白い部屋の中であいつは一人ぼっち
A5/32P/オンデマンド/300円
幸村入院中、シリアス
幸村の病室で幸村の格好をして幸村のことをひたすら考え続ける仁王の話。
▼サンプル
一体どこの誰が言い出したのか知れないが、幸村精市は神の子である。
まあ、誰が言い出したか知れないというのは嘘で、最初にそれを口にしたのは俺だった。あれはまだ俺が世間知らずで夢見がちだった頃のことだ。入部して早々先輩を倒し、最強の称号を手に入れようとしていた幸村に、試合を吹っかけたことがある。結果はもちろん惨敗で、俺は為す術もなく醜くコートへ崩れ落ちた。俺の名誉のために言っておくが、そのような醜態を曝したのはなにも俺だけの話じゃあない。幸村に挑んだ者は、すべからく、前後不覚になって、地を這う定めにあった。
幸村のテニスは果てしなく、暗く、冷たい。ひとたびその世界に捕まれば重力さえ意味を為さなくなる。まるで宇宙のようだと思った。だから俺は幸村を神の子と呼んだ。宇宙は、神ととてもよく似ている。同義と言ってもいい。
冗談半分で口にした異名は、それなりに本質をついていたのかもしれない、あまり長い時間をかけないで周囲へと浸透していった。初めは負けて地位を失った先輩たちが憎しみを込めて、次に試合会場に居合わせた他校の人間が赦しを乞うように、そして最後には幸村に近しい者が、なにやら誉れ高い言葉として彼の形容に用いるようになった。
言葉とは不思議なもので、人々が神の子と呼ぶにつれて幸村は本当に神の子らしくなっていった。上手いとか強いとか、そういう次元ではない。多くの場合、対戦相手にとって幸村に遭遇することはほとんど災厄に近かった。あいつが相手なら仕方がなかった、だってあいつは、神の子だから。免罪符として敗者たちはそう呟いた。
当の本人はといえばその異名について、良いとも、悪いとも言わなかった。どうでもよさそうだった。幸村は初めから一貫してただ幸村らしくあっただけだし、外野がそれをどう呼ぼうとほとんど他人事のようだった。人々が口にする「神の子」という言葉に載せられる感情が、憎しみだろうが、恐れだろうが、たとえ尊敬であっても、幸村は淡々と、宇宙のようなテニスを続けた。
さて、そんな俺たちの神の子は、聞いたこともないような病に倒れ、目下入院療養中である。
携帯が鳴ったのは午後の授業が始まる直前のことだった。どうかした? 丸井がそう言ったから、俺は携帯のメール画面を見つめたまま、息をするのを忘れていたと知った。教室へ帰るのが早すぎて少し余った休み時間、惰性に任せて中身のない話をしていた最中だった。なんでもない、と返して携帯をポケットに仕舞った。丸井はふうん、とだけ相槌を打って、何事もなかったかのように新しくハマったというミュージシャンの話を再開させた。俺はそれをいつものように聞き流した。丸井との日常なんてまあ、そんなものだ、互いの様子や話に深い興味を抱くことなんてほとんどない。
授業が始まってすぐに教室を抜け出した。いつものことだから誰も気にしやしなかった。
微妙に違った子守唄が漏れる廊下をいくつも通り抜け、階段を上り、立ち入り禁止のロープをひょいと跨いで、ペンキの剥げかけた扉の前に立つ。俺がこの学校に入学してまず初めにやったことは、この固く閉ざされた扉の合鍵を作ることだった。いつでも右のポケットに突っ込んである、家や自転車や部室や職員室や図書館や、どこのものだか忘れたような鍵の連なる束から正確にひとつのアナログキーを選び出す。空いた手でノブを引っ張り上げるようにして掴み、そっと鍵を差し込んだ。ここの扉は少し歪んでいるから、開けるのにコツがいる。
カチリと音を立てたノブをそのまま回すと、まだ春になりきれない、冷えた風の重さがのしかかってきた。押し返すようにして外へ出る。扉にかかる重さは出口を見つけてすっと和らぎ、頬を撫でた風は存外優しかった。今日はよく晴れた日だ。
冬の間に枯れ切った花壇を素通りして、給水塔への梯子へ向かう。そこはお気に入りの昼寝場所のひとつで、天辺で仰向けに転がると視界には邪魔な人工物が何も見えなくなるのだ、時折通り過ぎる飛行機以外は。梯子を昇り切って、いつものように、緩い弧を描く鉄の床に背中をぴったりとつける。視界が青に染まる。宇宙が真っ暗だなんて信じられなくなるのはそういうときだ。冷たい風とは裏腹に、空の色はこのところ優しくなりつつあった。
——さて。
体を起こし、先程隠した携帯を取り出した。
『今から病院来れる? 一人で』
メールを起動したままだったから、ロックを解除すればすぐにメッセージが飛び込んできた。差出人は、幸村だった。
