或る日常

「うわ、面白いことになってんね」
「あ?」
 とうに部活も終わった午後十一時、一度帰ったはいいけれどなんとなく蹴り足りない気がしてこっそりグラウンドに忍び込んだのが二時間ほど前のことだった。自主練は誰もいないグラウンドでやるもんだと信じてやまない俺は割と不法侵入の常習犯で、だからそろそろ引き上げるかと向かった部室に電気が点いていたときにはドキリとした。強豪だけあって居残り練をする連中は多いが、それでもこの時間に誰かがいることは入学して数ヶ月が過ぎたこの時期初めてのことだった。
 もしかしたら点けっぱなしなだけかもしれない、このまま朝が来てたら一年は外周確定だったなあいつら可哀想に。自分も一年? 関係ないね。
 そう思って開いた扉の向こう側には、ちょっと想像だにしない光景が広がっていた。そこで話は冒頭に戻る。
「なんだ、風間か」
 つまらなそうにそう言って手の中にある書類に目を落とす眼鏡をかけた君下くん、だけなら別に驚きはしない。問題は、その膝に頭を預ける巨体の存在だ。体格だけでも十分にわかるが赤い髪が尚更目立つ。
「なに、なんでそんなことになってんの?」
 たまらず投げた疑問符に返ってくるのは不機嫌そうな眉間の皺だ。いやわかってるよ君下くん、集中してるとこ邪魔されるの嫌いだもんねゴメンね、でも気になるから。
「なにがだ」
「いやいや、その膝のやつ」
 そう言われて初めて思い出したかのように、君下くんはちらりと右膝を見遣った。ああ、と呟いて、なんでもないようにして資料へ視線を戻す。
「珍しく練習終わってからちょっと残ってたらしくて」
「うん」
「ここで監督にもらった資料見てたら俺にも見せろって覗き込んできやがって」
「で?」
「三秒で寝た」
「ぶはっ、キーチマンらしいや」
 俺が声を立てて笑っても君下くんはにこりともしない。別にそんなのはいつものことだから気にしないけど。ついでに言うとキーチマンからの起きる気配だって微塵も感じられなかった。
「こいつは文字見たら眠くなる病気だからな」
 馬鹿が。嘲るようにそう言う君下くんの、けれど見下ろす目線はいつもほど尖っていなかった。キーチマンが眠っているからかもしれない。起きてたら間違いなく戦争勃発だ。
「それでずっとその体勢?」
「起きててもうるせぇだけだろ。こっちのほうがよっぽどマシだ」
「ああ、それは、まあ、」
 わからなくもないけれど、それにしたって。
 あまりにナチュラルだからツッコんでいいものかわからなくなってきた。この動じなさ、つまりこれはよくある光景なのか?
「大会中なのに風邪引くよ? 練習着のまんまじゃん」
「大丈夫だろ。馬鹿は風邪ひかねえ」
「あ、そうスか」
 まああんまり追及するのもアレだし、と自分のロッカーへ向かう。

 改めて君下くんを盗み見ればそれは真剣な表情で資料を読み込んでいた。君下くんは基本的に真面目だ。サッカーのことになればもはや意固地にさえ見える。
「それって次の対戦相手?」
「ああ」
 インターハイ二次予選の緒戦、下馬評では聖蹟有利が揺るがなかったはずだ。練習中にも監督と君下くんが何やら真剣に話し合っていたのを思い出す。別にナメてるわけじゃないけれど、そんなに念を入れるものか? と正直思う。
「トーナメントだからな。何が起こるかわかんねぇし、念入れとくに越したことねえだろ」
「……え」
 なにこの人、心読めるの? 肝を冷やして振り返っても相変わらずの仏頂面があるだけだった。
「俺、なんか言いました?」
「ウチに入ってきたばっかの、それもエース候補のルーキーが考えそうなことなんて大体わかる」
「あ……そっスか」
 それは自分の経験則ですか、なんて聞くほどデリカシーがないわけじゃない。
「キャプテンが使えねえんだ。残りの手駒で勝とうと思ったら、そう簡単じゃねぇよ」
 こちらを少しも見ようとしない君下くんの手は次から次へと分厚い書類をめくっていて、冗談で言っているわけじゃないと言われなくてもわかる。
「キャプテンのプレイってあんままともに見たことないんだけど、そんなにすごいんスか?」
 戯れにそう問うてみると、すぐには君下くんからの答えは返ってこなかった。少なくとも色んな感情を飲み下す程度の間があった。
「……まあな」
 なにか続くかと思ったけれど、それきり沈黙が落ちる。

