ねえ、あたしいい店を知ってるの。ちょっと遠いんだけど、今から行かない?
 先週知り合った女からの誘いに彼は二つ返事で乗った。どこか見下すように愛する街の、ありがちな雑踏で引っかけた女だった。ありふれた名前の、ありふれた化粧の女だ。素顔を隠す仮面と同様にその名前は偽名かもしれなかったが、彼にとってそれは取るに足らない情報だった。彼の基準を超えるくらいには整った顔立ちをしていたし、何よりセックスが巧かった。
 彼は彼女の年齢を知らない。彼女も彼の年齢は知らなかっただろう。年齢を聞いてくるような女を彼は相手にしない。相手を知りたがる女は大抵独占欲が強いと彼は分析している。年齢の次は誕生日、それから住所、女はセックスに必要のない情報ばかりを知りたがる。
 あたしはこの街も好きなんだけど、利便性よりも外見を重視したような赤い車を走らせながら彼女は言った。あの街はちょっと特別。あなたにはこの街も似合うけど、どっちかっていったらあっちなんじゃないかしら。
 ふうん、気怠げに相槌を打ちながら彼は窓の外を見ていた。建ち並ぶビル、行き交う人々、男は女に声をかけ、女は気のない素振りで男を見定める。実に動物的なこの街の夜を彼は愛していた。彼の携帯がバイブ音を響かせる。恐らく昨日の女だろう、と彼は思った。お前が一番だとベッドで囁いた後、じゃあ他の女のアドレス全部消してよと本気で言い出した女だ。それさえなけりゃ出てやったのに、彼は思う。出なくていいの?前を向いたまま運転席の彼女が言う。ああ、今夜はもう埋まってる。彼の中では現在暫定的に彼女が1番のお気に入りだった。それが一週間後には変わっているであろうことをお互いに知っている。あるいはそれは明日かもしれないし、今夜かもしれなかった。彼は外見が整ったセックスの巧い女のうち、そういった聞き分けのいい女を取り分け好んだ。そういう種類の女を見分けることも本能的に得意だった。昨夜は少し勘が鈍っただけの話だ。
 首都高に乗る頃には眠りについた彼が目を覚ましたとき、車はどこか余所余所しい街を走っていた。彼がそう感じたのはそこが初めて訪れる街だから、というわけでは恐らくなかった。起きたの?もうすぐ着くわよ。彼がその理由を見つける前に、彼女は前を見据えたまま言った。どこだ、ここ。彼はあまり寝起きがいい方ではない。内緒、けれどそう言った彼女の微笑みを彼は嫌いだとは思わなかった。彼女がそれなりに美しかったからだ。
 パーキングに入り、サイドブレーキを引いた後で彼女は彼にキスをした。着いたわ、息のかかる距離で彼女が言う。見りゃわかるよ、彼は丁寧にキスを返して、何の余韻にも浸らず外へ出た。パーキングを囲うブロック塀はスプレーの落書きでほとんど埋まっていた。これはあの街と変わりねえな、と彼は思う。行く先々でブロック塀はたいてい赤や白や黒に埋もれていたが、そういえばそれらが吹き付けられる瞬間を彼は見たことがなかった。多分マヌケな光景なんだろうとぼんやりと思う。ナワバリ争いだかなんだか知らねえが、カスみたいな人間のやることは全くもって理解できない、とも思った。スプレーの赤はビビッドで、彼はそれをもう少し暗い血の赤に染めることが好きだった。常にサングラスで世界を遮る彼にとって、色の違いはスペクトルよりもクロマのほうがより重要だった。
 こっちよ、ハイヒールの踵を鳴らして彼女が腕を取る。それを解くと一瞬不満そうな表情をしたが、そのまま肩に回してひとつ口付けを落とすと気を取り直したように微笑んだ。さっきの顔のほうがよかったな、と助手席からみた笑顔を思い出した。

 あんな男には会ったことがないし、これからまた会うとも思わない。これは、沈み行く太陽が置き土産にした夏の終わり、思春期の少年達の出会いの物語である。

グレート・ギャツビー

