メランコリーキッチン
A5/56P/オンデマンド/600円
仁王×丸井、高校生、シリアスとコメディの間
仁王が丸井にフラれてすごくダメになって丸井が戻ってきてくれるまでの話。
▼サンプル
いつもそこにあるものの価値を正しく認識している人間が、この世界に一体どれほどいるだろう。人は往々にして、足りないものへの欲求に突き動かされ、叶わないと気付いては、どうして手に入らないんだと嘆き叫ぶ。それは飽くなき上昇志向であったり、あるいは恋と名付けられるものであって、決してマイナスな感情ではない。しかしながら、ないものねだりをできるということが、即ち当たり前の持ち物の上で成り立っていることを常に意識することは難しい。大切なものはいつも失ってから気付く。気付いたときには手の届かないところへ飛び立ってしまい、二度と元には戻らない。この世界から空気がなくなって初めて呼吸をしていたことを思い出すように、それは大抵の場合どうしようもなく手遅れで、不可逆で、身を裂くような後悔を前に己の小ささを思い知るばかりとなる。そうして手を離れてしまった「何か」は、幸福な記憶と変わり果てた後、新たな欠落への渇望へと回帰していくものだ。
何かが足りない気がして目を開いたとき、まず視界に入ったのは真っ直ぐに延ばされた自分の右腕だった。
「あ、起きた?」
足りないものが一体何か、突き止めるより前に声が降ったから、まともに回らない仁王の思考はすぐに中断された。緩慢な動作で声の主を探すと、のぞき込む赤い頭がひとつ。
「おはよう」
「……はよ」
右手を握って開いて、そうだ、丸井だったと思い出す。眠る前には確かにここに丸井がいた。慣れた痺れは感じないから、いなくなってそれなりの時間は経っていたのだろう。
「寝とった」
「見りゃわかるよ」
「いま何時?」
「七時前くらい」
「あー……」
結構寝とったのう。そう呟いて、引き寄せた右腕を軸に身を起こす。休日の部活は午前中だけといっても辛い。珍しく練習試合ではない日曜日で、基礎体力向上という名目の下ほとんどラケットを使わないメニューばかりだったから、いつもより濃い疲労が身体に残っている。高校生になっても幸村を始め、三強は相変わらず厳しかった。個々の能力が上がっていることも手伝ってか、むしろ年々ひどくなっているかもしれない。
「腹減ったから冷蔵庫のもん勝手に使わしてもらった」
「ん」
仁王と違ってさっぱりと疲労の抜けたような丸井を素直に尊敬する。食さえ潤っていればなんでもできる、というのが丸井の持論だが、彼の様子を見ているとそれが真理のような気になる。その消費量たるや、本気でイリュージョンでもしない限り仁王には真似できないが。
それにしたって、疲労困憊という単語がぴったりくる状態で丸井と二人帰り着き、それから一戦交えたというのだから、若いって怖いなとぼんやり思う。命の危機を感じると生物はセックスをするものだから、なんて取り留めのない思考が仁王の脳裏に過ぎっては消える。男同士でセックスをしたところで何も生まれず何も残らないけれど、欲はあくまで欲である。
「んじゃ、俺帰るわ」
「ああ」
仁王の覚醒を待っていたのかもしれない、改めて見上げれば、丸井はすっかりと帰り支度を整えていた。丸井が帰ってしまうのなら、明日に控えた月曜日のために、もう少し惰眠を貪ってもいいかもしれない。そう思って再び布団の海へと身を沈めようとしたときだ。立ち上がった丸井の荷物が、やけに多いことに気付く。
「……泥棒?」
「は?」
振り返った丸井の怪訝な声に、それ、と手元を指さす。下げられていたのは所謂エコバックの類と、仁王がよく利用するブランドのショップバックだった。どちらもそれなりに物が詰め込まれていて、一瞥する限り重そうに見えた。ゾンビよろしく家に辿り着いたときは、いつもと変わらずラケットバックひとつきりしか持っていなかったはずだ。
