大柴喜一は凡人が嫌いだった。凡人のくせに、一端に一流ぶって生意気にプライドを振りかざしている奴なんて死ねばいいと思っていた。彼は自分が銀の匙をくわえて生まれてきたことを自覚していたし、余りあるその幸運に巡り会えなかった人間が何をしようが、そんなものは底のない笏で水を掬うより無駄で報われるはずのないことだった。
 つまり君下敦は、大柴にとって最も嫌うべき存在だった。
 君下とは生まれ育った街が近かった。小学生の頃から何度も試合で当たり、共に選抜へ呼ばれもした。いつもそばにいるわけではないが、年単位で離れるようなこともない、奇妙な距離の隣人みたいなものだ。
 はじめから彼のことは気に食わなかった。
 取り立てて体格がいいわけでもない、ゲームの組み立て方だってほどんど教科書通り、ボールコントロールだけは目を見張るものがあったが、それだって泥臭い日々の反復練習で身につけただけのものだ。彼のチームメイトは天才だなんだと囃し立てていたようだが、何もかもに恵まれた大柴からすればそんなものはどんぐりの背比べもいいところだった。
 それなのに、彼はいつもピッチの中心にいる。観客を沸かす。ゲームを支配する。
 敵として、チームメイトとして、ピッチの上で彼のプレイを目の当たりにする度、大柴は苛立ちを募らせるばかりだった。

崩壊はいつも些細な亀裂から始まる

 「テメェ、調子に乗んじゃねぇぞ」
 「あ?」
 あれは中学二年だったか、選抜で顔を合わせること数回、大柴のゴールに対するアシストの数で君下が一位になった頃だった。
 「俺は絶対テメェを認めねえ」
 声を掛けた場所はそれまで何度も苦汁を舐めさせられた神奈川代表を下した会場で、少し離れた場所ではチームメイトたちが勝利に浮かれていた。君下も試合終了の笛と共に、滅多にしないガッツポーズを見せていた。
 「……そうかよ」
 溜息混じりに君下はそう答えた。落胆は見えず、ただ呆れだけがその表情に浮かんでいた。
 「別に俺はお前に認められるためにサッカーやってるわけじゃねぇし。どうでもいい」
 「なっ、」
 「話はそれだけか?」
 極めて冷静にそれだけを吐き捨て、未だ勝利に沸く仲間の元へ戻るでもなく、ピッチを背にして君下は去っていった。
 ――ふざけるな。お前なんて凡人だ。才能もないくせに必死で喰らいついてるだけのハイエナだ。ついでに言うと貧乏人だ。
 欲しいと思う場所にボールが来た。閃いたコースに走りこんできた。そのあまりのやりやすさが、大柴にどうしようもない居心地の悪さを与えていた。

 それでも中学の頃はまだよかった。大柴の信念やプライドが満たされる局面が、あまり多くを留められない彼の記憶に残る程度の頻度で起こっていたから。
 挑戦状のつもりか単にSなのか、君下は時折無茶振りともとれるパスを上げてくる。そういったとき、事も無げに捌いてやると、普段の仏頂面が鳴りを潜めて彼は目を見開くのだ。
 その表情を見るのが快感だった。テメェのような凡才のイマジネーションなんてたかが知れてるんだ、と勝ち誇るように。

 それさえ向けられる対象が大柴でなくなっていったのは、いつの頃からだったろうか。

 大柴と君下が同じ高校へ進んだことが示し合わせた結果でないことは説明せずとも誰にだってわかる。彼らは別々にスカウトを受け、別々に入学を決めた。大柴が君下も聖蹟にいると気付いたのは、入学式で「なんでテメェがいるんだ」と突っかかられたからだ。新入生の中で誰よりも背の高い、ついでに髪の色も赤い大柴と違って、サッカーをしていないときの君下は群衆に紛れるごく凡庸な生徒でしかなかった。
 「そんなこともわからないのか? 俺の才能が買われたからに決まっている。スカウトだ、スカウト」
 「……なんでよりによってお前なんだよ」
 「お前はどうせ一般入学だろう? せいぜい球拾いから頑張りたまえ」
 「っざけんな! 俺もスカウトだよ!」
 「はあ!? なんでよりによってテメェが!」
 「それはもう俺が言ったろ!」
 ぎゃあぎゃあと喚き立てる新入生は当然教師の目に止まることとなり、入学式早々いきなり生活指導室デビューを果たした。どうして自分が、こいつのせいだ馬鹿野郎。きっと互いに考えていた。
 ひとしきり説教を受けたあと、やっとボールが蹴れると少しの反省心もなく背を向けたとき、君下だけが残るように言われた。説教延長戦か、ザマアミロ。ほくそ笑んで閉めた扉の向こうからは、学年主席なのに、とか、奨学金がどう、とか聞こえてきたが、大柴にはなんら関係のないことだった。

 そんな風に些細な争いはあったけれども、基本的に大柴の高校生活は順風満帆にスタートした。日々の練習では正しくアピールできている感触があったし、理不尽な外周を多少サボったって強く怒られることもなかった。インターハイにはスタメンだろうと噂されるまでそう長くもかからなかった(そこに君下の名前も並んでいたことは気に食わなかったが)。
 けれど暗雲は一ヶ月も経たないうちに垂れ込め始めた。大柴の傲慢なまでの自信やプライドは、ある男のプレイを目の当たりにして、その根本を脅かされることとなる。