 ああなんだ、日本じゃなかったのか。車から見た街並みの余所余所しさを、彼は店に入って漸く理解した。ね?たまにはこういうのもいいでしょ?古いロックが流れる店の中で、飛び交う言葉はほとんどが英語だった。米軍か?店内を半分以上埋め尽くす体格の良い外国人を一通り見渡した後、彼は言った。正解、基地の近くにある酒場よ。酒場、といういささか古風な表現を彼は気に入った。まるで港に立ち寄った船乗りの気分だった。
 彼らはカウンターの真ん中あたりの席に陣取った。彼はハイネケンを、彼女は季節のカクテルを注文した。バーテンダーは日本人だった。
 ドリンクが来るまでの間に彼はもう一度店内を見渡す。薄暗い店内を見極めるために掛けていたサングラスを少しだけずらす。店はわりと広い造りで、カウンターの後ろには木製のテーブル席がいくつもあった。ステージもあったが、今は誰一人として立っていなかった。青いスポットライトだけが空しくステージを照らしていた。然るべき時間には然るべきレベルの歌唱力を持った誰かが歌っているのだろう。あるいは踊るのかもしれない。客のうち男は大抵アメリカ人だが、女は全て日本人だ。当たり前か、彼は思う。米軍を相手に今夜の客を探す彼女達の姿は多分普段彼が出会い別れていく女達よりも少し年上だった。というよりは種類が違っていた。口紅は真っ赤だったし、ドレスには最小限の布しか使われていなかった。何人かに目星をつけているうちに、一人の女と目が合う。どちらかと言えばタイプであったので彼はにこりと微笑みカウンターの下から手を振った。女も同じように微笑む。ついでに声でも掛けるかと彼は立ち上がりかけたが、彼女の肩に色は薄いが量は多い体毛に覆われた太い腕が回るのを見て興醒めした。まだ夜は始まったばかりだろうが、小さく舌打ちして前に向き直る。いい女でも見つけた?振り向けば隣の女が薄いブルーをしたショートカクテルを掲げていた。いや、やっぱりキミが一番さ、芝居がかった囁きと共にいつの間にか置かれていたハイネケンを手に取る。カツン、と小気味よい音を立てて彼女の持つ青が揺れた。海よりは空に近いブルーだった。
 何杯目かのカクテルを半分くらい飲んだとき、彼女は席を立った。お手洗いに行って来る、決して安全とは言えない店内の奥に彼女はスルりと姿を消した。それはひどく慣れた素振りで、もしかするとあいつも普段は赤い口紅を塗って布の少ないドレスに身を包んでいるのかもしれねぇなと彼は思った。もちろんそれを訊ねる気はなかった。
 一人になった彼はもう一度店内を見渡す。所々に見え隠れする貧相な日本人の男は大抵目つきが飛んでいた。酒じゃなくてクスリだろうと彼は思う。そういう目を彼はあの街で何度も目にしていて、そんな薬物に溺れることは狂気の沙汰だと思っていた。わざわざ幻覚なんて見なくても、この世界は十分イカれちまってるじゃねぇか。店の中で日本人を見つけるのは容易かった。線の細い男を見つければそれは一人一人紛れもなく日本人だったからだ。カスみてぇ、と口角を上げながら氷が溶けて幾分薄くなった何杯目かのハイボールを喉の奥に流し込んだ。そうして次の一杯を、と前に向き直ろうとしたとき、視界の端に奇妙な人だかりがあることに初めて気が付いた。
 テーブルにあったのは積み上げられた札束だった。円ではなくドルだ。賭けでもやってんのか?目を凝らすとゲームに参加していると思しき男のうち、一番奥に座っている一人だけはどう見ても日本人だった。体の線がひどく細かったからだ。あ゛ぁ?どう見ても札束はその日本人の周りに集まっている。あんなカスが勝ってやがるってか、札束に囲まれた日本人は髪だけは金だった。恐らく抜いているのだろうが、暗い照明の所為もあるかもしれないがその髪は傷むことなく天井に向かって派手に立ち上げられていた。同じように脱色している自らの毛髪を摘み、その質があまりに異なっていることに気付いて舌打ちをする。いやそれより、彼は金髪の日本人をもう一度よく見直す。あのカス、俺とタメぐれぇだろ。彼はほとんど公にしなかったが、実のところまだ13歳の少年だった。彼自身は早くも出来上がり始めた大きな体と尋常じゃなく酒に強い遺伝子の所為で制服を着ているとき以外に言い当てられたことは一度もなかったが、その少年は間違いなく中学生くらいに見えた。あの金、頂くとすっか。彼はカードゲームに興味はなかった。テーブルを囲む彼らの方法ではなく、もっと単純な方法で今夜の酒代と当面の豪遊費を手に入れようと決めた。