『なして』
それだけを返した。返信を待とうと携帯を仕舞いかける。けれどそいつはポケットに辿り着く前に震えた。早すぎる。暇人か。まあ、暇人か。
『頼みたいことがあってさ』
『メールじゃいかんの?』
『うん』
『授業中なんじゃけど』
『いつも出てないだろ』
『終わったら部活』
『いいよ、休んで』
「……職権濫用じゃ」
最後の言葉は俺にだけ聞こえる肉声で漏らし、了解、と返信した。そのままもう一度体を倒す。視界いっぱいに広がる空、浮かぶ雲は悩み事ひとつないような顔で悠々と流れていく。このまま目を閉じられたらどんなにいいか。けれど俺はそうしない。
荷物を手にして屋上を後にした。教室を出てくるとき、いつもは置きっ放しにする鞄を律儀に掴んできたのだから、俺も人がいい。
「やあ仁王。悪いね、呼び立てて」
「ちっとも悪いと思うとるように見えんけど?」
「そう言うなよ。どうにも感情表現は苦手でね」
「あっそ」
どの口が言うんだか。幸村は病室のベッドの上、上半身だけを起こして笑っていた。その体勢さえ取れないこともままあったから、今日は調子がいいのだろう。
ベッドサイドには安作りのパイプ椅子があって、まず隣に鞄を投げ下ろした。それから背もたれのない椅子に腰掛ける。目線は少しだけ幸村より低い位置に収まった。
「なんじゃ、頼みって」
きっと碌なことじゃないんだろうと思いながら尋ねる。声は一応不機嫌なものにしておいた。
「仁王、俺に変装するの、好きだよね?」
幸村は不躾に言った。もう少し他の言い方はなかったのだろうか。確かに俺はしばしば幸村に化けて遊んだり、あるいは真剣にテニスをしたりするけれど、それではまるで俺が変な性癖でも持っているみたいに聞こえる。
「別に好いとらん」
「でも出来るだろ?」
「それは、まあ」
ああ出来る。出来るとも、一部の鋭い奴以外なら大抵の場合騙されてくれる。歯切れ悪く答えた俺に、幸村は満足した様子で二度頷いた。
「それでね、俺さ、ちょっと行きたいところが、」
「断る」
考えるより先に否定が口をついていた。
「……最後まで言わせろよ」
「いらん。見えた」
「いいから聞けよ。俺は行きたいところがある。だから、」
「あー、俺帰るわ」
今なら部活間に合うじゃろ、と立ち上がりかけた俺は、締まった首にぐぇっ、と間抜けな声を出すハメになった。背中側、斜め下の方向からシャツが引っ張られている。つられて見下ろしてしまったことを後悔した。シャツを掴んだのはもちろん幸村だ。がっつりと、目が合ってしまった。
「だから、俺の代わりに、俺になって、ここで寝ててくれないかい?」
——ほら、碌なことじゃない。
俺はシャツを掴む手を優しく包み、ゆっくりと外した。再びパイプ椅子に腰掛け、幸村をのぞき込む。
「あー、幸村、さっきは話を遮って悪かった。最後まで聞いて、考えて、答えを出すぜよ」
「うん。どうかな?」
「断る」
「どうして!」
どうしてもクソもあるか。確かにここへ一人呼ばれた時点でトランプの相手を頼まれるような用事じゃないことはわかりきっていたが、それにしたって限度がある。俺にだって出来ることと出来ないことがあるのだ。言っておくが、俺は決して可能性と不可能性の話をしているわけではない。
「どうしても見に行きたい個展があるんだよ。自分で買いたいものもあるし、放ったらかしになってる家や学校の庭も気になるし」
「外出許可は」
「出なかった」
きっぱりと言い切られては溜息を吐くしかない。
「のう幸村、馬鹿げとるじゃろ? ここはどこじゃ、病院ぜよ。他人を見た目で判断するような場所じゃあない。脈拍も血圧も体温も測られる。下手したら血液検査もあるかもしれん」
「心配ないさ。幸い心臓はまだ正常に動いてるから脈は仁王とそう変わりないはずだし、血圧は下がってるけどお前は元々低血圧だし、体温計の誤摩化し方なんていくらでも知ってるだろう? 血液検査は昨日やったばかりだ」
どうだ、と幸村が胸を張る。いや、そんな自信満々に言われましても。
一体誰だ、幸村をこんなに我侭にした奴は。心当たりはありすぎるほどあった。幸村は頑固だ。こうと決めたらなかなか譲らない。幸村が何かを口にしたとき、それはもう大抵の場合、彼の中では既に決定事項であると言っていい。人一人がそうなるには、周囲の人間がそれを許し続けてきたという環境が欠かせないものだ。
「……条件がある」
結局のところ、折れるしか選択肢はなかった。ああ認めよう、幸村を甘やかす人間の中に、きっと俺も入っている。でもただのイエスマンに成り下がる気はこれっぽっちもなかった。
「条件?」
「ひとつ」
人差し指を立て、幸村の鼻先に突きつける。
