Falling down, Falling down.
London Bridge is falling down,
My fair lady.
マイ・フェア・レディ
塔の中では外界の音は一切聞こえない。見たこともない材質で、見たこともない技術で作られた塔だということだけはわかっていた。この塔はこの世界にあってこの世界にはない。
目の前の幼馴染みは声を荒げることもやめて、目を瞑りただそこに吊されていた。上には大きな鎌があって、特に落とす予定のないその鎌は鈍い光を反射させ、ただそこにあった。
「ローザ」
彼女は答えない。閉じられた目は力を入れられているわけではなかったが、容易に開かれることがないということだけはカインに伝わった。
「ローザ」
「話しかけないで」
目を閉じたまま彼女は言った。カインは小さくため息をつく。彼女は彼の想い人だった。
「お前、何も食べていないだろう」
「あなたに関係ないわ」
「そんなことはない、お前にはセシル達が来るまで生きていてもらわねばならない」
「彼の名前を軽々しく口にしないで」
有り体に言って、彼女は美しかった。傷みやすそうな細い金の髪は手入れが行き届いていて、肌は雪のように白かった。日差しの下に長時間いると夜には肌が赤く腫れて、そんなとき彼女はいつも困ったように微笑むのだった。
「俺が憎いか?」彼は言った。
「いいから放っておいてちょうだい」
閉じられた目が開かれないことを悟って、彼はその部屋を後にした。ひどく無機質な床が彼の甲冑とぶつかり、乾いた音を立てた。
「カイン、知ってる?」
バロンの空は晴れ渡り、遠くに飛空挺が見えていた。あれはまだカインが10歳になるかならないかの頃だ。2つ年下の少女は目を輝かせながら彼に囁いた。遠くで子供たちが遊んでいた。市場の喧噪に交じって、童歌を歌う子供たちの甲高い声が微かに聞こえる。彼らがその輪に加わることはほとんどなかった。
「あの歌、本当はすごく怖いのよ」
「あの歌?」
「みんなが歌っている、あの歌よ」
Falling down, Falling down.
London Bridge is falling down,
My fair lady.
耳に馴染んだ曲だった。彼はあの歌を歌ったこともなかったし、あの遊びに加わったこともなかった。彼は近所の子供達と馴れ合うことを嫌っていて、簡単に言えば人付き合いが苦手だった。そのときカインとローザは市場へお使いに来た帰りで、カインはローザの荷物を持っていた。容赦ない日差しがじりじりと肌を焼いた。彼らは2人ともとても薄い肌と髪の色を持っていた。
「あの歌がどうかしたのか?」
「ねえ、マイ・フェア・レディって何だと思う?」
嬉しそうにローザは言った。彼女はカインの知らないことを話すことが好きだ。彼女にとって彼は常に兄のような存在であり、彼女の知らないことを彼はたくさん知っていて彼女を嫉妬させた。彼は星を眺めることが好きで、星座とそれにまつわる神話を彼女によく聞かせた。彼女はそれを聞くのが好きだったけれど、何度誕生日を迎えても越えられない彼に嫉妬していた。
「知らないな」彼が簡潔に言って、彼女は嬉しそうに笑った。
「あのね、あのね、『ヒトバシラ』って知ってる?」
「人柱?橋を架けるときのあれか?」
「なんだ、知ってるの」
少し残念そうに彼女が呟いたので、「よくは知らないが」と付け加えた。それで彼女はまたもとの表情に戻った。
「ヒトバシラっていうのはね、橋が簡単に壊れないように、橋の中に埋められるイケニエのことを言うのよ」
イケニエという言葉を発した彼女の発音は慣れたものではなくて、似合っていなかった。
「あのね、マイ・フェア・レディっていうのはヒトバシラになった女の人のことなのよ。あの歌は彼女の恋人が彼女を想って作った歌なの」