 聖蹟に誘われた頃、水樹寿人なんて名前は聞いたことがなかった。耳に聞こえるようになったのは一年と少し前くらいからだろうか。
 もちろん、彼がプロを決めてから噂では色々と聞いていたし、入学してからもチーム全体に漂うキャプテンへの信頼は身に感じていた。だからといって知らないものは知らない。それでもこの短期間で一緒にプレイしてきた君下くんの手腕はわかっているつもりだったから、こういう姿勢は意外だった。
「もしかして君下くん、自信ない?」
 揶揄めいてかけた言葉が図星をつけるなんてもちろん思っちゃいない。
「んなこたねぇよ。お前も入ってきたし、喜一がいるから」
 やはり当然のように彼は言う。けれどその言い草は予想したものとは少し違った。

 喜一、とはもちろん君下くんの膝に転がっている赤髪の彼のことだ。キーチマンと君下くんは至極仲が悪い。それはたぶん部内共通の認識だと思う。彼らの学年では誰も疑うことのない主力二人のはずなのに、普段は目も合わせず、時折関われば喧嘩ばかりしている。だから俺はこの部屋の扉を開いたとき、意外だと思ったのだ。
 そりゃあ、仲が悪いからって君下くんがキーチマンのアピールやチャンスを無視したりするわけではない。それどころかたぶん、キーチマンの使い方を一番わかっているのは君下くんだ。でもそれは単純に、君下くんが職人気質だからだと思っていた。パサーにとってキーチマンは強力な武器だということは俺にだってわかる。ポテンシャルでは聖蹟で一番、そんな風に彼は謳われていた。
 けれどそれだけではないのかもしれない、とは、幾度かの試合で体感した。たとえばサインも言葉もなく繰り広げるコンビネーションであるとか、キーチマンにしか届かないギリギリの場所に上がるパスであるとか。
 それに君下くんは、皆が「シバ」という彼のことを、ただ一人下の名前で呼ぶ。口を開けば喧嘩ばかりしている彼らの、それは一種特別な絆のように思えた。

「……なんか、なんだかんだでキーチマンのこと大好きだよね、君下くん」
「ぁあ?」
 あ、やばい、君下くんの怒りマークが増えた。無意識に言葉を滑らせた自分に冷や汗が流れる。タメの連中には「君下先輩に生意気な口聞けるのはお前くらいのもんだ」なんて言われるけれど、怒らせて平気なわけでは決してない。怖くはないが面倒くさいのだ。
「え、いやほら、試合中とかさ、キーチマンがいるといないじゃ全然違うじゃないスか。たまにやるコンビネーションだって息ぴったりだし」
 別に変な意味じゃないんだって弁解するようにそう言えば、返ってきたのは盛大な舌打ちだった。
「こいつとは付き合いだけは無駄に長えからな。どうすりゃ点が取れるかわかってるだけだ」
 気持ち悪ぃ言い方すんじゃねえ。君下くんはもう一度舌打ちを響かせた。
「付き合い長いって、いつから?」
 それでも追求したくなる自分の好奇心は大したものだと思う。君下くんは少しだけ睨みの効いた視線を寄越し、また資料に戻りながら言葉だけを続ける。
「出会ったの自体は小学校んときだ。中学は選抜で一緒、学校も一緒なのは高校からだな」
「へえ? 高校は一緒に受けたの?」
「なわきゃねぇだろ。殺すぞ」
 ……デスヨネー。怒らせたいわけじゃないのにどうしてか君下くんの神経を逆撫でするような発言ばかりをする舌を呪う。でもなんかちょっと、面白いから、君下くんからかうの。
「でも監督は知ってて二人に声かけたんスよね、きっと」
「だろうな」
 溜息まじりに君下くんは言う。それってつまり、自分とキーチマンの相性がいいって認めてる発言だ。
「自覚あるんだ」
「でもこいつはこのまんまじゃ駄目だ」
 心底忌々しそうに君下くんが言う。
「ナメてやがんだ、何もかも。最初からてっぺんにいて、他人のこと見下して、努力ってやつをくだらねえと思ってやがる。所詮井の中の蛙なんだって誰かが思い知らせてやらないといけねぇんだ」
 その言葉に籠っていたものはきっとひとつだけの感情ではなかった。その才能に対する嫉妬と期待とが入り混じっていっそ憎悪になってしまいそうな。
 君下くんにはきっと、キーチマンへ思い描く色んなプレイがあるのだろう。できるものできないもの、キーチマン次第でできるようになるかもしれないもの。

