ミスターリビングデッドの一ヶ月

2015/8/23発行
A5/40P/オンデマンド/400円

十年前に死んで七年前から夏の終わりにだけ現れるようになった幸村と、1年のうち大半を社畜として過ごす仁王と、それを取り巻く立海メンバーの一ヶ月

 

▼サンプル

 職場を出たのは午後九時を回った頃だった。
 八月の暑さは日が暮れても容赦なく体力を奪う。朝も早くから照り続けた太陽は夜が逃がしきれないほどの熱を与え、肺の奥まで届く密度の濃い熱気が気道をゆっくりと塞いでいく。大昔はこんな季節でも屋外で走り回っていたことが遠い夢のようだ。尋常でない走り込みで得た体力も、薄いながらにしっかりと身体を支えていた筋肉も、年を重ねる毎に霧散していく気がする。昔から得意でない暑さを遠慮なく浴びせられるたび、仁王はどうして日本に夏があるのかと恨まずにはいられなかった。
 仁王の住処は職場から歩いて十五分のところにある。周囲の静かな環境と、満員電車に乗らなくていいという条件に惹かれて決めた物件だ。あれはまだ春のことだった。夏を迎えた今、テニスをやめて十年以上が経った仁王にとっては、その帰路さえ苦しい。
 春には十五分だった距離を三十分近くかけ、ようやくたどり着いた質素なマンションを見上げる。引っ越して半年にも満たない部屋にはまだ大した思い入れもない。ぼんやりと視線を巡らせると、濃紺のカーテンが目に入った。自室だ。そこには、僅かに灯りが漏れていた。
 ――そうか。もう夏も終わりか。
 大した感慨もなくそう思う。前を向き直り、マンションへ続く簡易なゲートを潜った。入居してすぐに探り当てたオートロックのキーを打ち込み、じっとりと残る夏夜の暑さを疎ましく感じながら三階分の階段を上る。エレベーターはなかった。
 