「具合が悪うなったら、すぐに帰ってくること」
「わかってるよ」
「ふたつ」もう一本指を立てる。「一時間に一度、連絡を入れること」
「えっ、なにその束縛したがる彼女ごっこ」
「真面目に聞きんしゃい」
幸村は眉間に皺を寄せて、はいはい、と不満気に漏らした。俺はすかさず三本目の指を立てる。
「みっつ」
「まだあるの?」
「立海のテニスコートへは、行かないこと」
沈黙が落ちた。体感温度が少し下がった。
「……なんで」
幸村が言った。絞り出すような声だった。
「なんでも。万が一バレてみんしゃい、俺の命が危うい」
幸村の瞳からすっ、と光が引いていく。見透かすように、細める。真意を確かめようとしたって、俺は簡単に意図を読ませるような真似はしない。薄い笑みさえ作って見せた。
「……ま、無理っちゅーなら、俺はこのまま帰るだけじゃけえ」
俺は少し学習して、幸村から距離を取った。先程の如く物理的に引き止められないように。まあ、無理矢理帰ったところで一生恨み言を言われるのが関の山なのだから、そんなつもりはほとんどない。この場合、幸村の一生があまり長くないかもしれないという逃げ道にはとりあえず蓋をした。
「……わかったよ」
やがて幸村は目を伏せ、そう言った。ひどく落胆したように。お前の頼みに比べれば俺の条件なんて可愛いもんだろうと苛立ったけれど、まとまった話を混ぜ返す気にはなれなかった。
それならば、と俺は早速鞄を開けて、幸村セットを探した。ウィッグ、カラーコンタクト、パジャマ、各種化粧品。それだけあればすぐに幸村は作れる。
「ねえ」
手際良く幸村になっていく俺をぼんやりと見ていた幸村が、不意に口を開いた。
「なんじゃ」
「仁王は俺になるよね? 俺は外へ出掛けるよね?」
「ああ」
それがお前の望みだろう。鏡を覗き込み、眉の形を変えながら答えた。
「だったら俺も変装しなきゃ」
俺は手を止めた。それもそうだ。俺たちは同時に、愛すべきガラクタで溢れる俺の鞄を見下ろした。
まず柳生の眼鏡。これは俺の変装道具の中で一番の優等生だ。ただ眼鏡をかける、というだけで人の印象は劇的に変わるものであるし、柳生の特注品はどうしてか上手い角度に立たなければほとんど目が透けない。
「へえ、この眼鏡、こっちからはちゃんとクリアに見えるんだね」
「不思議じゃろ?」
次に髪型。まず赤也のウィッグを乗せてみた。けれど、思ったよりも印象が変わらなくて、参謀の昔の髪型に変えた。このおかっぱウィッグを使うと、参謀が絶妙に嫌そうな顔をするから好きだ。普段表情を一定させている奴の変化は面白い。
それから真田の帽子を取り出して、おかっぱの上に載せる。ここまででもう幸村を幸村だと認識できる人間はほとんどいないだろう。誰だお前。なんだか楽しくなってきて、ジャッカルの肌に近いファンデーションをはたこうとしたら却下された。残念。代わりにジャッカルの私服を着せて、それからフーセンガムを渡した。
「これは?」
「見てわからんか? ずっと膨らましときんしゃい」
「これ、いる?」
「いるかいらんかの話なんぞしとらん」
必要と不必要だけで動くなら世界は味気ないものだ。幸村は言い切った俺を呆れたように見て、それから溜息を吐いた。
「お前さ、楽しんでるだろ」
「楽しみは人生ぜよ」
俺は笑って答えた。
幸村はフーセンガムをポケットに仕舞った。それから改めて、こちらを見上げる。
「じゃあ仁王は? 仁王がいないよ?」
「俺は、これ」
ポーチの中からアイライナーを取り出す。昔姉が使っていたものだがこいつはなかなかに使える奴だ。女ってやつは日常的に顔を作り変えている。俺を詐欺師と呼ぶなら世界中の女は誰だって詐欺師だ。
指先で幸村の顎を掬った、キスするみたいに。幸村は従順に上を向いて、真っ直ぐに俺の目を見つめてくる。
「そない見つめられたら緊張するんじゃけど?」
「目を離したら何されるかわかったものじゃないからね」
「信用ないのう」
「信用させるつもりもないくせに」
「ごもっとも」
屈み込んで、幸村の口元、俺から見て左側へとアイライナーを降ろす。俺が誰かになるには邪魔だけれど、誰かが俺になるには便利なひとつのしるしをつける。
「……できたぜよ」
おかっぱにキャップ、B系ファッションに透けない眼鏡。口元にセクシーなホクロ。晴れて不審者の出来上がりだ。
「なあ、おかしくない? 逆に目立つ気がするんだけど」
「幸村ってわからんかったらええんよ。ほい、いってらっしゃい」
複雑な表情で鏡をのぞき込む背を叩く。促されて立ち上がった幸村は、一度だけこちらを振り返った。
「いってきます」
そうして出て行った。