 ――なんか、いいなあ、そういうの。
 空気も読まず、そんな風に思う。

 自慢じゃないけれど俺はチームメイトに恵まれた経験があまりない。それは決して環境のせいではなかったし、俺自身の問題だったことは十分に理解しているつもりだ。サッカーが好きだってだけでボールを蹴る奴みんなとうまくやっていけるわけじゃない。それは身に染みてわかっている。
 俺の言えたことじゃないけれど、目の前の彼らだって、他人とうまくやっていくことに殊更優れているタイプには見えなかった。片やいつだって世界中全部敵だみたいなオーラを纏って舌打ちばかり繰り返している職人気質だし、片や世界は全部自分のものだとでも信じていそうな傲慢の天才だ。
 そんな彼らが、他の何もかも合わないのに、たったひとつ、サッカーでだけ認め合える相手に出会えたのは、いっそ運命なんじゃないかと思う。ほら、俺って結構そういうの信じるタイプだし。信じるようになったのは最近だけど。
 なんか、そういうのって、いいなと思う。うまくは言えないけれど。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、黙った俺を不審がってか君下くんが顔を上げた。
「なんだよ」
「いや、やっぱ君下くんってキーチマンが好きなんだなって」
「はあ? いい加減キレんぞ」
 いやうん、だから怒らせたいわけなんじゃなくって。
「俺なら期待してない相手に苛立ちなんて持てないスもん。疲れるじゃん、怒るのって」
 気にしないフリ、響かないフリをして笑って流すのは楽だ。あんまり長くない人生で身につけたその術を盲目に信じた頃もあった。だけど本気や本音は、なかなか置いてきぼりを食らっちゃくれない。いつでも飛び出せるタイミングを、ぶつけられる相手を待っている。
「そういうのって、いいなって思いますよ。揶揄でもひやかしでもなんでもなくて」
 つまり君下くんは、キーチマンにもっと上へ行ってほしいんでしょ? そう言うと君下くんは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、またひとつ舌打ちを零した。
「……ま、こいつだって、全国でも行きゃあ嫌でもわかんだろ」
 寄りかかって寝息を立てるキーチマンを見遣って呟き、それから君下くんは資料へと視線を戻す。素直さであれば、この人になら勝てるかも、そう思って少し笑えた。

 期待すること。落胆すること。そのふたつは同義で、そういう過程を俺は二度味わってもう二度と繰り返すかって誓って、また最近手を出そうとしている。性懲りもなく。
 俺は少しも草臥れていないつくしのスパイクを思い出していた。ああいうのは疲れるのだ。結局は思い過ごしで見当違いの怒りだったことも含めて。でもそういうのは、自分が人間だって思い出されて、どうしようも愛しくなるということもあのとき知った。

