きみのカレーは恋の味

2013/10/6発行
A5/40P/オンデマンド/400円

中三~大学、コメディ
「カレー作りは、奥が深か」を出発点にただただ突っ走る二人のラブコメディ。

 

▼サンプル

やがて食卓に並んだ夕食を見て千歳の瞳が輝く。献立は具沢山のオムレツと、ツナサラダと、余った玉ねぎで作ったコンソメスープ。
 白石に食べるつもりはなかったのだけれど、一人分の食事というのはどうにも分量が難しく、結局は自分の分も作ってしまった。向かい合って席につく。
「食べてよかと?」
「うん」
「いただきます!」
 行儀良く手を合わせて千歳が箸を取る。その箸が半熟の卵へと差し込まれ、中からとろみのついたジャガイモと玉ねぎとベーコンが覗く。掬われた全体の五分の一ほどのオムレツが千歳の口元に運ばれるまで、白石は息を呑んで見守った。
「うまか!」
「ほんま? よかった」
「卵がふわふわばい!」
 千歳の反応を見て白石はほっと胸を撫で下ろす。大した手間をかけたつもりはないが、自分が作ったものを「美味しい」と食べてもらえることは嬉しいものだ。そのまま白石も箸を取り、自らのオムレツに手を付ける。我ながらよくできた味だった。
 他愛ない話をしながら食事を進め、成長期の男二人にかかればすぐに全ての器は空になった。白石にとって珍しいこと極まりない千歳の訛りは会話の中で次第に馴れ、熊本と大阪、それぞれに特有の単語を教えては驚き合った。
 そのようにしてすっかりと打ち解けた気分で寛ぎ、そういえば自分は何をしにきたのだったかと考え始めたときだ。白石の携帯が鳴った。
「あ……家に連絡するん忘れてた」
 着信は母親からだった。すまんな、と声を掛けて電話を取る。
 今更夕飯はいらないなんて言えばどんな愚痴が飛んでくるかわかったものではないので、素知らぬ顔で食卓に着く方が無難だろう。多少カロリーの摂り過ぎにはなってしまうが、明日からまた思い切り運動すればいいのだし、一週間ほど食事の量を調整すれば問題はないはずだ。
 そのような考えを元に、ちょっと寄り道しとった、もうすぐ帰る、と簡潔に切り返して電話を終えた。
「帰っと?」
「せやな、そろそろ。洗い物そのまんまですまんな」
「よかよか。作ってもらったけん」
 せめてもと食卓に並んだままだった空の食器を流し台へ運び、白石は帰宅の準備を始める。準備といって、大して物を出していたわけではなかったからすぐに終わった。立ち上がって忘れ物がないか周囲を見渡した先で、千歳と目が合う。同時に千歳が口を開いた。
「今日のお礼ばしたかね」
「お礼?」
 首を傾げる白石に、千歳は食卓を指差して答えた。
「うまかご飯食べさせてもろたけんね」
「別にええよ、勝手にしたことやし」
「そぎゃんわけにもいかん。白石、カレーは好いとっと?」
「カレー? まあ、好きやけど」
 白石がそう答えると、千歳はほっとしたように柔らかく笑った。
「なら今週末、またうちに来なっせ。カレーだけは自信あっとよ」
 カレーか、と白石は思う。確かに料理が苦手でも、市販のルウを使えば案外簡単にできるメニューだ。数少ないレパートリーの中から礼をしたいと、そう言ってくれる千歳の気遣いがなんだか嬉しかった。
「ほな土曜日、またお邪魔するわ」
「あ、えーっと……『邪魔するんやったら帰って』……?」
「アホ、ここで使ても意味ないわ」
 大阪は難しか、と笑う千歳を見て、なんだかうまくやっていけそうな気がした。どうやら会いにきたことは無駄ではなかったらしい。そう結論付けながら、白石は少し浮かれたような気分で古いアパートを後にした。
 千歳の家を訪れた目的を何一つ達成していないと気付いたのは帰り道でのことだった。