 そのとき一人の女が現れなければ彼は間違いなくそれを実行していただろう。それは先程目があったそこそこタイプの、だが既に今夜の客を決めた女だった。さっきこっち見てたでしょ、彼の二の腕に手を添えながら彼女は言った。酷く艶めかしく計算され尽くした手付きだった。ああ、見てたよ、でもキミ彼氏と一緒だったみたいだからさ、サングラスを外し、計算し尽くした角度に眉を下げて彼は答える。あら、あなたも綺麗な子を連れてたじゃない、今連れはトイレに行ってるの、あなたも?近くで見ると彼女は思っていたよりもずっと彼の気に入った。そうだよ、でもあいつ最近浮気してるみたいなんだ、その話をしてる途中だったんだけど。勿論嘘だった。嫉妬する素振りと傷ついた素振りは女の防御壁を8割方取り除く武器だと彼は思っていた。あいつが帰ってくる前に一緒に消えようか、今夜の俺にはキミの方が魅力的に見える。
 Fuckin’Jap!
 彼らが微笑み合うのと、その怒声が店内に響いたのは同時だった。人混みを掻き分ける兵士の太い腕が振り下ろされる瞬間を彼は黙って見詰めていた。めんどくせェ。女が甲高い悲鳴を上げ、床に落ちたグラスが割れた。彼の体が床に叩き付けられる。酷いスラングで彼を罵りながら兵士はもう一度拳を振り上げた。肉というよりは骨に当たったような鋭い音が響き、女が目を背ける。しかし倒れたのは殴りかかったはずの兵士の方だった。白目を向いて仰向けに倒れた兵士に切れた口内から血を吐きかけ、彼は立っていた。
 「あ゛ーあ゛ー、折角の夜が台無しじゃねェか」
 カウンターからサングラスを拾い、兵士を見下ろす彼の声色は先程まで女に囁いていたものとは異なる波長で空気を震わせた。ニヤリと口角を上げると、意識を失った兵士の腹に容赦なく蹴りを入れる。何してるの!?トイレから戻った彼の女の叫びはもうその耳に届いてはいなかった。さらに暴行を加えようとする彼に別の兵士が襲いかかるが、彼は一瞬でそれを見切り、次の瞬間には床に沈めていた。店内が先程までとは全く異質の喧噪に包まれる。
 潰す、潰す、潰す。もう一度言うが、彼はカードゲームに興味がなかった。彼が好むのはセックスと暴力で、つまり体の本能的な行為を半ば狂信的に愛していた。目の前に腰を振る女がいれば突っ込むし、立ちはだかる男がいればねじ伏せる。その瞬間彼は全てのことを忘れられた。彼が従うのは彼自身の欲望だけだった。
 突然現れた日本人の尋常ではない暴行に米軍兵士達は次々に襲いかかった。彼はそれをゲームのように次々と倒していく。始め仲間意識と日本人への侮蔑から兵士達は彼を襲ったが、そのうちそれはファイトクラブさながらの様子へと変わっていった。俺はあのジャップに300ドルだ、いやボビーに500ドルだ、飛び交うドル札を舞い上げながら彼は狩りを楽しんだ。普段相手にしているあの街の貧弱な日本人達よりは多少骨があることが彼を一層楽しませた。
 端的に言って、彼は退屈していた。この世界には何一つ彼を楽しませるものはなかったし、刹那的欲望以外の何かが満たされた経験はなかった。例えば上下関係というものがこの世界に存在する。誰にとっても上位にある者と下位にある者があるはずだが、残念なことに世界は有限だった。人が人に優劣をつける限り、必ず頂点と底辺は存在した。それまでの彼の人生の中で、おそらく彼は頂点だった。思い通りになるものは一つも存在せず、ありとあらゆる者達は均質で均一だった。

 「オイ、そんくらいにしとけ」
