繁華街から電車で十分、独り住まいの学生と一般家庭が混在する住宅街のど真ん中にその店はある。午後八時、寂れかけた駅前商店街を抜け、三つほど区画をやり過ごせばぼんやりと光る小さな看板が見えるだろう。赤い丸枠に同じく赤いRの文字、上下に分かれた白と黒のマークが目印だ。木製の扉を潜れば長身で物静かなマスターと、銀の髪をしたバーテンダーが君を迎える。雰囲気だけで値段を決めてはいけない。チャージフリーで安いバーボンならワンショット五百円で楽しめる。店の名前はBAR RIKKAI、近くまで来たのなら、是非お立寄を。
Old Fitzgerald 1849
「ほんといつ来ても暇そうだよね、この店」
「落ち着いている、と言ってくれるか」
一枚板でできたカウンターしかない店内には古いジャズが流れている。六席ある客席のうち埋まっているのは一番奥の一席だけで、その上に吊るされたテレビでは消音で『ブレードランナー』のDVDが映されている。未来のアジアン・タウンでラーメン屋の店主が三ヶ国語を操っていた。字幕しか流れない今、その判別はつかない。
「生活できてんの?」
「問題ない」
ふうん、と言ってたった一人の客はグラスを傾けた。ウェーブがかった長めの黒髪と中性的な顔立ちが年齢も性別も覆い隠している。彼の前にはチンザノドライの瓶が置かれていて、彼は人差し指で緑のラベルを軽く弾いた。
「なあ、オランジェってもう飲めないの?」
「廃盤だからな。仁王がネットで買えると言っていたが、プレミアがついているらしい」
カウンターの中でマスターは片端からグラスを拭いて回っている。
「入れる気は?」
「ない」
あっそ、と言って客は頬杖を付く。
「そういえば今日、仁王は?」
「休みだ」
なあんだ、とつまらなさそうに彼は呟き、チンザノロックを一口飲んだ。
「あいつにフロートでも頼んで扱き下ろしてやろうと思ったのに」
「やめてやれ、あれでも酒の勉強は真剣にしているんだ」
「だからだよ」
辛口感想は成長の糧だろう?と言って笑った。マスターも苦笑を返す。
「それにしても、蓮二があの子を雇ったときは驚いたよ」
「そうか?」
「未だに素性知れないんだろ?用心深いお前らしくないよ」
「精市と親交が続いているんだ、今更あいつを雇うことくらい何でもないことだろう」
「どういうことだよ」
「そのままの意味さ」
薄く笑ったマスターの名は柳蓮二といった。住宅街のど真ん中に店を構えてまだ一年にも満たない。客席にいる幸村精市は彼の古い友人で、開店時間に合わせていつも一番にやって来るのだった。彼らの付き合いはもう十年以上になるが、柳は未だに幸村の職業すら知らない。自分と同年代であるということ以外、明確な年齢も知らなかった。
カラン、と入り口から鐘の音が鳴った。彼らは同時に振り向く。青年と呼ぶにはおぼこく、少年と呼ぶには成長し過ぎたきらいのある男が扉を開いたところだった。
「ちっす!」
「いらっしゃい」
「俺、チェック」
声をかける柳の傍らで、グラスに半分以上チンザノを残したままの幸村が言った。
「なんでそんないじわるするんすか幸村さん!折角俺が来たのに!」
「他に客がいるなら俺が蓮二の相手する必要ないだろ」
意地悪く笑う幸村は、それでも立ち上がる気配を見せるわけでもない。ゆっくりとチンザノの続きを飲む。新しく入ってきた彼は幸村の隣の席を引いた。合わせて柳がコースターと灰皿を置く。
「何にする」
「えーっと、今月のお勧めバーボン何でしたっけ?」
「オールド・フィッツジェラルド1849だ」
「じゃあそれ、ロックで!」