 果たしてその週末、白石は言われた通りに部活が終わると千歳の部屋へ向かった。今度は迷いの無い足取りで、数日前と変わらず錆びた階段を昇る。今日こそきちんと話をしようと、その日も千歳の名前を書き込んだ部誌の欠席者欄を思い出していた。先日は機会を逃してしまったから、今度こそ部活へ来ない理由を聞かなければならない。
「千歳クーン! 来たで!」
 決意新たに、どうやらいまいち役目を果たさないらしいインターホンを無視して扉を打ち鳴らした。先日と同様、微かな足音の後で扉が開かれる。
「待っとったばい」
 千歳が顔を覗かせたと同時に、香ばしい香りが漏れ出てきた。なんとも食欲をそそるその芳香に、けれど白石は僅かな違和感を覚える。それは確かにカレーの香りに近かったが、知っているものとどこか違う。もう少し尖っていて、明瞭で主張の強い印象を受ける。うちと使ってるルウが違うんやろか、と口には出さず思いながら部屋に足を踏み入れる。そしてその光景を見た瞬間、白石は呆気にとられた。
「え……? カレーって、そういう……?」
 小さなテーブルの上には数々の小瓶が並べられていた。黄色、赤、緑、内容物に合わせたのだろう原色の蓋が目に痛い。それらの小瓶に詰められていた調味料らしき様々な粉が、いくつかの小さな器に分けられている。すりこぎの中で砕かれているものもあった。
「もうちょっとでできるけん、座って待っとってくれんね」
 そう言って台所に立つ千歳の向こう側で、先日白石の見つけた深底鍋が湯気を立ち上らせていた。なるほど、これに使うものだったのかと感心し、改めてテーブルに並ぶ小瓶に意識を移す。
「なあ、これって、スパイス?」
「そうたい」
「めっちゃ本格的やん」
 小分けにされた器からはそれぞれに独特な芳香が漂っていた。記憶のどこかにあるもの、ないもの、それは様々で、白石の興味を大いにそそった。小瓶の一つ一つを引っくり返し、ラベルに書かれた説明を精読する。中には輸入品もあるようで、半分くらいは英語だった。固有名詞の多い文章は解読が難しく、こんなものを使いこなすらしい千歳を素直にすごいと思った。

(中略)

程なくして運ばれてきたカレーに白石は息を呑む。ごくりと鳴った喉は、端から見れば美味しそうな食べ物を前にした人間特有の反応にしか見えなかっただろう。事実、向かいの忍足も「旨そやなあ」と呑気な声を上げている。

 ——食ったろ。食ったろやないか。

 震える手を抑えて、白石はカレーとターメリックライスの境界線辺りにスプーンを差し入れた。もう一度喉を鳴らして、口を開ける。どうにでもなれ、と清水の舞台から飛び降りるような気持ちで一息に突っ込んだ。
 その瞬間、涙が溢れた。
「えっ? どないしてん白石!? 泣くほど旨かったか!?」
 突然嗚咽を上げ始めた白石に忍足が狼狽える。
 そのカレーは美味しかった。一口含んだ瞬間、複雑に調合されたスパイスの香りが鼻腔を駆け上った。舌先を刺激する辛味は食欲を刺激して唾液が溢れた。美味しくて、けれど千歳のものとは違う味を、涙を流しながら白石は無心で食べた。その色が、香りが、様々な記憶を呼び起こし、白石の頭がぐらぐらと揺れる。スパイスをすり潰す千歳の姿、茹だる鍋を真剣に見据える千歳の眼差し、白石が旨いと言う度に綻ぶ千歳の笑顔。土曜日の夜のキスはいつだってカレーの味がした。
「おい白石、なんやねん、どないしてん!」
 泣きながら目にも留まらぬ速さでカレーを次々に口へ運ぶ白石に、忍足は自分のカレーを食すことも忘れて右往左往していた。
 ——謙也、ありがとう。お前が俺のこと気遣ってくれてたん、気付いてたで。医学部受験する言うて、ほんまやったら部活に顔出してる暇なんかあらへんのにいつも誘てくれて、俺が一人にならんようにしてくれとったやんな。お前がいてくれたお陰で寂しくなかったし、千歳のこと思い出す時間も減った。めっちゃ感謝してるわ、惚れてまいそうや。せやけどあかん、あかんわ、カレーだけはあかん。俺、千歳のカレーが食べたい——
 そう伝えようとした言葉は嗚咽に掻き消されて、一言たりとも形にならなかった。