「人聞きわりぃな。全部俺のモンだっつの」
ほれ、と荷物を突き出される。そこに垣間見えたものは、確かに彼の持ち込んでいた菓子や、ゲーム機や、私服の類だった。それから、仁王には用途の皆目見当つかない、調理器具も顔を覗かせている。
「あ、でも袋はそのへんに落ちてたやつひとつもらった。持ってきたやつじゃ足りなくてさ。ひとつくらいいいだろぃ?」
尋ねられた手前、曖昧に仁王は頷いた。知らない間に随分増えたもんだな、なんて呟く丸井の表情が少し寂しげで、彼の意図が掴めない仁王は置いてきぼりをくらう。丸井が数年をかけて仁王の部屋を雑多にしていたのは確かだったが、大して気にはしていなかったし、迷惑だと言ったこともないはずだ。
「そない一気に持って帰ってどうするぜよ?」
別に、必要なものを必要なときに持ち帰ればいいじゃないか。そう言外に含ませて仁王は首をひねった。ある程度の必要性に応じて持ち込まれたものだから、どうせまた持ってくることになるのではないだろうか。それに、攻略途中のゲームもあるのに、本体を持ち帰られると少し困る。
一方の丸井は、ぴくりと体を震わせ、風船ガムを膨らませた。それは彼が呼吸を整えるための常套手段だったけれど、仁王が何かを読み取ることはなかった。
「俺、もうここ来ないから」
「……え?」
萎む風船ガムを眺めていた仁王は、少しだけ反応が遅れた。
「なんて?」
「だからさ、」
要領を得ない仁王へとひとつ溜息を零し、丸井はおもむろにベッド脇へと屈み込んだ。ガサガサと粗雑な音が響き、ゴミ箱を漁っているのだと知れた。一体何を始めるつもりだろうとのぞき込む。それと同時に、あった、と声を上げて丸井も体を起こした。
「こういうの、もうやめようぜ」
その手につまみ上げられていたのは口を縛ったコンドームだった。きちんと重力を受けて揺れる様は、中にある程度の液体が詰まっていることを告げた。中身は考えるまでもない、眠る前に仁王が吐き出した精液だ。
「……下品すぎるじゃろ」
「うるせぇよ」
あっけらかんと言い放った丸井の手から、再びコンドームはゴミ箱の中へと落とされる。どこにも行けないで死に絶えた数多の命の可能性は、今となっては単なるゴミだった。
「ま、そういうことだから。荷物も全部持って帰るよ」
「……あ、そ」
「お前の分も飯作っといたからちゃんと食えよ」
じゃあまた学校で。雑多な荷物をがさがさと揺らし、そうして丸井は出て行った。
——何だったんだ。
扉が閉まって数十秒、はっきりとしない疑問と共に、仁王はベッドに転がって天井を見上げた。寝起きの頭と、丸井の突拍子もない行動が、きちんと意味ある繋がりを作れない。休日の部活を終えて、二人で仁王の部屋に帰ってきて、セックスをして、だらだらと過ごす。よくあることだった。いつどのように始まったのかも明確には覚えていない。
何か普段と違ったことがあったろうかと記憶を辿ってはみたが、怒らせた覚えも、悲しませた覚えも特に見当たらなかった。
ぼんやりと考え事をしているうちに、腹の虫がぐうと鳴った。「お前の分も飯作っといたから」、その言葉を思い出して起き上がる。丸井の作った食事を摂ることだって、少しも珍しいことじゃない。
散らかった制服には無視を決め込み、同様に落ちていた下着と、今朝脱いだままだったスウェットの下だけを身につけ、仁王は自室を後にした。
仁王は姉と同居をしている。中学へ上がるとき、一足先に関東へ出ていた姉宅へ転がり込む形で始まった生活だ。当の姉は一年も経たないうちに彼氏と半同棲を始めたため、ほとんど一人暮らしのようなものだ。
初めのうち、仁王は住んでいる場所も生活形態も何一つ口外していなかった。基本的に一人が好きだったし、秘密主義を矜持としていたからだ。あれこれ勘ぐられ、ありもしない噂がまことしやかに囁かれるのを聞くと、愉快だった。
