ほんとはね。

2014/1/12発行
A5/40P/オンデマンド/400円

20代後半、シリアス
中三のクリスマスにたった一度のキスをしたちとくらが十数年後のクリスマスに街で偶然再会する話。

 

▼サンプル

ひらひらと舞う粉雪が人々のコートに音もなく吸い込まれていく。傘を差すほどではない。もちろん積もるようなものでもない。それでも気温は低く、すれ違う人々は会話と共に白い息を吐き出し、誰もが身を縮めて歩く。
 雪の降らない街に雪が降った日、千歳はまったくの客人として、ただ静かに一人、白い呼吸を繰り返していた。
 このところ慌ただしく過ごしていたように思う。ずっと続けてきた研究の、ある意味で区切りになるだろう学会の話が舞い込んできたのは夏の初めのことだった。足りなかったデータを集め、統計を出して、一つの論理を築き上げる過程で半年という期間は瞬きの間に終わった。千歳は何かひとつ、こうと決めたものには全てを投げ打って打ち込むような気質を元々持ち合わせていたけれども、発表を終えた直後にはさすがに蓄積した疲労が押し寄せてきたものだ。
 学会の会場が大阪だったことは偶然でしかなかった。発表は三連休の中日だったから、千歳が余分に一泊するにあたって大した意味はいらなかった。誰と連れ立つでもなく、ぼんやりと流れていく景色を楽しむ、そのような時の過ごし方が千歳は好きだった。
 かつて千歳はこの街に住んでいたことがある。住んでいたというよりは、滞在していたという方が正しいかもしれない。たったの一年という短い期間、確保されているのは寝泊まりだけといった風情の安アパートで、それでも確かに千歳はこの土地で季節を一巡りした。
 すっかりと葉の落ちた街路樹が並ぶ大通り、決して短くはない年月の間に知らないビルと見慣れた景色とが混在し、正しく時が流れたことを実感させる。それでも洗練された都市の趣の中で、どこか人の温かさに包まれるこの街の雰囲気は少しも変わらない。
 西日本で一番の賑わいを見せる都市であるのだし、足を運ぶ理由なんていくらでも見つけられたはずだったけれども、結局のところ中学を卒業した日から一度も降り立つ機会がなかったことに、故意がなかったのかと問われれば千歳はうまく答えられない。
 千歳が大阪での日々を思い出すとき、それはいつでも夢と同じ質感をしている。なにか、がむしゃらに走っていたような覚えや、漠然とした幸福感の残渣はあるのだけれど、詳細を描けと言われると難しい。あるいは夢だったのかもしれない。だから彼を見かけたとき、それもただ夢の延長線上にある光景だと思い込んでいた。
 
 「白石?」
 
 そう響かせた声も、正しく相手に届けようと意図した大きさでは決してなかった。たとえばそこが熊本であったとしても、時折彼に似た風貌の人物とすれ違えば、無意識のうちに千歳はその名前を口にしていたものだった。もしかすると、いつもより少しは期待が籠もっていたのかもしれない。ここは、今はどこで何をしているかわからない彼の、それでも生まれ育った街で、そして彼と出会った街だったから。
 「千歳……か?」
 彼は立ち止まった。そして、正しく千歳の名を呼んだ。
 「……え? 白石? ほなこつ?」
 驚きは、先に声を掛けたはずである千歳の方が大きかった。何度も目を瞬かせ、振り返る白石の像が消えてしまわないことを不思議に思った。
 「そんな幽霊見たみたいな顔すんなや、自分で声掛けといて」
 呆れたように笑うその表情が、遠い昔の記憶を呼び起こす。よく彼は自分の行動に小言を漏らしては、仕方がないなあ、と最後に目元を綻ばせたものだった。
 「久しぶりやな、千歳」
 やがてそれらのイメージはぴったりと重なり合い、ああ、白石だ、とちぐはぐだった刺激と認識が正常に動き始める。ひとたび実感してしまえば言いようのない喜びと緊張とが押し寄せてきた。