ふうん、とカインは呟いた。市場を行く人々は大半が大人で、成長期の始まっていない彼にとってその道はひどく歩きづらかった。ローザは彼が自分の少し前を歩いている意味を知らずに、「ねえ、ちゃんと聞いてる?」と彼の着ている半袖シャツの袖を掴む。
「聞いてるさ」
「その恋人はね、ヒトバシラになった彼女を助けに行くの。夜中にこっそり橋へ行って、一緒に逃げようって言うのよ」
女の子の好きそうな話だ、と彼は思う。女の子はいつもヒーローに助けてもらいたくて、いつか迎えに来る王子様を夢に見ている。
「でも彼女はそれを断るの。私は橋を守らなければならないから、一緒には行けないって。ねえ、そんなの馬鹿みたいだと思わない?」
カインはふてくされたようなローザの表情を見ていた。
「私だったら絶対に恋人と一緒に逃げちゃうわ。どうせ流れてしまう橋のために死んでしまうなんて馬鹿みたいだもの」
掴まれた袖は少しだけ彼の速度をゆるめていて、彼女の方を向いていたカインに市場を行く誰かがぶつかった。彼は振り返ってすみません、と小さく呟いた。その頃彼らはいつも2人でいた。そうあることが当たり前だった。
この塔には窓がない。カインが目を覚ましたとき、部屋は真っ暗で彼は時間の感覚をうまく取り戻せなかった。大抵の場合、陽が昇ると朝が来て、陽が沈むと夜が来る。ゴルベーザが送った密偵の報告から考えると、塔から出るのは随分と先になりそうだった。カインは部屋の明かりをつけて、それから時計を見た。少し寝坊していた。彼はもう長い間、太陽を見ていなかった。
「何をしに来たの?」
その部屋に足を踏み入れたとき、カインよりも先にローザは口を開いた。彼の甲冑の音はよく響く。床はよく磨かれていて、足下から影のようにぼんやりと甲冑が映る。彼はこの塔の清掃夫を見たことがなかったが、おそらく几帳面なのだろうと思った。
「朝食だ」
「いらないわ」
ローザはこの数週間で明らかに痩せていた。もともと華奢だった体はそれでも女性特有の柔らかさを持っていたが、今では骨格がはっきりと見て取れる。吊されている腕には薄く筋が浮いていて、鎖の隙間からは赤い痣が見え隠れしていた。彼女は食べ物をほとんど口にしていなかった。
「食べてくれ」
「いらない」
この押し問答も半ば儀式化されていて、大抵の場合カインが折れる。ローザはもともと強情で、一度言い出したら聞かない性格は昔から彼を困らせていた。彼が観念すると彼女はいつも嬉しそうに笑い、それで彼は感情の薄い顔に微笑みを浮かべた。けれど今の彼女は、彼が折れても笑わない。
「ねえ、カイン」彼を見ずに彼女は口を開く。
「何だ」
「人柱は、持って入った食べ物を食べたかしら」
「人柱?」
「生き埋めにされるとき、彼女たちは蝋燭と少しの食糧を手に持っていた」
「ローザ、」
何の話をしている?ローザはカインを見ない。
「ねえ、いずれ死んでしまうことがわかっていて、彼女たちはそれを食べたのかしら」
「お前は死なない」
そこで初めてローザは顔を上げ、目を開いた。カインはひどく久しぶりに彼女の目を見た気がした。彼女の目は深い青色をしていて、その目で見つめられると彼はいつも何も言えなくなった。
「ねえ、私は信じようと思うの」
「何をだ」
「セシルを」
ぴくり、とカインが体を震わせる。
「それから、あなたもよ、カイン」
それでカインはひどく残酷な気分になった。緩慢な動作で彼女に近付き、朝食のプレートをそばに置く。それからいつも彼の表情を隠している、竜を模した甲冑を外した。彼は人前でほとんどそれを外さない。ローザと同じ色の髪が流れ、ローザよりも少しだけ薄い色の目で彼女を見る。表情はなかった。カインは朝食のスープの器を取り、口に一口含んだ。ローザを見つめる。
