悪魔と青く深い海のあいだで

 練習が終われば糞ガキ共はこの世の終わりみたいな顔をして次々と部室を後にする。明日遅れやがったらブチ殺す、まるで義務のように檄と弾丸を飛ばすと儀式のように糞マネがそれを妨害する。まもり姉ちゃん、またね。後ろから聞こえた声に清掃用具如きで俺の弾丸を受け止めながら、にこりと笑って振り向いた。
 「うん、またね、セナ。」
 俺がトンプソンM1を降ろしても糞マネはしばらく動かないでいた。閉まっていくスライド式ドアの隙間からは1年共が騒ぎながら遠ざかっていく姿が見える。別れの挨拶をしたあいつらは誰一人こちらを振り向きはしない。それを知っていてこいつは扉が完全に閉まるまで視線を動かそうとしない。
 なあ、知ってるか?心の中で俺は問いかける。あの糞チビがテメェの帰りを待たなくなってから、既に142日が経過している。テメェはその間いつもいつも飽きることなくその姿を見送った。振り返らないことなどとうに理解しているだろうに。
 扉が閉まってからたっぷり12秒後、糞マネは溜め息を吐く。俺に気付かれないよう小さな小さな素振りで、そして俺はこいつに聞こえるよう大きな大きな舌打ちをする。
 「なに、ヒル魔くん、どうしたの?」
 その音に漸くこちらを向いた糞マネは表情も声も不自然なほどいつも通りで、俺はもう一度舌を打って新しいガムを取り出す。
 「コーヒー」
 ああ、と儀式的に握り続けていた清掃用具を壁に立てかける。
 「ごめんね、すぐ入れるから」
 そしてパタパタとカウンターの向こうへと走り去る。半分以上コーヒーの残っている俺のカップになど見向きもしないで。

 テメェは知ってんのか。何度も問いかけたことがある。もちろん心の中での話だ。
 あの糞チビには重大なる秘密がある。それは俺がかけた呪いでもあり、テメェを欺く為のイミテーションだ。あらゆるものに対峙し立ちはだかるその背中に実はあいつがいねぇってことにテメェはいつまで目を逸らす気だ?テメェは幼馴染みという名目で糞チビにはひどく甘い。盲目的と言っても良い。そうでなくても隣人愛を本気で振りまいているようなテメェは、実際は自分が一番残酷だって知っているか?
 隣人愛とは笑わせる。なるほどガキん頃から家の近かったテメェにとって糞チビに注ぎ込む愛は隣人愛に違いないかもしれねぇな。愛は世界を救うと本気で言える人間はテメェくらいのもんだ。
 だが現実はどうだ?テメェはその狂気じみた愛で正気のままに糞チビを殺す。いや、殺してきた。十何年という年月をかけて、真綿で首を絞めるようにじわじわと確実に殺してきやがった。果たしてそれを真っ向から否定することができるか?たかだかモップ1本で。
 罪を償うにはまず罪を自覚するところから始めなければいけない。すでに骨の髄まで染みついちまってる習慣的犯罪行為をテメェは認めることができるってのか?なあ、知ってるか、糞マネ。テメェの愛は人を殺す。絶望的に、完膚無きまでに。

 「ヒル魔くん、知ってる?」
 あれ、まだ残ってるじゃない、と言って新しいカップに入れたコーヒーを置きながら糞マネは言った。今問いかけてたのは俺のはずだが、心の中で、と思いながら俺の目線はあくまでもモニターから離れない。幸か不幸かそんな俺のシカトは常にこいつに無視される傾向にあった。
 「セナね、身長伸びたんだよ。視線の高さが前より近い気がするの。」
 ヘラリと笑って糞マネは俺の斜め前に腰掛ける。カジノ台の表面は緑の毛が生えていて、こいつはいつも持ち歩いている下敷き(エプロンについてやがる糞クマのイラスト入りだ)の上で書き物をする。ヒル魔くんって合理的な癖にこういうところの利便性考えないよね、と初めの頃に文句を言われた。俺にとって文字や数値はあくまでキーで打ち込むものであり、まさかこの台の上でペンを走らせる人間がいるなんてことに一欠片も考えは及ばなかった。
 「もうセナには成長期なんて来ないんだと思ってたからちょっと嬉しいな。や、でも成長するからって大きめの制服を買わせたのは私なんだけどね。」
 俺が渡した書類を次々に消化しながら糞マネはさも嬉しそうに話す。その話なら何回も聞いたと辟易しながら俺はガムを膨らまし、割り、また膨らます。実に非生産的だ。この行為も、その声も。
 「アメフト部に入ったからかな。セナって主務のくせになんでか一緒にトレーニングしたがるよね、運動なんて苦手な癖に。」
 そう言って手を止めることなく糞マネは笑う。それは自嘲的でありながら、酷く残酷な笑みに見えた。