対面式になっているダイニングキッチンへの扉を開けると、まだ少し暖かさが残っていた。電気を点ければダイニングテーブルの中央に皿ひとつ。これか、と思って手に取った。多少荒っぽくはあるが、ラップを掛けてくれている。露に隠されて中身は見えない。確かめようとラップをめくった。ピラフだった。
ラップを元に戻し、レンジに入れて、あたためボタンを押す。静かなキッチンにブウンと低い機械音が響いた。くるくると回るターンテーブルを、何をするでもなく眺める。温度の上昇が香りを解放し始めて、一人の空間を包む。寝起きの残渣、頭の隅に残った靄がゆっくりと押し出されていく。
持て余された数十秒に居心地が悪く、流し台へと視線を流した。綺麗に片付けられ、洗いカゴに残されているのは皿とスプーンの組み合わせがひとつきり。調理器具は見当たらない。どうしてだろうと思って、丸井が持って帰ったのだと思い当たる。
チン、と安っぽい音を立ててレンジは止まった。扉を開くと、元の温かさを取り戻したピラフが香ばしい匂いを存分に振りまいていた。ラップを捨て、まだ微かに水滴の残るスプーンを引っ掴み、テーブルへと取って返した。伝える相手のいない「いただきます」なんてもちろん口には上らなくて、座るなり一口目を口に含んだ。
「……うまい」
何度か食べたことのあるメニューだが、丸井の作るものは、いつも美味しい。見た目だって悪くない。普段のがさつさからは考えられないような繊細さを、彼は料理だけに発揮する。たとえばこのピラフひとつ取ったって、野菜は全て丁寧にみじん切りされている。
二口、三口と無言で掻き込み、ふと正面の席を見た。もちろん誰もいない。丸井がいるときは、いつも彼がそこに座っていた。
——な? うめえだろぃ?
ぼんやりと記憶が像を結び、消える。そういえば、初めて作ってもらったのも、ピラフだった。
丸井が初めてこの部屋にやってきたのは中学三年の夏だ。それまで貫いていた秘密主義が打ち破られた原因は、端的に言って根負けだった。
まだ仲良くなる前、丸井に対しては、いつも何か食べていて、無駄に元気で、自分が一番のわがままな奴、という印象くらいしか持っていなかった。赤い髪は仁王の次くらいに目立っていたし、彼の周りにはいつも人が集まっていたから、なんだか明るい奴なんだろうなと、一番合わなさそうなタイプだなと、遠巻きに見ていた。
そんな彼が中学三年で初めて同じクラスになったとき、自分に興味を持ったことには少し驚いた。彼の周囲にいた人間は、真っ直ぐに明るくて、単純な人間が多かったからだ。彼らはまるで仁王と真逆だった。
何が彼の興味をそそったのかは今でもよくわからない。とにかくよく絡んでくるようになった彼は、正直少し面倒臭かった。休み時間に席を立てばどこへ行くのか問われ、撒いても撒いても追ってきた。
逃げることを諦めた頃、次に追求してきたのが仁王の住処だった。それはもう目を見張るほどの執着だった。質問攻めに始まり、帰宅時につけ回され、時折切原なんかも巻き込んで、毎日が鬼ごっこ状態だった。丸井自身、何かのゲームでもしているような感覚だったのかもしれない。
「なしてそない知りたがるぜよ」
夏の初め、いい加減うんざりして本人に聞いた。
「秘密にされると気になるんだよ。一回聞いたらもうどうでもよくなるからさ」
な? そんな風に言われて、確かに、と思った。
丸井の興味にはどこかインスタントなところがあった。好みの音楽はくるくる変わり、それも流行ものばかりを追いかける。飽き性にかけては仁王も負けていなかったから、丸井の言葉は真理に聞こえた。
「仁王、一人暮らしなのか?」
そんな風に、押し切る形で踏み入ってきた丸井は、部屋に入るなりそう言った。それなりに観察力はあるらしいと感心した。確かに、仁王の住む家はどう見たって家族で住むようなサイズではなかったし、玄関に並ぶ靴だって一人分だけだった。