 扉を開ければ、玄関先に幸村が立っていた。
 「やあ、おかえり」
 「ただいま」
 仁王の返答を確認し、幸村は部屋の奥へと引っ込んでいく。仁王はのろのろと靴を脱ぎ、彼の後を追うようにしてリビングへ向かった。
 「遅いから来る場所を間違えたかと思ったよ。仕事忙しいの?」
 「おかげさんで」
 幸村はソファへ腰掛け、読んでいたらしい文庫本を開いた。仁王は冷蔵庫へ歩み寄り、ビールを取り出す。プルトップを引けばカシュ、と小気味よい音が響いた。一口目が喉に落ちる感覚は、夏の数少ない楽しみの一つだ。この習慣ができて何年が経つだろう。口元を拭って一息つくと、壁に掛けられたカレンダーを見遣った。
 「もうそんな時期か」
 「そうらしいね」
 目も上げず、淡々と幸村は言った。今朝出勤するとき、仁王は正しく一人暮らしの住まいで、たった一人で目を覚ました。仁王にとってほとんどの季節はそう過ごすべきものだ。例外はたったひとつしかない。
 盆を終えた八月半ば。その時期になると、決まって幸村は仁王の部屋に姿を現す。
 「元気にしていたかい?」
 「まあまあな」
 「そろそろ昇進した? 今年三十だろ?」
 「まだまだ。目の上のたんこぶがぎょうさんおっての」
 「だと思った。今度の部屋も質素だもんね」
 幸村がちらりと部屋を見渡した。たった一室、それも八畳きりだ。持ち物が極端に少ないせいで数字ほどの狭さは感じられないけれど、たとえば洗面台は風呂とユニットになっていたし、居住スペースの大半を占めるのは幸村の座っているソファとシングルサイズの固いベッドで、その他に目立つものはない。見るべきもののそう多くない部屋は、すぐに幸村の目線を文庫本に戻した。
 「毎年引っ越しとったら役員でもそうええ部屋には住めんよ」
 「別にいいのに。同じ部屋だって」
 「そうもいかんじゃろ」
 「相変わらず、変なところで律儀な奴だな」
 くすくすと笑みを漏らす幸村は顔を上げない。目はひっきりなしに文庫本の文字を追っている。いつだったか出張の暇つぶしに仁王が買った、なんてことのない短篇集だ。表紙に知った作家の名前がいくつかあったから手にとってみたものの、結局二編ほど読んだきり放置していた。
 「面白いか? それ」
 「あんまり。やっぱり日本文学は合わないかな」
 「非国民め」
 「はは、もう人間でもないさ」
 質の悪い冗談だ。
 もう一本ビールを手に取り、いるか、と尋ねると、幸村は首を横に振った。仁王は代わりにミネラルウォーターを取り出した。いつも冷蔵庫に入っているのはビールとミネラルウォーター、それきりだ。一人の間、食事は大抵外で済ませてしまう。幸村が来たのなら食材を買いに行かなければ。そう考えながら扉を閉めた。
 幸村の隣へ腰を下ろすと、十分に広いソファは彼らの間にそれなりの距離を作る。仁王は手持ち無沙汰になったけれど、幸村が本を読んでいるので、正面に置いた小さなテレビには電気を通さなかった。
 「今年もさ、目が覚めて可愛い女の子が首をかしげていたら、どうやって逃げようかって考えてたんだよ」
 「そりゃあ、無駄にしてもうて悪いの」
 「いい子いないの?」
 「大きなお世話ぜよ」
 「そっか」
 ビールを飲む。紙擦れが聞こえる。
 「そっちは? 変わったことあったか?」
 「あるはずもないさ。仁王にとっての去年は、俺にとっての昨日だ」
 ソファの正面、テレビの裏側に鎮座するカーテンを目にし、外から見た光を思い出した。仁王は何も言わず立ち上がった。小さなローテーブルにビールを置いて窓辺に寄る。夜が、意識しなければ気付かないような隙間の向こうで息づいている。そっと力を込めて隠した。
 こういう種類の綻びはあまり好きでない。仁王は完璧主義ではないけれど、そういった些細な決まりごとをいくつか持っていた。たとえばカーテンの小さな隙間や、ビールの冷え具合や、シャンプーのノズルが向く角度。小さないくつかのこだわりが仁王の生活を音もなく彩っていた。仁王が自分の中であまり好きでない部分だった。
 カーテンをぴったり閉めてしまうとそれきりすることがなくなって、ソファへと引き返した。意識的とも無意識ともつかず、先ほどより少し内側へ座る。それをわかりにくい合図として、幸村は紙面の文字を追いかけながら凭れかかってきた。右側にはっきりとした質量がかかる。
 「また貧相になったね」
 「……うるさいぜよ」
 「筋トレメニュー作ってやろうか? 昔みたいに」
 「断る。それに、メニュー作っとったんは参謀じゃろ」
 「ばれたか」
 何が楽しいのか声を上げて笑う幸村から振動が伝わる。視覚、聴覚、触覚、そのどれもに確かな質感と、質量がある。すぐそばで揺れる髪に鼻先を寄せると懐かしい香りが届いた。昔、幸村が丹精込めて造っていた庭園の、柔らかな土と太陽と花々の匂い。
 腕を回し、幸村の手から短篇集を抜き取った。なにするんだ、と振り向いた肩を押す。抗議の声には大した怒気を感じなくて、身体は素直にソファへと沈んだ。取り上げた本は床に放り投げ、唇でそっと頬に触れる。若々しい弾力があった。
 「どうしたの? 珍しい」
 「久しぶりじゃけえ」
 「だから、久しぶりだと思ってるのは仁王だけだよ。そんなに恋しかった?」
 ほとんど揶揄に近い問いへ、ほんの僅かだけ頷いた。先ほど閉めたカーテンの隙間程度しかない動きを、それでも幸村は感じ取ったのだろう、ふふ、と抜けるような笑いが仁王の耳を掠めた。
 
 
 