 もう一度言う。テメェはその絶望的に深い愛でもってあいつを殺している。優等生のツラを被ったテメェはつまり立派な犯罪者というわけだ。そのことに反論する権利はテメェにはねぇ。
 だが安心しろ。俺はあいつの救済を既に始めていた。テメェから見て水面下で慎重に入念に進めてきた。そしてそれは今現在完成へのカウントダウンを始めている。時間にしてあと14時間と48分ってとこか。
 予告しておいてやる。俺はあいつの救済をもってテメェを殺す。完膚無きまでに、いっそ美しいほどにテメェの世界を壊すだろう。
 だが勘違いをするな。俺がテメェを殺すことはそれ則ち愛だ。愛がテメェを殺すのではない。俺は殺すことによってテメェに愛を与える。さてここで楽しいクイズの時間だ。愛に似せた殺人と殺人に似せた愛はどちらがより質が悪いか?あるいはどちらがより絶望的か?
 俺に答えを聞いたって仕方がねぇよ。その答えはテメェで実感すんだ。俺はその瞬間を心待ちにしている。

 俺が使う範囲で言えば、糞マネは十分に有用だった。それはビデオの撮り方だったり(アナログなこいつは未だにDVDを使わない)、徹夜で考えてくるサインだったり、試合のリアルタイム分析だったりする。それは認めている。俺の仕事量は3分の2近くまで減ったし、コーヒーもほぼ自動で出て来る。テーブルの上ではテキサスホールデムができるようになったし、ヘルメットを被る際に咽せる必要もなくなった。
 俺は明日の試合について考えを巡らせる。何度もシミュレートした結果からいえばこのカードはかなりの高確率で実現した。だからこれまで惜しみなく情報収集は行ってきたし、勝つ戦略も組み立ててはいた。ただその前提条件として糞チビと糞マネはすでに組み込まれてしまっていて、だから糞チビが練習の後人目を忍んで俺に話しかけてきたとき、少しだけ俺のプランにヒビが入る音を聞いた気がしたのだ。もちろん想定していなかったわけではない。巨深戦からあいつが足りねぇ頭で何やら考え込んでいることには気付いていたし、西武戦の最中にも予感だけは何度となく俺の頭を掠めていった。
 「なんだか最近予感がするの」
 こつこつ、とシャーペンの芯を伸ばしながら糞マネが口を開く。糞、テメェはエスパーか?
 「セナがね、いつか私の手の届かないところに行っちゃうんじゃないかって。」
 私も何か飲みたくなっちゃった、立ち上がって糞マネはカウンターの奥へ。
 「そうなったらどうする?」
 俺は十分な間隔を取った後で、パソコンを見たまま口を開いた。糞マネは返事があったことに驚いたようですらあった。危うくコーヒーメーカを落としそうになった瞬間を視界の端が捉える。
 わからない、と糞マネは言った。
 「寂しいけど、嬉しいかな」
 コーヒーに砂糖を入れながら答える。1つ、2つ、3つ。感度の良すぎる耳はその音を正確に捉える。その甘さを想像して吐き気を覚える。
 「でもね、私は誰かに必要とされなかったら、きっと生きていけないわ。」
 そして俺は明日の試合へと考えを巡らせる。前提条件追加。計算は滞りなく進み始める。糞マネのコーヒーに5つ目の角砂糖が落ちた。

 ところでもう一点、絶対に勘違いしちゃいけねぇことがある。俺がテメェに愛を与えるっつうことと俺がテメェを愛しているかっつうことは全くもって別の問題だということだ。相容れないとすら言っても良い。第一俺は女って生き物が苦手で(それは中学時代のとある傲慢な知人による影響が多大にあるわけだが、そのことは今触れないでおく)、それから誰かの代替品となることに我慢のできる奴ではないのだ。
 確かに俺は明日、お前を殺す。愛を与える。だが勘違いするんじゃあない。愛とは間違っても何かを分け合うことではなく、解り合うことでもなければ、抱き合うことでもキスをすることでも性器を繋げることでもない。愛ってのはもっと絶望的でなければいけない。今テメェの前に悪魔がいるだろう。そいつから庇い続けた背後を振り返ったとき、そこには青く深い海が広がっている(まるでテメェの瞳のような)。つまり愛とはそうあるべきなのだ。少なくとも俺が与える愛はそういった種類のものだ。
 ここでひとつの可能性を探る。And if。それでもテメェが俺に愛されたい場合の話だ。then、答えは酷く簡単だ。
 俺に愛されたくば、俺を殺すことだ。俺に殺された後で完膚無きまでに俺を殺せばいい。笑えることに、俺はそうなればいいとさえ思っている。俺を殺してみろ。その絶望的に深い愛でもって。

 「ねえヒル魔くん、そろそろ帰らなきゃ」
 明日は大事な試合なんだから。チラリと見遣れば渡した書類はもう完全に消化されていて、浮かれたデザインの下敷きを鞄に仕舞っている最中だった。俺は無言でパソコンの電源を落とす。糞マネが2人分のコーヒーカップを片付ける。俺は鞄と銃を担ぎ上げる。
 「明日、絶対勝ってよね」
 糞ガキ共が閉めた扉が開く。外は十分に暗かった。悪魔に出会いそうな夜だ、と思った。俺の殺人計画実行まで、あと13時間を切っていた。

2010.9.30