何年も会っていなかった友人と街角で遭遇するような偶然は、そのまま軽い挨拶だけで立ち去る選択肢だって十分に取り得るものだ。事実千歳もそう考えたし、白石にしたって振り向いたままの中途半端な姿勢をなかなか崩そうとはしなかった。これが穏やかな春の日であったならば、あるいはぎこちない笑顔で今はもう別々の方向へ歩き出していたかもしれない。そうしなかったのは、二言三言、距離を測りかねる言葉を交わした後で、白石がくしゃみをしたからだ。
 ——寒かと?
 ——まあ、暖かくはないわなあ。雪やで。
 ——今から、何か予定あっと?
 ——夜まで暇やけど。
 ——なら、どっか入らんね?
 大通りから路地へ折れてすぐの喫茶店は通りすがりに見つけた。繁華街にチェーン展開しているコーヒーショップは休日に入るには騒々しすぎるし、酒を飲むにはまだ早かった。レトロな風情と寂れた空気の境界線上で、忘れられたように佇む店構えはこの偶然に似合っていると思ったのだ。
 「カフェオレ、ミルク多めで」
 「アメリカン、ブラックで」
 彼らが注文を告げてしまえば適度な広さを持つ店内はしんと静まり返った。他にはカウンター席に一人きりしか客がいない。千歳と白石は入り口から一番遠いテーブル席を選んだ。少しでも暖かいような気がしたのだ。それでも誰もいないフロアは十分に見通しが良くて、通りにはどこか灰色をした空気の中を行き交う人々が見えた。誰も彼もが分厚く巻いたマフラーに顔を埋めている。雪は今にも消えそうなのに、決して途切れることがない。
 「びっくりしたわ。でっかい奴が歩いてんなあとは思てんけど。また背ぇ伸びた?」
 「そぎゃんこつなかよ。たぶん」
 「しっかしよう気付いたなあ」
 「俺も本物とは思わんかったばい。大阪だけん、もしかして、ごたるもんで」
 「結構大阪来てるんか?」
 「久しぶりばい。今回はたまたま用事のあったけん」
 四人掛けの席、余った二つの椅子にそれぞれ荷物を置いた。マフラーを解き、コートを脱いで、千歳は乱暴に、白石は丁寧に畳んでその上に重ねた。
 「あれ? スーツ着とったと?」
 「千歳もやん」
 彼らはどちらも、コートの下にスーツを隠していた。尤も、千歳の方では滞在を延ばしたことを忘れ、寝間着以外の着替えを忘れてきただけだったのだけれど。
 「仕事と?」
 「ちゃうちゃう。今日は休みやで」
 だったらどうして、と尋ねかけたとき、ウエイトレスがやって来た。
 「カフェオレのお客様」
 黙って千歳は手を挙げた。あまり愛想のよくない彼女は千歳の前にカフェオレを置いた。続いてアメリカンコーヒーの行き先も尋ね、白石の前に置く。たった二人しかいないのに、律儀に確認する様はなんだか滑稽に見えた。ご注文は以上でよろしいでしょうか。決まりきった文句を吐いて、ウエイトレスはカウンターの奥へと戻っていった。その頃にはなんの話をしていたか、彼らのどちらも忘れていた。
 