「まあ似たようなもん。正確には一人やないけどな」
「え? もしかして女?」
「まあ、女といえば、女かのう」
「まじかよ!? あの噂本当だったんだな」
「噂?」
「仁王はすげえ美人な女社長のツバメだって。クラスの女子が言ってた」
「それは初耳ぜよ……」
仁王に関する噂は今も昔も絶えない。様々なバリエーションがあって、人間の想像力は果てしないと、耳に届けばいつも愉しくなった。
「ツバメってヒモとは違うのか?」
「知らん。勘違いせんで。一緒に住んどるのは姉貴じゃけえ」
噂は噂だから面白い。仁王本人が認めたと、周囲からはそれなりに近い存在に見えているだろう丸井が話せば、それはもう噂ではない。
「なあんだ」
丸井はつまらなそうにガムを膨らまし、次の瞬間には、お前姉ちゃんいるんだな、と言って笑った。隠し事がひとつ明らかにされる毎に、丸井は嬉しそうに笑ったものだった。何がそんなに楽しいのか知れないが、その表情に乗せられて、随分といろんなことを引き出された。これが噂のコミュニケーション能力というやつか、と感心したりもした。
「満足したか?」
「お前の部屋どこ?」
人の質問など聞こえなかったように、丸井の興味は次へと移る。
「……それ」
こうなればどこまで見られても一緒だ。諦めて廊下の扉を指差した。丸井は間髪入れず「おじゃまします」と言って入っていった。厚かましさとコミュニケーション能力はきっと紙一重なのだと学んだ。
「なんか物少なくね?」
「そうか?」
その頃仁王の部屋あったものは、シングルサイズの簡素なベッドと、パソコン一台を置いたきりの机と、洋服箪笥がひとつだけだった。壁一面が収納になっていたから、テニス道具も詐欺道具も、何もかもそこに突っ込んでいた。他に置くものなど思い当たらなかった。
「引き出し開けていいか?」
駄目だと言ったところで聞いてもらえるのだろうか。少しだけ逡巡して、小さく頷いた。そのときには取手に手が掛かっていたから、きっと聞いてもらえなかったに違いない。
けれど、そこまでの行動が早かった反面、丸井はなかなか引き出しの中を覗こうとしなかった。恐る恐る、と言った体で、不必要な慎重さでもって指先に力を送っていた。
「開けんの?」
「だって仁王の部屋だろぃ? どんな仕掛けがあるかわかんねぇじゃん」
至極不安そうにそう言うものだから、思わず噴き出しそうになった。
「俺は暇人か? 誰も入れんのに仕掛けてどないするん」
「誰もって、誰も?」
心底不思議そうに丸井が言った。仁王はこっくりと頷いた。
「俺が初めて?」
「まあ、そうなるかのう」
「まじかよ」
丸井はまた嬉しさを滲ませた。別に、一番しつこかったのが丸井というだけなのに。そう言ってやろうか迷って、やめた。詐欺なんて仕掛けなくても人の感情は動くのだという、仁王以外にとっては当たり前の事実に妙な感動を覚えた。
仕掛けがないとわかってからは、丸井の中から遠慮という文字は欠片もなくなった。引き出しを開けて回り、壁面収納も暴かれ、エロ本を見つけたと騒いでは、案外普通なんだな、なんて心外な落胆を見せたりした。こんなことになるのなら、本当にビックリ箱のひとつでも仕掛けておけばよかった。
「よし、次はリビングだな」
「もう好きにしんしゃい」
探検。きっとそれが、一番近い。なんだか一人で楽しそうな丸井を見ていると、故郷にいる弟を思い出した。
リビングに入って丸井が一番に駆け寄ったのは、やはりというべきか、冷蔵庫だった。開けていいか、とも最早聞かない。
「うわ、何もねえ」
すぐに飛び出したのはそんな言葉だ。常備しているものといえば水くらいだから、当たり前といえば当たり前だった。
「仁王いつも何食ってんの?」
「適当」
「夜中に腹減ったらどうすんの?」
「減らん」
「嘘だろ。まじで人間かよ」
人間離れした胃袋を持っているのは、どちらかといえば丸井の方なんじゃないだろうか。教室で見るようになった早弁と間食の量を思い出して、胸焼けがした。
