ」
それでもまだ止まったままでいる千歳を見上げ、白石は言った。その言葉には存分に挑発の色が籠められていた。
「言う通りばい」
そう言えば白石は笑った。嗤ったと表現しても差し支えなかっただろう。
どうやら目の前の少年は、華やかな外面の割には、温室育ちというわけでもないらしい。少なくとも千歳がこれまで出会ってきた人間のうち、同世代で、自分の許容量を決めている者はほとんどいなかった。彼らはまだ一人でなんでもできると思い込んでいて許されるはずで、事実少し前までは千歳自身もそうだった。
早熟と言えばそれまでの話だが、そうはいかない人間もいる。きっと白石もそうだったのだろう。だからと言って千歳はその内訳を聞いたりはしない。他人より早熟であることはとても不幸なことだ。大人になれば嫌というほど見なくてはならない腐った世界をその目に映す作業は、意識が把握できる階層より更に深い心を抉る。不幸を共有する趣味など千歳にはなく、白石にもないのだと先程聞いたばかりだった。
「そんなら、よかとね」
「うん」
そんな始まりだった。そこには必然もなければ、ただ一欠片の感傷さえなかった。
「……っあ、」
白石の唇から甘い吐息が漏れたのを、千歳の耳は逃さなかった。人より聴覚がいいなんて自信があるわけではないけれど、半分しか使えない目と比べればその働きようは比にもならない。
「チッ」
その声を特に揶揄するでもなかったが、白石は千歳に拾われたことを敏感に感じたのだろう、盛大にガラの悪い舌打ちで掻き消した。
可愛くない。正直言って萎える。
白石は別に千歳を満足させるために抱かれているわけではないのだから特段構わないのかもしれないが、それにしたってもう少し楽しむでも何でもすればいいのに、と千歳はほとんど呆れた気分で溜息を吐く。その溜息を聞きつけた白石はギロリと例の鋭い視線で千歳を刺す。
「なんやねん」
「そぎゃん我慢せんでもよかろ。俺しか聞いとらんとよ」
「アホか、それが我慢ならんねやろ」
忌々し気に千歳を睨みつけた白石は、はよせえや、とやはり欠片も可愛くない態度で自らの腰を軽く揺すった。それで千歳は自分の動きが止まっていたことに気付き、ほぐれた白石の内壁を擦る作業を再開させた。
どうやら、白石はセックスを喧嘩か何かと勘違いしているらしい。そうでなければ試合か。吐息一つ漏らすことを自らに許さない白石を哀れに思う。まるで世界には敵意しか存在していないとでも言いたげな態度だ。だからと言って、自分達のセックスが何を根拠としているものかは千歳にも判別がつかなかったので、白石に間違っていると教えてやることもできないのだったが。
そんなに堪えなくたって、千歳はどうせ白石の吐息など気にも留めない。白石を抱いていても駆け巡るのは記憶の光景ばかりだ。何もかもがうまくいっていたあの頃。世界は明瞭な輪郭と奥行きを持って存在し、隣には気の置けない親友が居て、不満など何一つなくて、こんな風に何も生み出さない行為に八つ当たりする必要の無い、自分のどこを見たって欠けている部分などなかった日々。
「はっ、はっ、」
白石とは違って、特に遠慮することもなく千歳は短い吐息を発する。苛立ち、焦燥、痛み、満たされることを忘れた心がぽっかりと穴を開け、飢えている。底の無い沼から逃れようともがくように見当違いの熱を溜めて高めてぶつけて発散する。解放は一瞬だけで、根本的な乾きや喪失感が満たされることはないとわかっているけれど。
千歳が精を放つのと同時に白石も果てた。生臭い匂いと間隔の狭い呼吸だけが室内を支配する。ずるりと自身を引き抜いて、千歳はティッシュを探した。身体に負担を強いている分だけそれくらいは自分の役目だろうと思っていた。
「はっ……はははは!」
机の端に目当てのものを見つけて手を伸ばそうとしたときだ。突然白石が声を立てて笑い出した。壊れたように、どうしても堪え切れなかったというように。
「……なんね」
怪訝に思って千歳は白石を見下ろす。千歳の声に気付いた白石は笑いを止めないままで彼を見上げた。そうしておもむろに口を開く。
「難儀やなあ」
「何がね」
「自分、余裕ないにも程があるんちゃうん?」
ひとしきり笑った後で、唐突に白石は無表情に戻る。あー腰いた、とやはり色気の欠片もない声で小さく呟き、ミーティング用の机から身体を起こす。
「お前の元相棒、東京でテニスしとるんやてな。無名校で、ごっつ勢いで勝ち上がってるらしいやん」
謙也に聞いたわ、と言って白石はまた笑った。
なんだ、そんなことか。千歳は醒めた目で白石を見た。知られたところでそれが何だと言うのだ。千歳はそのニュースを聞いた日のことを思い出す。それが初めて白石を抱いた日だと告げてやれば、目の前の彼はもっと笑うだろうか。
「これが三分の一か? 残りの三分の一は何なんやろなあ」
「……さあ、何やろね」
それにしても安い挑発だ。いつも過剰なまでに千歳に踏み込みたがらない白石らしくない。関わりたくないと言ったのはそっちだろうといっそ責めてしまいたくなる。
白石は少し前の行為の余韻と、吐き捨てるような笑い声とで溜まった目尻の涙を乱暴に拭った。動かない千歳を見てふっと笑う。先程までとは種類の違う、やけに柔らかい笑顔だった。そして立ち上がって一歩千歳に近付く。包帯の取れかけた腕を千歳の首に回す。
「好きなようにしたらええよ、千歳。勝ちさえすれば俺は何も口出さんし。勝ったモン勝ちや。それだけ覚えといて」
白石はそのまま顔を近付けて触れるだけのキスをした。笑顔と同じ、わざとらしい優しさで。
「……うん、わかっとうよ」
すぐに身体を離した白石へと、千歳もわざとらしく微笑んだ。言われなくてもわかっている。もちろん勝つ。自分の、自分だけの目的のために。
——夏はまだ遠い。