 千歳は運ばれてきたカフェオレに砂糖を二杯入れた。
 「相変わらず体に悪いもん飲んでんねんな」
 白石が笑った。彼はアメリカンコーヒーに何の細工もしないで、少しだけ口をつける。
 「これだけは譲れんばい」
 千歳は甘党ではないけれど、昔から意識して糖分をよく摂取する。頭を使う遊びを好むうちに自然とそうなった。いつか糖尿病になるで、と、かつて白石はしばしば渋い顔をしたものだった。
 「白石は? コーヒー苦手やなかったと?」
 「何年経ってると思てんねん。嗜好くらい変わるやろ」
 それもそうか。千歳は頷いた。少し寂しい気分になった。
 改めて向かいに座る白石へと目を走らせる。学ランかジャージの記憶しかないから、スーツ姿は新鮮に映った。ピンストライプで、柔らかそうな手触りを持つその生地は一目見て高価なものだと知れた。少し派手な色をしたネクタイにも余裕が伺える。リクルートスーツよろしくただ薄っぺらく黒いだけの千歳のものとは違う。窮屈な格好は元々好きではないから、千歳はネクタイをしていない。
 「似合っとうね」
 「そうか? 毎日スーツやしな、制服みたいなもんやわ」
 「仕事は?」
 「営業。薬売ってる」
 「MRっちやつ?」
 「そう、それ。千歳は?」
 「まだ学生ばい」
 「ほなそのスーツは? 就活?」
 「いや、学会があったけん」
 「もしかして、脳科学学会?」
 「知っとっと?」
 「まあ、医療関係の端くれやからなあ。行こうか迷とってん。取引先の先生も出てはったし。千歳出てるんやったら行けばよかったな。人前で喋る千歳とかめっちゃおもろいやん」
 初めのうちぎくしゃくしていた会話は、重ねるにつれて滑らかさを取り戻していく。それと反比例して、過去と現在の間に横たわる小さな亀裂が目立ち始める。スーツを着こなし、苦いコーヒーを飲み、昔とは違う内容の会話をする白石が少しずつ記憶とブレていった。
 「まだ学生か。ええなあ」
 そう笑った白石は、少し疲れているように見えた。
 白石は大人になったのだな、とぼんやり思う。自分もそんな風に見えるのだろうかと考えて、すぐに打ち消した。だらだらと学生を続け、未だに甘いカフェオレを飲み続けるような千歳には縁遠い話だ。少し居心地が悪くなった。自分が同年代とはいささか異なった道を歩いていることはあらゆる場面で感じていたけれども、久々に会う友人の変化を目の当たりにしては致し方ないだろう。
 「今もテニスばしとっと?」
 広がる亀裂を押し止めようと過去の話題を探した。とはいえ、それなりに生きた時間の中で共有したのはたった一年間なのだから、そのような話題は多くない。
 「……やってへんなあ」
 溜息のやり方で白石は言った。
 「大学まではそれなりにやっててんけどな。千歳は?」
 「中学卒業してから、いっぺんも」
 「そうか。一回も会わへんかったもんな、高校の大会」
 テニス。自分で口にしておいて、とても遠い物事のように思えた。
 高校へ上がるときにはテニスを辞めると決めていた。一番の原因は視力の戻らない右目だったけれども、明確な目標を見失ったことも大きかった。元々親友の影響で始めたテニスで、そこに起こった軋轢はきちんと精算してしまったし、唯一目指そうと思ったプレイヤーもあっさりと日本を離れてしまった。千歳は世界が広いことを知っていた。テニスだけが生きる道ではないと初めからわかっていたから、高校の三年間は視野を広げることに費やしたのだ。
 「また集まってテニス出来たらええねんけどなあ」
 「よかね。皆とはよく会うと?」
 「んー、ここ数年はあんまり。こないだ健二郎の結婚式で会うたくらい」
 「健ちゃん結婚したとね?」
 「せやで。俺らの中で一番乗りや」
 「めでたか。わかる気すったい。優しかけん」
 「一応千歳にも招待状出そうとしたらしいねんけどな」
 「ほなこつ?」
 「連絡先わからん、言うて」
 「ああ、何年か前に、番号変わったけん」
 「……そうなんや」
 千歳は高校を卒業してすぐに海を渡った。一年間の放浪を経て、大学へ通うことを決めた。そのときに一度携帯を解約したのだ。古い機械にはそれなりに連絡先が残っているけれど、そのうちどれだけが通じるものなのか試したことはない。ほとんど。
 「小春とユウジが出し物してなあ。久々によう笑たわ」
 「なつかしかね」
 それきり会話が途絶えた。大阪の街で、時は流れている。当たり前だ、千歳にだってたくさんのことが起こった。共有できない年月が二人の間に重くたれ込め、あまり居心地の良くない沈黙を落とす。逃げるようにして、彼らは同時に窓の外を見た。
 冬至を迎えたばかりの街はみるみるうちに照度を落としていく。寒々しい灰色が一層濃くなり、道行く人々の顔が認識できなくなっていく。それは黄昏の時間だ。
 その窓に、ふと光が灯った。
 「あ。光った」
 「……イルミネーション。綺麗かね」
 入るときにはまるで気付かなかったけれども、古びたカフェの窓に電飾が張り巡らされていた。自動なのか手動なのか、スイッチの入れられた電球は規則正しく明滅し、冬の街を照らす。
 「明日はクリスマスやもんなあ」
 ぽつりと白石が零した。白いスプレーで描かれたトナカイやサンタが照らされ、浮かび上がる。千歳は滲む光を鑑賞する白石の横顔を盗み見た。相変わらず綺麗な造形をしている。
 ——あいつ無駄嫌いとか言うとって、顔の造りが一番無駄やんなあ。
 いつかそうぼやいていたのは、誰だったか。異性を惹きつけてやまない彼はそれでも色恋沙汰に現を抜かすようなことがなくて、揶揄されるような場面が時折あった。
 今はどうなのだろう。夜には約束があると言っていた。今日はクリスマスの前日であるのだし、そんな予定が入っていてもおかしくないだろう。
 そうやってぼんやりと眺めていた横顔、耳元がちらりと光ったことに気を留めた。
 「あれ?」
 「ん?」
 「ピアス」
 「ああ」
 白石は思い出したように、自らの左耳に触れた。
 「開けてん。大学入るときに」
 千歳は小さく息を呑んだ。それから、自分も左耳に手を遣った。同じようにひとつだけピアスがある。それは昔から変わっていない。
 「千歳もまだしとってんな。……一緒やな」
 そう言った白石の声はどこか試すように響いた。
 クリスマス。片耳だけのピアス。これは偶然なのだろうか。ふたつのキーワードが千歳の脳内で、電気信号を引き起こす。遠い記憶が、外の電飾と呼応するように明滅を始める。