「自炊しねえの?」
「パスタ茹でることくらいはあるぜよ」
「女子か」
まあパスタも美味いけどな。そう言いながら、丸井はしげしげと仁王を見つめた。頭のてっぺんから足の先まで、たっぷりと二往復。
「だからお前そんななんだな」
そんなって何だ。人を見るなり失言を発した丸井に、さすがにそろそろキレてもいいかとこめかみが震えた。
「お前さん、ええ加減に」
「はい」
詰め寄ろうとした仁王を遮るように、丸井が手を出した。
「はい?」
「財布出せ」
仁王雅治、十四歳、夏。自宅でカツアゲされるという初体験をした。
「……なして」
「飯作るからに決まってんだろぃ。腹減った」
なんだろう、これは。腹が減ったなら、家に帰ればいいのではないだろうか。百歩譲って、自分のものは自分で買うべきではないだろうか。
「おい、丸井」
声を低くして、今度こそいい加減にしろと言おうとした。けれど、そんな瞬間に限って、仁王の腹が鳴ったのだ。ぐう、と、あまり広くないキッチンに響き渡る音量で。
「な? お前も何か食うだろぃ?」
勝ち誇って丸井は笑った。普段空腹を訴えることなんてほとんどない胃なのに、どうしてそのタイミングで主張してきたのか、仁王は今でも解せない。あれは一種の丸井の魔法なんじゃないだろうか。そう思えるくらいに、きっとあれは転機だった。
仁王の財布を巻き上げた丸井は買い物に出掛けた。遠巻きにジャッカルへの扱いを見ていた仁王も、自分の財布で好き勝手に菓子でも買われるのではないかと危惧してついていった。ところがそんな不安は杞憂で、丸井は慣れた手つきで食材を吟味していた。丸井は食べるだけじゃなくて作るのも得意だ、と人伝に聞いたことはあるが、なるほどそれは本当らしかった。
籠の中に入っていくのは野菜が中心だった。甘いものを食べているところばかりを見ていたから、それは幾分新鮮な光景に映った。
「夏は旬の野菜があるからいいよなー。……お、安い」
口を出すでもなく黙って付き従っていた仁王だったが、特売品の棚に丸井が手を伸ばしたとき、身が凍った。冗談じゃない。そう思って咄嗟に丸井の腕を掴む。何だよ? と怪訝に丸井が振り向いた。何だどころの話ではない。その手の中にある緑色の物体を苦々しく見つめた。
「……ピーマン」
「え?」
「ピーマン、嫌い」
「あ!?」ガラ悪く丸井が叫んだ。「お前なあ。中学生にもなって好き嫌いしてんじゃねっつの」
「ピーマン入れるなら食わん」
「だからガキかって! ちゃんとわかんねえようにするから大丈夫だって」
「絶対食わん!」
ぎゃあぎゃあと言い争いをする男子中学生二人を、夕方の買い物客が迷惑そうに振り返っていく。そんな周囲に構っている場合ではない。これだけは譲れないと主張を繰り返し、ピーマンは籠と棚の間を行ったり来たりした。しかし仁王の抵抗虚しく、結局ピーマンはレジを通ってしまったのだった。
「おーい仁王、できたぞ」
器具が少ないとかなんとか文句をつけながら丸井が何かを作っている間、仁王はソファに体育座りして待っていた。さながら死刑を待つ囚人の気分だった。
どうしてこんなことになっているのだろう。押しかけられて、家中を暴かれて、財布を握られて、苦手なものを食べさせられる。もう二度と他人を家に入れたりなんてしない。そう、誓いを新たにした。
「おい、できたって」
「……ん」
渋々という体でソファを離れ、食卓へ向かった。並べられていたのは二人分のピラフとスープだった。湯気が立ち上るその光景は、けれど少しだけ仁王の心を揺らがせた。だって、あまりにも美味しそうだから。正直、買い物だなんだと時間を喰っているうちに、空腹のピークは過ぎていた。それでも再び食欲が首をもたげる気配がした。
丸井は向かいに座るなり食事を始めた。いい食べっぷりだなあと、こいつは本当にものを美味しそうに食べるよなあと、しばしその様を眺めていた。