 
 幸村が仁王の部屋へ現れるようになったのは七年前の夏からだ。仁王はその年社会人になったばかりで、東京の片隅にある、やはり古ぼけた単身者用マンションで一人暮らしをしていた。
 ほとんど締め切りを迎えた仕事をなんとか片付け、満員電車でもみくちゃにされた後、マンションにたどり着くと自室に電気が灯っていた。それに気づいても仁王は何も思わなかった。頭を過ったのはたとえば犯罪の可能性よりむしろ自分の消し忘れの方で、事実そういったことはよくあった。電気をつけたまま死んだように眠り、翌朝慌てて出て行く、日常はその繰り返しでしかない。冷房をつけたままにしてしまった日でも、帰った瞬間の涼しさに電気代のことなどどうでもよくなった。
 だから鍵のかかる扉を開いて幸村が現れたときには、ついに俺も幻覚が見えるようになったのか、と半ば笑ったものだ。それなりに忙しい日々を送っていた自覚はあったし、ただでさえ苦手な暑さにもすっかり参ってしまっていた。もはや人生の友と呼べるほど恒常であった夏バテは、社会人という簡単に休暇の得られない立場になったとき、改めて牙を剥いたのだった。
 「おかえり」
 のんきな声が、狂人への一歩を踏み出した感慨に浸る仁王へ届いた。それは記憶を辿る限り確かに幸村の声で、幻覚だけでなく幻聴も聞こえるらしいと冷静に分析する。かつて心を患い長期休暇を取っていたと聞く先輩が職場にいたな、と思い出し、クリニックを紹介してもらうべきか思案した。
 「おかえり、って言ってるんだけど」
 幻はもう一度喋った。今度はいささか苛立ちを含んだ声で。
 「……ただいま?」
 「よくできました」
 満足気にそう言って、彼は決して長くはない廊下を取って返した。随分しっかりした幻覚だ。会話が成り立つなんて尋常じゃない。そんな感想を抱きながら、仁王は後を追った。
 「随分遅いんだね。いつもこのくらい?」
 「ああ、まあ」
 「ご飯は? ちゃんと食べてんの? 相変わらず貧相な体して」
 「貧相……」
 彼はそのままズカズカと奥へ進み、ソファに腰を落とした。まだ新品だったぶん、その頃はいっそう部屋を圧迫していた。
 「いい部屋に住んでいるじゃないか」
 「そりゃ、どうも」
 いい部屋、と称されるような物件では決してなかった。ただ眠りに帰ることができればいい、そんな基準で選んだ部屋だったし、置いている家具の中には十代の頃親の選んだものもあった。そういうものは、大人になってから自ら選んだ家財とはどこか質感が違っていた。
 でもたぶん、そんなことを考えている場合ではない。
 仁王は一日かけて疲弊しきった思考をクリアにするため、冷蔵庫を開けてビールを手に取った。疲れているだけだ、だからこんなものが見える。そう言い聞かせながら力任せにプルトップを引っ張った。
 「へえ。やっぱり飲むんだ、お酒」
 「悪いか?」
 「悪くないよ」
 大人なんだから。何がおかしいのか、声を上げて彼は笑った。
 「社会人……だよね。なにしてるの?」
 「デザイン系」
 「へえ、デザイナー」
 「デザイナー……と、営業、半々かの。小さい会社じゃけえ」
 「営業? 仁王が?」
 目を丸くした彼に居心地が悪くなり、悪いか、と小さく呟いて仁王は目を逸らした。自分だってそんなつもりで就職したわけではない。悪かないけど、そう言って彼は手を顎に当て、しばし何かを考えているようだった。
 「ああ、でもそうか、営業と詐欺は近いのかな」
 よくわからない理論で二度頷いて、彼は仁王の職業について彼なりの結論を決めたらしかった。その過程はすっかりと幸村のものだったので、仁王はいよいよ目眩を覚えた。
 「のう」
 「なに?」
 気持ちを落ち着けようと口に含んだビールは、妙な苦味が目立つばかりで、慰めになどなりはしない。
 「幸村、か?」
 きっと、他にいくつも言いようはあったのだろうが、口にできたのはそれきりだった。
 「他の誰に見える?」
 きょとん。そういう表現がぴったりくる表情で彼は答えた。無邪気さがときに人を傷つけるということを、果たして彼は知っているだろうか。そんな風に思った。
 「誰にも。でも幸村なわけはない」
 「どうして?」
 「おまんは……」少し躊躇う。「死んだ、はずじゃろ」
 声にしてみて、改めて尋常でない現象が目の前で広がっていると認識した。心臓は早鐘を打ち始め、冷や汗が背を伝った。そうだ、幸村は死んだのだ。こんな風に、ソファで寛いでいる存在ではないはずだ。
 「ああ、うん。そうだよね、やっぱり」
 幸村は至極のんびりとした口調でそう言った。
 「俺も死んだつもりだったんだ。その瞬間のこともよく覚えてる。……それで、目が覚めたらここにいた」
 「目が覚めたら、て」
 「今は西暦何年だい?」
 咄嗟に答えることができなくて、ぎこちない所作で携帯電話のカレンダーアプリを立ち上げた。その頃仁王にはカレンダーを飾る習慣がなかった。自分で一度確認し、それから目の前の相手へと掲げる。幸村はすっと目を細め、画面を凝視してから、小さく嘆息した。
 「そうか。もう三年経ったのか」
 そうだ。幸村が死んだのは三年前の夏だった。
 