 ガチャリ、と聞き慣れない鈍い金属音が響くと共に野次馬が一斉に静かになったのは彼が8人目の兵士にとどめを刺そうと拳を振り上げた瞬間だった。
 「あ゛?」
 彼は目だけで後ろを見遣る。見えたのは真っ直ぐに向けられた銃口と、聳え立つ金色の髪だった。瞬間、右足を振り上げる。目にも止まらぬ速さで後方ナナメ45度に回したその足は、しかし予想していた衝撃を与えることなく空を切った。金髪の少年は銃口を向けたまま、数歩後ろに下がっていた。かわした?彼はそう思い、瞬時に違う、と感じた。そんな能力的な問題じゃねェ、俺の動きを”読み”やがったんだ。
 「おいカス、殺されてェか」
 胸を反らしてポケットに手を突っ込み、一回り小さい少年を見下ろす。ケケケ、少年はあまり聞き慣れない乾いた笑い声を上げ、まあ落ち着けよ、と口角を上げた。
 「テメー正気だろ?金剛阿含」
 サングラスの奥の目を細める。確かにさっき札束を積み上げてた日本人だが、彼はそれ以外その少年に見覚えはなかった。まあ聞けよ、と少年は続ける。
 「俺は平和主義者なんで、テメーみてぇな化けモンとやり合う気はねェ。ちょっと取り引きしねぇか」
 取り引き?阿含は目だけで問う。そっちのテーブル来いよ、そう言って少年は札束の溢れかえった席へと踵を返した。野次馬の人だかりが目配せをしあい、肩を竦めてそれぞれの席へと帰っていく。あいつそんなに偉ェのか?阿含には何故店の客が少年の意に従うのか全くもってわからなかった。人垣に目を遣ると連れてきた女も声をかけた女も姿を消していた。急速にあらゆる熱が醒めていくのを自覚していた。

 その男が暴れ出したとき、酒場の一番奥にあるテーブル席でカードを引きながら、少年はそいつをありがちな薬物中毒者だと思っていた。この街にはそういった種類の薬剤は余るほどに流通していて、数え切れないほどの中毒者達がいたからだ。彼らは大抵の場合日本人で、またその多くが若者だった。
 あれには手ェ出すなよ、顔なじみの米軍兵士は言った。あんなモンに手ェ出すくれぇなら死んじまったほうがマシさ。in a cloud of angel dust、古いロックを口ずさみ、あれは天使のフリした悪魔さ、と言った。
 危うげな風体と大金を持つ彼にその手の誘いがかかったのは一度や二度ではなかったが、結局のところ彼がそれらを手にすることはなかった。それは彼が知人の忠告を忠実に守ったからかもしれなかったし、単に彼が武器とするところの脳内伝達物質を守りたかったからかもしれなかった。あるいは数々のライフルやマシンガンがより彼を惹き付けたという理由だけかもしれなかった。
 とにかく突然暴れ出したその男は少年が散々見てきた中毒者達とほとんど同じで、彼は囃し立てる野次馬の声と拳が肉にめり込む鈍い音を だから彼がそちらに目を向けたことも、たまたまその男の横顔が分厚い人壁の隙間から見えたことも、全くの偶然だった。
 サングラスの隙間から見えた瞳を見たとき、彼は心底驚いた。ほとんど恐怖だったと言ってもよい。中毒者だと思っていた男の目は酷く醒めていて、それから醒めきっていることを前提にわざとらしく狂気で塗り潰されていた。何度も脱色を繰り返したと思われる金髪は不潔さを漂わせているにも拘わらずその姿はむしろ神々しくさえあり、彼は酷く狼狽えた。それが表面に出なかったのは日頃から彼が感情の高ぶりと比例して表情を抑える訓練を積んでいたからだ。男の姿がすぐに体格の良い軍人達の間に隠されたことも少しは助けになったかもしれない。
 誰だよ、あれは。音だけになった狩りの様子に目を凝らし、それから思い出したように端末を手に取った。おい、賭けねェのか?この先数ヶ月分の給料を負債へと変えた兵士が切実に声を張り上げていたが、普通より感度が良いと言われる耳にその声はまるで届いていなかった。
 金剛阿含という名前が中学スポーツ界と暴力団関係というまるで種類の異なるカテゴリからヒットするまで、そう時間はかからなかった。