この店では月替わりでお勧めのバーボンを決めていて、期間中はそれがどんな銘柄であれワンショット五百円で提供される。ちなみに柳の好意でワンショットの量は通常定められた量よりも少し多かったりする。
「懲りないね赤也、弱いのに無理してロック飲むのやめなよ」
「弱くないですって!幸村さんの化け物みたいな肝臓と比べないで下さいよ」
「誰が化け物だって?」
幸村が綺麗に微笑み、赤也の表情が少し引き攣る。
「この間も記憶失くしたんだろう?取り返しがつかなくなる前に自分の容量知っといた方がいいよ」
「あのときはダーツ負けてテキーラ一気させられた後だったんですって!」
「飲み方が若いんだよ」
なあ蓮二?とロックアイスを削る柳に振った。柳は目線をアイスピックに定めたままで笑った。そもそも柳はひどく細い目をしていて、どこを向いているのか明確にはわからない。
「お前も通った道だろう、精市」
「え、幸村さんも潰れたこととかあるんすか?」
「いつの話してんのさ」
「未だにブッカーズが飲めないのは昔の名残りだろう」
削り終わった氷をロックグラスに嵌める。ミネラルウォーターを注いでマドラーで回せば、三回回って底に落ちた。水を捨てて棚からオールド・フィッツジェラルドのボトルを降ろす。
「俺ら世代はブッカーズにいい思い出のある奴なんていないと思うけど」
幸村は些かつまらなさそうにグラスを呷った。マイルドセブンに火を点けた赤也がゆっくりと煙を吐く。
「ブッカーズって、あの妙に高いバーボンっすよね?」
「昔は安かった。度数と値段が釣り合っていないから犠牲者が沢山出た」
間髪入れずに柳が答える。ブッカーズはこの店で一番高いバーボンであるパピーヴァンの隣に鎮座していた。
「へえ、何度なんすか?」
「126.6プルーフ…即ち、63.3度だ」
「まじすか!?」
「それを水の如く消費していたんだ、潰れるのも無理はないだろう」
「若気の至りだよ」
赤也の前にロックグラスが置かれた。続いてチェイサーも添えられる。そうして彼の前に、ラベルを表にしてボトルを置いた。
「あざっす!」
「お疲れさま」
幸村が軽く上げたグラスに、赤也が琥珀色の液体で満たされたグラスをぶつける。
「お疲れっす!」
乾杯を見届けた柳はマルボロを取り出し、腰からチェーンの繋がったジッポで火を点けた。オールド・フィッツジェラルドを啜った赤也が顔を顰める。氷が溶ける前のアルコールが喉を焼く。
「うまいか?」
「……たぶん」
「俺それ飲んだこと無いんだけど。一杯もらえる?」
空になったグラスを差し出して幸村が言った。煙草を灰皿に置き、頷いて柳が受け取る。
「フィッツジェラルドってさ、あれ関係あるの?グレート・ギャツビー」
「無関係だ。銘柄の由来は酒造職人の名だよ」
空のグラスをシンクに起き、新しいグラスを取り出す。煙草を指に挟んだまま、バーボンを少し飲んだ赤也が首を傾げる。
「何すか?そのグレート……何とかって」
「小説だよ。赤也文学部じゃなかったっけ?」
「……文学部だからって別に本読むわけじゃないっすよ」
赤也は決まり悪く灰皿の上で煙草を叩いた。彼はこの街にある総合大学に通っていたが、周囲の人間は未だに彼がどうして合格することができたのかわからないでいる。本人曰く、センター試験で鉛筆を転がしたら九割取れた、のだそうだ。
「待たせたな」
幸村の前にグラスが置かれる。彼が口を付けたのを見届け、柳は長くなった灰を落とし、ゆっくりとマルボロを吸った。
「へえ、飲みやすいね」
「ライ麦の代わりに小麦を使っている。それで甘さが出るんだ」
