季節の灯
A5/40P/オンデマンド/400円
CPなし、U-17合宿、シリアス
仁王くんが201号室の人々との対話を通して全国大会決勝シングルス2の反省会をする話。
▼サンプル
(1.幸村精市 より一部抜粋)
全国大会真っ最中に突如与えられた三日間の空白期間を、立海大附属中学校男子硬式テニス部が見過ごすはずもない。彼らは決勝行きを決めたその日にも、会場から二時間近くかかる学校へ戻り、いつも通りの練習を行った。勝利は当たり前で日常でなくてはならなかったので、祝勝を口にする者など誰もいなかった。
その練習もとうに終わっている。幸村が向かったのは誰もいなくなった部室だった。彼は仁王にもう一度着替えろと言い、ラケットを持てと言った。仁王がその通りにすれば、今度はコートに入れと言った。
「どういうつもりじゃ?」
ネットを挟んで向かい合う幸村に尋ねた。幸村が西側のコートを選んだので、やはり彼の輪郭は滲んでいた。
「仁王、俺を騙せるかい?」幸村が言った。
「……は?」
「試しに真田になってみて」
「何を言うとるんじゃ」
「いくよ」
突如インパクト音がして、踏みしめた地面が揺れた。少しの身動きもできなくて、ネットの向こう側にいる幸村のシルエットを見て初めて仁王はボールが打ち出されたことに気付いた。後ろを振り返れば、幾度か跳ねたらしいボールがコートを囲む緩やかな傾斜を駆け上がり、やがて音もなく止まった。
「早く構えなよ」
そう言って幸村は次のボールを取り出した。仁王はひとつ溜息を吐いて、意識を集中させる。幸村の要望通り、真田弦一郎を構成する要素を片っ端から集め、身に纏う。人間の錯覚は素晴らしいと仁王は思う。周囲の人々と、そして何より自分の意識を騙す。
真田の目は幸村から放たれたボールを見逃さなかった。確実に捕らえ、真田のやり方で幸村の元へと返す。幸村は見定めるように、あらゆる角度、スピードで次々と打ってくる。
「……うん。確かに、真田の重さだね」
何度かラリーを続けた後、決して遅くないボールをいなし、垂直に跳ね上げて幸村は言った。その声には満足感があって、そっと仁王は胸を撫で下ろす。
「じゃあ次は、俺になってよ」
「……お前さん、」
「無理なの?」
仁王は溜息を吐く。幸村は譲るということを知らない。
幸村精市と打ち合うこと、化けた本人を騙すこと、そのどちらも決して簡単なことではない。そのような悪条件で、それでも仁王は茶番のように幸村を演じた。始めのうちこそうまくいったように思えたその演技は、次第にひび割れ、切り離されて、そうして底の見えない深淵を挟んで本物の幸村とすっかり乖離してしまった。そうなった頃には彼はもちろん幸村精市でも、おそらく仁王雅治ですらなくて、身体中のあらゆる感覚がばらばらと砕け、最後には何も感じなくなった。許しを乞うように膝をついた、その地面の感触ですら感じ取ることはできなかった。
呼吸もままならない仁王の傍で、何かがばさりと音を立てた。彼は明滅する視界を必死に安定させて音源を探した。そこにあったのは何枚かのDVDと、一冊のノートだった。
「……これは?」
「不二周助にまつわるデータだよ」
声は冷たく、頭上から落ちるように届いた。
「参謀か」
「ああ。試合会場から戻るまでの間でまとめてくれていたよ。尤も、関東後から作業は始めていたらしいけどね」
仁王は自由の利かない手でそれらの資料を拾った。パラパラとノートをめくれば几帳面な文字がぎっしりと詰め込まれていた。所々に簡素な図解もあった。
「赤也でもまるで歯が立たなかったと聞いている。俺がお前を選んだ意味、わかるね?」
頭上から降る幸村の言葉が脳内で反響を起こす。幸村の声には初めから人の神経を麻痺させるような響きがあって、身体中の感覚が浮遊しているようなこの状況では、もはや福音とも錯覚しそうになるのだった。
「幸いなことに三日ある。期待してるよ」
「……イエッサー」
そうして幸村は立ち去った。
すっかりと陽は落ちていた。仁王はごろりと身体を反転させて空を見た。反射する街灯のせいであまり正しくない宇宙の色をした夜空には、両手で足りるほどの星だけが瞬いていた。仁王はそれらを繋げて新しい星座を作った。
(2.不二周助 より一部抜粋)
部屋の中央にできたスペースへと不二がチェス盤を置く。続いてチャックを開けた袋を逆さにすればばらばらと白と黒の駒が散った。不二が黒のナイトを掴んで自陣へ置いたので、仁王は白のヴィショップを拾った。
「チェスは好きなの?」駒を並べながら不二が言った。
「別に」仁王はなるべく素っ気なく答える。
「いつからやってるんだい?」
「さあ、覚えとらん」
「元は誰の趣味だったの? それともオリジナル?」
仁王はポーンを並べる手を止めた。それに気付いた不二は手を止めずに、ああごめん、と軽い調子で言った。
「幸村が言ってたものだからさ。仁王は成り代わる人間の趣味とかも一通りやってみるんだ、って。チェスもそうなのかなって思って」
「……さあ、それも忘れたぜよ」
「そう」
駒を並べる手が再び動く。予備のクイーンが白の一つだけ余った。黒は失くしたのだと不二が言った。
「俺が白でええんか?」