 阿含が席についても、少年はまるでその札束を仕舞う素振りを見せなかった。まるで信頼しているかのような行動に彼は酷く苛立ちを覚えた。彼が何も言わずに札束を奪い取ることなどないのだと言わんばかりで、しかしあるいは少年はそのドル札に執着がないだけなのかもしれないとも阿含は思った。どちらにしても酷く苛立つ素振りだった。ちょっくら調べさしてもらったんだが、と前置きをして少年は誰かが飲んでいたであろうジョニー・ウォーカーのロックを阿含に押し遣った。
 「テメーは今渋谷のとあるチームにお尋ねモン扱いされてる。違ェねェな?で、テメーはめんどくせェからそいつらを潰したがってる」
 ロックは本来阿含の好みではなかった。半分ほど溶けた氷は幾分その色を薄れさせていたけれど、それを煽った彼の喉を確実に焼いた。少年が握っているのはコーラで、それを嘲笑するか睨みつけるかの判断を阿含はなかなか下せないでいた。喉を焼く琥珀色のアルコールよりも、少年の発言が事実だったことよりも、コーラの瓶が男性を興奮させる為に作られていたことの方が関係していたかもしれない。
 「俺はそいつらのアジトを知ってる」
 こっからが重要だ、耳クソかっぽじってよく聞きやがれ。阿含の目の色が変わらないことを確認し、コーラを煽ってから続けた。瓶から一本だけ外された人差し指が阿含を指す。刺すと言っても過言ではないほど長く尖った指だった。
 「連中、裏ルート使って銃を手に入れやがった。テメー1人殺す為に、だ。何の変哲もねェコルトだが、急所ブチ抜きゃいくらテメーが化けモンでも命に関わんだろ」
 少年は阿含から目を離さない。逆も然りだ。サングラスを掛けている分少しだけ阿含が有利だった。自分の目を隠せたし、相手の視線を遮断できた。だから精神的には少年が少しだけ有利だった。何も隠していないからだ。
 「だが問題はテメーの命がどうとかじゃあ勿論ねェ。その入手先だ。裏にそいつを流したのはここの基地の奴で、俺のカモだ。負け分取り返す為に武器庫からくすねたコルトを売り捌きやがったってェ寸法だ。テメーの屍に残った弾丸なり落ちた薬莢なりから足がつきゃこっちも少々面倒なことになんだよ。流した奴らはプロだから痕跡なんざ残しちゃいねぇが、売った糞兵士は残念なことにそんなこた微塵も考えちゃいなかった」
 で?気まぐれに片眉を上げて彼は先を促す。少年はポケットから取り出したガムを口に入れ、プク、と一度膨らませて口の中へ納める。銃か、阿含は思った。ナイフは腐るほど見てきたがそういえば飛び道具は見たことがなかったかもしれない。少年が脇に後生大事そうに抱えているマシンガンに目をやった。あるとこにはあるんだな、まるで他人事のように阿含は思った。実際そういった武器の類は彼にとって他人事だった。それらを必要とするような相手に出くわしたことがなかったからだ。
 「連中の動向を逐一教えてやる。テメーは好きなだけ暴れて、ついでにコルトを取って来てくれねェか?」
 あ゛?阿含は不機嫌ですと伝えるためだけに存在するような表情を作った。
 「俺にお使いなんざ頼むってのか」
 「もちろんタダじゃあねェ。このドル札の山でどうだ」
 テーブルを見渡す。日本円にしていくらかは彼にはわからなかったが、当分金に困らないだろう額であることだけは確かだった。正直に言って、今まで阿含にとってその連中の動向などどうでもよかった。お尋ね者になっている彼はいつでも狙われていたし、狙われたそのときに返り討ちにすればいいだけの話だったからだ。だが確かに銃となれば話は違う。問題は彼が先天的に持つ反射神経の伝達速度に音速が劣るということだった。彼の耳に発砲音が届いたときには弾は彼が反応できない位置まで飛んで来ているかもしれなかった。
 「で、銃を取り返してどうすんだ。オトモダチに返してやるってか」