なるほどね、と言って幸村は軽くグラスを揺らした。大きな氷がゆるりと回転する。短くなった煙草を消し、赤也も自らのグラスに口を付けた。程よく溶けた氷が度数を下げた所為か、今度はするりと喉に入る。
「ほんとだ、なんか甘いっすね」
「本当にわかってる?」
わかってますよ、と幸村の言葉に噛み付く。この店に出入りする人間の中で赤也は格段に若い。大学生になり、浮かれた遊び方が一段落して成人を迎えた頃、彼はこの店にやって来た。大人に混じって酒そのものを楽しむような飲み方に憧れる気持ちが可愛くて、幸村はいつでも赤也を見ると揶揄ってやりたくなった。それは何も幸村に限ったことではなかったが。
「そういや今日仁王さんいないんすか?」
「休みだってさ」
「なんだ、店終わったらダーツ誘おうと思ったのに」
丸井さん来ないかな、と呟きながら新しい煙草に火を点ける。幸村は頬杖を付き、真上にあるテレビを眺めた。画面の中では死に行くアンドロイドが雨に打たれている。
「……懐かしいな、ダーツ」
「幸村さんもやってたんすか?」
「昔ね」
アンドロイドが事切れたタイミングでフィッツジェラルドを一口含んだ。幸村は煙草を吸わない。この街の人間には珍しかった。
「精市は昔1440点を出したことがある」
「まじっすか!?教えて下さいよ!」
赤也の目が賞賛に光る。余計なこと言うなよ、と幸村が睨み、柳は笑って受け止めた。
「一回だけだよ。もう止めたんだ」
「何でっすか、勿体ない!」
「蓮二も上手かったよ。そっちに教えてもらえば?」
ね?と言って小首を傾げる。同時に赤也も目を輝かせて柳を見た。彼らに見向きもしないで柳は新しい煙草に火を点ける。
「俺に振るな。弦一郎はどうだ?」
「えっ、真田さんもやってたんすか」
赤也の表情が強ばった。真田は時折客としてやって来る警官で、初対面のとき未成年と勘違いされ店を追い出されかけて以来赤也は彼を苦手としていた。彼も幸村、柳とは十年以上の付き合いだった。
「あいつもアベレージは1000を超えていたな」
「蓮二もだろ」
「何なんすか、あんたら……」
結局赤也は彼らに師事することを諦め、翌日に仁王を誘うことにした。アルバイトとして雇われている仁王は、休日には何が何でも連絡がつかない。どこで何をしているかなど誰も知らない。
「ってか、ここにダーツマシン置いてくれればいいんすよ」
「この店のどこにそんなスペースがある?」
柳は視線を入り口へと走らせ、すぐに赤也へと戻した。カウンターだけの店内で、壁は背もたれに出来るほど近い。
「もっと広いとこ借りればよかったじゃないすか」
赤也が普段渡り歩くダーツバーはどれも十分な空間があって、二台、多いところでは四台ほどのダーツマシンが置かれていた。地価が安いこの辺りでは予算が少なくともある程度広い店舗を借りられるのだと耳に挟んだこともあった。
柳は煙草から灰を落とし、一口吸って、ゆっくりと煙を吐き出した。そうして少し目を開き、赤也を見据える。
「いいか。俺は第一に広い空間が好きではない。第二に手の届かない場所に客がいることが好きではない。第三にやっぱり広い空間が好きではない」
「……はあ」
無駄な威圧感に赤也は小さくなる。隣の幸村が小さく笑い声を上げた。
「ワーナー・ブラザーズが使いそうな台詞だね」
「もう使ってるさ」
赤也には笑い合う彼らの意味がわからなかった。
BAR RIKKAIの夜はこのようにして更けていく。客はいつでも二人か三人、他にも個性豊かな面々がやって来る。興味が湧いたならば一度訪ねてみるといい。赤い丸枠に同じく赤いRの文字、上下に分かれた白と黒のマークが目印だ。