整列の終わった駒を見て仁王は尋ねた。黙って不二が頷いたので、仁王も黙って左から四番目のポーンを進めた。不二がその正面へと黒のポーンを動かし、仁王は左から三番目のポーンで守る。淡々と、セオリー通りに駒を進めていく。
「へえ、結構普通の打ち方するんだね」
「まだ序盤じゃけえ」
「キミはあれ? チェス盤上でもペテン師なのかい?」
「……さあ」
不二がセオリーを少しだけ崩し、ポーンで攻めの一手を打った。仁王はそれをナイトで取る。
「お前さんはどうなんじゃ。チェスも天才か?」
「さあ? 天才の定義がよくわからないから、ボクには」
心からそう思っているというような声の響きだった。天才という称号は大抵関係のない外部から与えられるものだから、与えられ、それを享受してきた不二にとっては当たり前の感覚なのかもしれないと仁王は思った。
不二が進めるべき駒を決めあぐねていたので、仁王は並べられた植物を見渡した。手に届く範囲のものに触れてみる。葉の形はそれぞれに違って、花は咲いているものといないものがある。幸村によって半ば強制的に見せられた移ろう屋上の季節を思い浮かべて、冬の入り口で花を咲かせるものは少ないだろうことは想像がついた。
さらさらと、滑るように植物を撫でる仁王の指先が、やがて柱状の植物の生えた鉢へと行き当たる。表面にはびっしりと棘が生えている。幸村のコレクションにはなかったけれど、よく写真で見かけるからその植物は知っていた。サボテンだ。あの針は痛いのだろうかと少しの好奇心で触れかけた、そのときだ。
「触らないで!」
突然響いた声に仁王の体がびくりと跳ねた。
「あ、ごめんね大声出して。それ、ボクのだから」
「……すまん」
自分のものでなければいいのかとか、たとえば特徴的な針が危ないなんて親切心ではないのかとか、色々と思うところはあったけれどその全てを仁王は呑み込んだ。
「あと白石のも触らない方がいいよ。痒くなったり爛れたりする毒草ばっかりだし」
元の穏やかな声色に戻って不二は言った。そして仁王から見て右側のヴィショップを二つ進めた。いやに攻撃的な一手だったので、仁王はゲームに集中しようと植物から興味を逸らす。どちらかといえば面倒事を起こしそうなものには初めから触れない方がいい、という気持ちの方が強かった。
(3.白石蔵ノ介 より一部抜粋)
「うおっ」
突如上がった声に思わず仁王は足を止めた。
「ちょ、仁王クン来てみ!」
「……何ぜよ」
無視できない声量に渋々と、それでも足は動かさず、上半身だけを逸らして去りかけた列を覗き込んだ。白石は何かの木に目線を向けたまま、右手だけで勢い良く仁王に手招きをしている。純粋な好奇心だけに彩られた瞳が輝いて見えて、面倒くさいなあと思った。それでも覗き込んでしまった手前、もう一度白石の元へと戻る。
「鬼女蘭や」
「キジョラン?」
仁王に目線を向けないままで、白石は小さな木の一部分を指差した。その先には白く細い毛の生えた果実があった。白石というよりは仁王に近い白だった。
「種が爆発したらこうやって白い綿毛が出てな、それが女の鬼みたいに見えるから、鬼女蘭。ゆうて俺も実物は初めて見てんけど」
「ふーん」
白石の興奮を全く以て理解できないままに仁王は生返事をする。
「蔦に毒があんねん。これを幼虫のときに食うて、毒溜め込んで身を守る蝶とかもおるねんで」
「ふーん」
仁王が全く感動の篭らない相槌を続けることについて、白石はまるで気にする様子がなかった。仁王はどちらかといえば、自分の全く理解できないものに目を輝かせる白石の方に興味を持った。
「お前さん、そういうん好きなんか」
「そういうんって?」
「部屋に置いてあるモンも毒がどうのこうのって不二が言っとったきに」
「ああ、うん。好きやで。知らんかった?」
白石はまるで意外だという表情で仁王を振り返った。植物にだけ向けられていた視線を唐突に、無遠慮にぶつけられて仁王は居心地が悪くなる。咄嗟にふわふわと白い綿毛をつける種子へと目線を逸らす。
「……そりゃ知らんぜよ。喋ったこともないけえ」
少し嘘を吐いた。不二にシングルスで唯一勝ったプレイヤーとして白石の情報は柳のノートに記載されていて、彼が妙な趣味を持っているということもそこに記述されていた。けれどあまり役に立たなさそうなその情報を仁王は今の今までほとんど忘れていたし、彼がそれらをどのように愛でるのかも見たことがなかったので、結果的に知らないのと同じようなものだと思い直した。
「そうなん?」
鬼女蘭に触れていた白石の左手が降ろされて、仁王は少し身構える。彼の興味が自分へ向いてしまったことを疎ましく思う。
「幸村クンが、仁王クンはイリュージョンする相手の趣味からコピーするって言うてたから、すっかり筒抜けかと思っとったわ」
またか、と仁王は幸村を恨む。不二も同じようなことを言っていた。自分の知らないところで自分の話をされるのは気分が悪い。
「お前さんときは急ごしらえじゃったけえ、そんなんしとる場合と違たぜよ」
「ああ、そらそやわなあ」
白石は腕を組み、左手を顎に当てた。何かを確かめるように、うんうん、と頷く。
「ほんでそこで止まっとるいうことは、この先俺を使う気はないってことなんやな」
ぎょっとして仁王は白石を見た。彼の声に多少含まれているように感じた棘は、しかしその表情のどこにも見当たらなかった。少し悪戯めいた光だけがあった。