 「また水樹だ! 止まんねえ!」
 ――君下を超えて自分の理念に反する人間がいるだなんて、一体どうして大柴に予測できただろう。紅白戦で数度目に揺れた敵陣のゴールネットへ、忌々しく舌打ちを零した。
 彼はおよそ「上手い」の概念からはかけ離れていた。技術は拙く、攻撃のバリエーションも少なく、フィジカルの強さ、その一点のみで名門聖蹟のエースに上り詰めた男。
 聞けば彼は高校へ入学したときまったくの初心者だったという。短期間での急成長を才能だと評する人間も多くいた。けれど大柴はそうとは納得しなかった。大柴にとって才能とは生まれついて持った体格やセンスのことであり、間違っても愚直な努力で開花するものではなかったのだ。
 こんなはずではなかった。日に日にそう思う頻度が増えた。
 一方で、君下は違う感想を抱いたようだった。
 中学選抜の頃、ボールが回ってくる少し前、君下が最初に目を遣るのはいつも大柴のいるセンターだった。大柴はいつだって攻めに転じられるポジション取りをしていたし、君下は絶対に好機を逃すようなマネなんてしなかったから、それでうまくいっていた。
 いつからだ、と大柴は思う。いつから、君下はパスを受けるとき、一番に左サイドへ視線を流すようになった?
 だからといって、大柴がこれ以上にない体勢のときにはきちんとボールを回されることが、尚更彼のプライドを傷つけた。
 何よりも、仲間へ果たし状を叩きつけるような無茶振りパス、君下の悪癖とも呼べるそれへ応えるのはもう大柴ではなかった。驚きのあと確かな歓びの浮かぶ君下の表情が大柴の目に映るとき、それは横顔ばかりになっていた。

 そういうわけで、大柴の決して堅牢でない堪忍袋の緒が切れたのは、高校一年の選手権予選真っ最中だった。
 「どういうつもりだ」
 たまたま二人になった部室で、これが好機とロッカーへ追い詰めるようにして大柴は凄んだ。君下は大して驚きも、まして怯えもしなかった。必要最低限以外に言葉を交わさない彼らの会話はいつでも唐突で、いつでも喧嘩腰だったからかもしれない。
 「テメェの発言にゃ相変わらず主語も目的語も何もねえな。ちっとは人間にわかる言葉で喋りやがれ」
 「わからねえお前が馬鹿なんだろ」
 「喧嘩売りに来ただけなら出てけ」
 売り言葉に買い言葉。何年経とうが進歩も中身も何もない罵り合いを脳天気に続けられるほど、大柴に余裕はなかった。
 「……あいつに惚れてんのか」
 「は?」
 「惚れてんだろ」
 「あぁ? あいつって誰だよ」
 「二年の水樹だ」
 その名を口にすると、君下は息を呑むように目を見開いた。ちくしょう、こんな薄暗い部室で見たかったわけじゃなかったのに。大柴の苛立ちは更に募った。
 「……何を言い出すかと思えば」
 馬鹿だとは思っちゃいたが、遂に脳みそ溶けたか? 一瞬の驚きを仕舞い込み、口の端だけを上げる生意気な揶揄にいっそ殺意が沸いた。
 「違うのかよ。馬鹿みてぇにあいつばっか意識しやがって。テメェは犬か? テメェに言わせりゃFWが犬じゃなかったのか?」
 「っは、お前でも昔の発言覚えてることがあんだな」
 「悪ぃか、殺してぇと思ったからだろ」
 昔からプライドだけは天のように高かった。それが気に食わなかったし殺したいと思ったしバキバキにへし折ってやりたくて仕方がなかった。だから生意気なパスを待った。こいつの上を更に行く、それが快感だった。
 「……なァ喜一」
 溜息のように名を呼ばれた。高校で新しくついた大柴の愛称を君下は頑なに使わなくて、最近では家族以外に呼ばれることの少なくなった下の名は、腐れ縁の残渣みたいなものだ。
 「お前わかってねぇみたいだからひとつだけ教えといてやるよ」
 出血大サービスだぞ、なんて腹立たしい軽口を添えて、君下が人の悪い笑みを浮かべた。
 「俺はお前の才能ってやつに心底惚れてる。ガキの頃からだ」
 「あぁ? なに気色悪ぃこと言って……」
 「でもそれだけだ」
 ぴしゃりとそう言って、かちりと合った君下の目はひどく冷徹なものに変わっていた。
 「それ以上でもそれ以下でもない。俺はもうテメェにゃ驚かねえよ」
 見透かすような発言に、今度は大柴が目を丸くする番だった。
 「俺はいつだって勝率の一番高い選択しかしねぇ。それがトップ下のプライドってもんだ」
 そう吐き捨てて君下は踵を返した。

 たっぷり数秒間、放心したあとで、湧いてきたのは腹の底からの怒りだった。
 俺を頼れ俺だけを見ろ俺の活躍にすべてを捧げろ。そう伝えるはずだった言葉はひとつも発する隙を与えられなくて、心の中にある何かが焼き切れたような苦しさを感じた。そんな感覚は生まれてこの方一度も味わったことがない。それは屈辱であり、敗北であり、失恋のようでもあった。
 「……っ、クソが」
 力任せにロッカーへ拳を叩きつけた。派手な音を立てて凹んだが、誰のものかなんて知ったことではない。
 「上等だ」
 あの凡才のプライドにまみれたボールを、常識の域を出ないゲームプランを捌くのは自分だ。お前は凡人だと鼻の先をへし折ってやるのは自分以外認めない。あんな精神論野郎に渡してたまるか。
 それが酷く嫉妬の色をしていることに、大柴はまだ気付くことができなかった。

2016.3.14