 着替え終わってロッカーを閉めても、彼らは少しも体勢を変えそうになかった。部室にはいよいよキーチマンの鼾が響き始めていた。
「じゃ、俺帰るんで。君下くんもほどほどにしないと、明日の練習響くよ」
 一度帰ったから制服ではなく私服だった。荷物を肩にかけ、出口へ向かいながら振り向くと、けれどそこには虚をつかれた君下くんの表情があった。端的に言って、珍しい。
「あ……?」
 君下くんは口を開け、部室の時計を見上げた。それからキッ、と眉間の皺が増える。
「おい、今何時だ風間」
「え?」
 突然慌て始めた君下くんに面食らいながら、ポケットの中の携帯を取り出す。部室へ向かうときすでに十一時だったのだから、それなりの時間のはずだ。
「えっと、十一時半、スね」
「はあ!?」
 君下くんの素っ頓狂な声で、扉を押し開けようとした手が止まる。
「もしかして時間見てなかったの?」
 そういえば、部室の時計は数日前に壊れたんだっけ。確かキーチマンが暴れたときに。
「おい喜一! 起きろ! いつまで寝てやがる!」
 叫びながら振り下ろされた君下くんの手はグーだった。まじかよ、容赦ねえな。
 ゴツン、と間違いなく骨と骨のぶつかる音が響いて、それでも反応はといえば少しの身動ぎくらいだった。怒りマークを増やした君下くんは、起きろ殺すぞ、と勢い良く立ち上がった。キーチマンはものすごい音を立てて床へ転がり落ちた。そこまでしてようやく目が覚めたらしい。寝言の延長線みたいなうめき声を漏らし、ごしごしと目を擦って周囲を見渡した彼と、ドアノブを掴んだまま動けないでいる俺の目がばっちり合った。
「……風間? はえぇな」
 あ、寝惚けてる、この人。そう思いながら愛想笑いで片手を上げる。光速でツッコんだのはもちろん君下くんだ。
「早くねえよ遅いんだよ! もう十一時半だぞ馬鹿!」
「っ、はあ!?」
 今度こそ覚醒したキーチマンが叫んだ。
「なんでもっと早く起こさねえんだよ馬鹿!」
「知るかよ! 部室の時計壊したのテメェだろが馬鹿!」
「携帯見ろ携帯!」
「んなもん持ってるわけねえだろ!」
「いい加減買え貧乏人が!」
 見慣れた罵り合いが始まって、やっぱりこの人たちはよくわかんねえな、と呆れに近い溜息が漏れる。俺の存在などはじめからなかったかのように、真剣でくだらない言い争いが繰り広げられる。
「あっ、親父! あいつちゃんと飯食ったかな」
 はっとしてそう叫んだ君下くんは、突然しゃがみ込んでキーチマンのスポーツバッグを漁り出した。外側についたポケットから迷いなく携帯電話を取り出す。またそうやって喧嘩の種を増やすんだから、と、ほとんど呆れてキーチマンを見遣ると、彼は「フン」と鼻を鳴らしただけで、着替えるためにか自分のロッカーへ向かう。
 ……え、ほんとわかんないんだけどこの人たち。出口で固まったままの俺に、「おい、ついでに俺んちにも連絡しろ、迎えに来させる」なんて言葉まで届く。動けない俺と目が合ったキーチマンは、「お前も乗ってくか?」とYシャツのボタンを止めながら聞いた。お前「も」ってことは、君下くんは既に数に入ってるってことなのかな。
「ううん、逆方向だし、チャリだから大丈夫っス」
 笑顔を貼り付けて答えたら、そうか、とキーチマンは脱ぎ捨てたユニフォームを鞄に突っ込んだ。

 きっとこの人たちは今までずっとこんな風にやってきて、これからもずっとこんな風にやっていくんだろう。そう思うと、やっぱり少し羨ましくなった。俺には昔から気心の知れてる仲間なんていなかったから。
 でもこれからはそうじゃないんだって予感はある。聖蹟ってきっとそういう場所だ。

 ようやく扉を開けると、夜の風が首筋を冷やした。空は澄んでいて夏の大三角形が輝いている。いい夜だ。
 何をそんなに言い争う種があるのか、未だ怒鳴り声の響く部室を背にして、俺の気分はすこぶる清々しかった。

2016.3.29