 今までの場当たり的日常と大金の入るセキュリティのどちらが自分にとって有益であるか、頭の回転が規格外に速い彼には考える時間すら必要でなかった。別段、金に目が眩んだと思われたとしても彼にとって特に不都合はなかった。前向きと取れる阿含の発言に対し、まさか、少年はニヤリと笑う。
 「俺が使うんだよ」
 フン、鼻で嗤うように、けれど醒めた目を面白そうに細めて少年を見遣る。
 「テメー、誰だ」
 蛭魔、と少年は言った。
 「蛭魔妖一。で、どうすんだ?金剛阿含」
 契約成立の代わりに阿含は新しいコーラを注文した。

 「世界ってのは、あれだ、カスみてェなもんだ」
 大きさの割に重さのある黒い塊を軽く放りながら阿含は言った。
 「お疲れさん」
 ケケケ、と特徴的な笑い声を上げながら、蛭魔はそれを受け取る。西日を受けて輝く金髪とシルバーピアス、それから銃。一番上までボタンの留められた詰め襟だけがひどく浮いていた。無造作にそのポケットへと黒い鉄の塊を放り込み、どこからか一部始終を納めていた携帯動画を蹲るチンピラ達に見せて回って別のポケットから取り出した黒い手帳にしきりに何かを書き込んでいた。
 「何してんだ」
 「アフターサービスだ、こいつらは二度とテメーを襲わねえ」
 「余計なお世話だ」
 「ついでに俺の奴隷にする」
 奴隷?呆けた声で聞き返す阿含を、蛭魔は例の笑い声で流すだけだった。
 「テメーはいつもそんなことしてんのか」もう一度問う。
 「おう、いつ何が使えるかわかんねェだろ」
 阿含にとって例えば蛭魔の持つ銃器だとか、人の弱みにつけこんだ奴隷だとかは弱さの象徴でしかなかった。彼は道具を使わなくても他人を威嚇することができたし、一睨みしただけで大抵の人間を制圧することができたからだ。蛭魔の行動は十分に阿含に見下されるものであったし、事実阿含はそう思っていた。それでも蛭魔とその後も連絡を取ることを選んだのは、もちろん彼が持つ情報の有用性もあったが、彼がそれらを自身の弱さ故に身に付けているものだと十分に理解していて、むしろ意図的にそうしていたからだ。
 「腹減った、なんか食おうぜ」
 「報酬でか?」
 「んなもん使わねェでもそこに落ちてんだろ」
 気を失ったチンピラのポケットから長財布を取り出し、当たり前のように入っているだけの紙幣を取り出す。賞賛するでも嗜めるでもなく蛭魔はガムを一枚口に入れる。
 「テメーの奢りか?」
 「アホか」
 随分と高度を下げた西日が、並んで歩き出した彼らの金の髪を照らしていた。
 もう一つ付け加えるとするならば、阿含は今まで老若男女問わず自分に媚びない人間とほとんど出会って来なかった。その動機はあるときは畏怖であったし、あるときは羨望であったが、およそ周囲の人間は彼を自らとは違う生き物として扱った。彼らは一様に阿含の少し後ろを歩いた。自らを守るように、彼から目を逸らさないように。それは彼自身自負していたことであり、それに対して疑問も不満も抱いてはいなかったが、つまり蛭魔は単に珍しかったのだ。往々にして飽きっぽい性分であった阿含は既に世界に退屈していて、それでも生き続けなければならない彼にとって今のように平然と横に並ぶ蛭魔は新しい玩具のようなものに映った。
 「月見バーガー今日からだろ」
 「大金入ったってのに庶民的なこって」
 「うるせェよ」
 だから蛭魔が感情を外見から消し去る訓練をしてきたことは、今此処で最大の効果を発揮したと言ってもいい。彼は実のところ酒場で暴れる阿含を見たそのときから彼に畏怖も羨望もおよそ他人に対して抱く尊敬の念を全て抱いていた。それはほとんど恋と言ってもよかった。それら全ての感情を押し殺すことで今阿含の隣に並べているとするならば、この出会いに関して蛭魔は圧勝だった。そしてこの先阿含を騙し通すことを彼は誓っていた。肩を並べるフリを続ける覚悟をした。
 永遠に続くように思える暑さが確実に終わりを迎える頃、阿含の制服についた返り血を含め、思春期という微妙な季節に彩られた彼らはそんな風に出会った。

2010.10.18