 
 中学時代に発症した病がぶり返したのは、高校最後の年だった。元から完治したわけでないということは、高校へ入る前に聞いていた。いつ再発してもおかしくないし、そうなったら今度は命の保証はないのだと。
 それでもきっと、幸村ならば、また奇跡じみた復活を遂げるのだろう。半ば思考を止めてそう信じていた。見舞いへ行くたび、やせ細って筋の浮いた腕や、青白い頬や、そういうものから目を背け続けていた。中学時代から少しも進歩のない自分を心底軽蔑しながら。
 
 「死後の世界って、あるのかなあ」
 高校を卒業して数ヶ月が過ぎたある日、幸村がぽつりと呟いた。大学で新しい生活を始めていた仁王は、陰鬱な病室から逃げ出したい心を抑え、ある程度の頻度で彼の様子を見に訪れていた。
 「わからんよ。死んだことないけえ」
 それもそうだね、幸村は頷いた。
 「不思議なものでさ。死んだことなんてないのに、もうすぐ自分が死ぬんだって感覚はわかるんだよ。だけど、別の世界へ行くって感覚はないんだ。世界の認識が変わる、そういう感じ」
 「……なにを言っとるかさっぱりわからん」
 「うん、俺もわかんない。ただ、たぶん、俺たちが思ってるよりずっと、世界って観念的なんだよ」
 大学一年生の夏、窓から差し込む強い日差しの中、幸村は綺麗に笑った。彼が死んだのはその三日後のことだった。
 
 葬儀の日はよく晴れていた。遠くの方に真っ白な入道雲がそびえ立つ、暑い日だった。
 厳かに並ぶ黒い行列には馴染むことができなかった。仁王だって服こそ黒かったけれど、当時まだ脱色していた髪はひどく浮いていた。あちこちから聞こえる他人ごとのようなすすり泣きが耳に不快感を与えた。仁王はそれまでに祖父を一人亡くしていたけれど、人が一人死ぬということが、どうしてもうまく掴めていなかった。
 棺に花を入れるとき、頬にそっと触れた。伝わる冷たさが視覚とあまりにかけ離れていて反射的に仁王は手を引いた。物理だ、と思った。死は限りなく、物理的な問題だ。
 家族以外に火葬場までついていくことを許されたのは、中学・高校と立海大附属でテニス部レギュラーを務めた者だけだった。最後の読経が終わり、無機質な壁の奥へと吸い込まれる彼を見送った後、仁王は外へ出た。いくつかの小さな塊に分かれる同胞の誰とも話したくはなかった。
 幸村を焼いた煙の立ち昇る空は、いっそ嫌味なほど晴れ渡っていた。
 せめて雨なら泣けたかもしれない。低い気圧に比例した気分にのせられて、降りしきる雨粒に紛らせて、少しでも。涙雨ひとつ降らせない幸村がやけに〝らしく〟ていっそ腹立たしかった。抜けるような青空へと幸村の灰が吸い込まれる様を、ただ見上げていた。
 
 これが仁王の覚えている限り、最後の幸村の記憶だ。