「食わねえの?」
「ああ……」
つられる形でスプーンを手に取った。だがやはり、細切れになった具に緑色を見つけて、腰が引ける。
「これ、ピーマン」
「ネギだよ、バカ。まだ言ってんのか」
ほとんど被せるように突っ込まれたって俄かに信じることはできない。この緑色が本当にネギだとしたって、どこかにピーマンは潜んでいるのだろう。そう思えばどうしても手をつけることができなかった。
微動だにしない仁王に焦れてか、向かいから溜息が聞こえた。
「仕方ねぇなあ」
心底呆れたようにそう言って、丸井は仁王の皿にスプーンを伸ばした。二人分食べるのだろうか。さすがぜよ。感心しつつ黙って見ていると、ピラフを掬ったスプーンは、仁王の眼の前で止まった。
「……え?」
どういうつもりか咄嗟に判断がつかなかった。目を見張る仁王に、丸井が追い討ちをかける。
「口開け」
「じゃけえ、ピーマ……」
「騙されたと思って食ってみろよ。ピーマンはお前のこと嫌いじゃないと思うぜ?」
ほれ、と言ってさらにスプーンを近づけられる。一体この押しの強さはなんなのだろう。スプーン越しに丸井を見ても、にこにこと言ったものか、にやにやと言ったものか、ただひたすらに楽しそうだ。
どこまで抵抗が通じるのか、途方もない気分になって、差し出されたスプーンを見た。近くで見てみると、仁王の家にあった古い米だったはずのものが、ぴかぴかと金色に光っている。仁王は趣味の一環として手品も楽しむけれど、こんな手法は知らない。漂う香りには確かにピーマンの臭気も含まれているのに、どうしてか食欲をそそって止まない。
食べてみようか。そう思い直して口を開く。丸井の瞳が輝き、ゆっくりとスプーンが入ってきた。
差し入れられたピラフが舌に落ちた。その瞬間、目にしていたときとは比べものにならないほどの芳香が広がった。なんだろう、これは。ゆっくり咀嚼をしてみた。嫌な苦みは欠片もない。決して濃くない味付けは仁王の舌によく合った。たとえば外食先で食べるような脂っこさもない。
「……うまい」
自然に感想が零れていた。
「な? うめぇだろぃ?」
目の前にあったのは、満面の笑み。何の裏もない、ただ満足気な。
「弟もこれでピーマン食えるようになったんだよな」
本当に、何がそんなに楽しいんだろう。くるくると変わる丸井の表情が全くもって理解できなかった。でも、こんなに美味しいものを食べさせてくれるのだから、一緒にいるのも悪くないのかもしれない。丸井が古米を黄金色に変えたように、そんな魔法にかかったように、ひとりきりだった仁王の世界が、少しだけ変わった。
——あれからもう、三年近くが経つのか。
懐かしい食卓を思い浮かべるうちにピラフは減っていた。残りはあと一口といったところだ。さらえるように掬い上げ、口の高さでじっと見つめた。
丸井は、もうここには来ないと言った。つまり、彼の作った料理ももう食べられなくなるということだ。それは、少し、寂しいかもしれない。
それにしたって、押し掛けてきたのも一方的なら、引き上げるのも一方的だ。丸井にはそういった自分の意志だけで全てを決めてしまうところがあって、気がつけば振り回されていた覚えが多分にある。初めて家に来たときだってそうだった。立海での生活も五年が経って、それなりに安定した日々に慣れていたけれど、元々仁王は詐欺師を自称していたのだ。振り回されるのは、本意でない。
「アホらし」
勝手にやってきて、勝手に去っていった、ただそれだけのことに、どうして心を揺らしてやる必要がある。そう結論付けてスプーンを口に含んだ。少し冷めていたけれど、やはり美味しい。
「……ごちそうさま」
誰もいない食卓で、一人きり、ぽつりと呟いた。最後の一口と共に、形のない憂鬱の侵入が喉を焼いた。このときの仁王は、まだそれに気付けずにいた。