「何を、」
彼女は最後まで言葉を繋ぐことができなかった。カインがスープを口に含んだままローザに口付ける。彼女は身を捩って抵抗を試みたけれどうまくいかなかった。吊されていたし、絶食状態の体にはうまく力が入らなかった。カインは彼女の口をこじ開けようとして、ローザは口を堅く閉ざす。しばらく拮抗状態が続いて、カインがローザの鼻を塞いだとき、彼女は諦めた。ぬるいスープが流し込まれる。そのまま彼は舌を侵入させる。
「つっ」
カインはローザから離れた。口の中に鉄の味が広がる。彼女が彼の舌を噛んだのだ。彼が離れたとき、彼女はひどく咽せ込んだ。
「それでも」咽せて涙の滲んだ目でカインを見据えた。
「それでも私は、あなたを信じるわ」
ローザはそうやって見据えることで、カインが何も言えなくなることを知っていた。彼は彼女から目を逸らすと、甲冑を拾い、表情を隠す。それで彼女の視線から目を隠した。
「ひとつ聞きたい」
何?と声には出さず、首を傾げる。
「セシルとは、寝たのか」
しばらくの間ローザは黙っていた。黙ってカインを見つめていた。それは非難するようでもあったし、哀れむようでもあった。それで彼は初めて知った。彼女は全てわかっていたのだ。彼の気持ちも、ゴルベーザに操られた理由も、何もかもローザは知っていたのだと、そのときカインは確信した。
「答えたくないわ」
そうか、それだけ呟いて、彼は彼女に背を向けた。よく磨かれた床に甲冑の音が響いて、カインは部屋を後にした。
Falling down, Falling down.
London Bridge is falling down,
My fair lady.
両手を繋いで高く掲げた2人の子供の間を、他の子供たちが駆けていく。マイ・フェア・レディ。両手が降ろされて歓声が上がる。捕まった子供は笑いながら手を繋ぐ役目に変わる。あれはたとえば比喩だ。2人の子供は橋で、捕まった子供は次の橋になる。橋になるとは比喩ではなく、本当に橋の一部となるのだ。あれは橋が流れないための人柱を選ぶゲームだ。
カインは城門前広場で無邪気に笑い合う子供たちを見ていた。彼は12歳の誕生日に軍人となった。父が死んでから1年が過ぎていた。父は竜騎士隊長だった。
「休憩中?」
聞き覚えのある声がして振り向くと、幼馴染みが立っていた。
「ローザ」
「ねえ、セシル知らない?」
ローザは1年半前に知り合った友人を探していた。彼女が最近よく彼の名を口に出すことにカインは気付いていた。いつも感じる少しの不快感に、カインは見て見ぬ振りをしていた。
「さあな、今日の訓練は終わったから、部屋じゃないか?」
セシルは城に住んでいた。西の塔の最上階にその部屋はあって、今のような夕暮れ時はとても綺麗な夕陽が見える。セシルと知り合った頃、彼らはその部屋に招待された。周辺にはバロン城の塔よりも高い建物はなく、3人はその風景に見とれていた。
「それより、何故こんなところにいるんだ?」
ローザは城下町に住んでいた。カインは軍に入ってから宿舎で暮らし始め、2人の会う機会は減っていた。
「カインにも報告しなきゃと思ってたんだけど、」
少し後ろめたそうな表情で彼女は言った。
「白魔導師隊に入ったの」
「何だって?」
「だって、あなたもセシルも軍に入って、私1人で城下町にいたって楽しくないんだもの」
「白魔導師といっても軍隊だぞ。なぜ俺に相談しなかったんだ?」
「反対されると思ったの」
黙っててごめんなさい、ローザはカインを見つめた。彼はそれで何も言えなくなる。
Falling down, Falling down.
London Bridge is falling down,
My fair lady.
「あら、久しぶりに聞いたわ」
ローザはカインがそれ以上何も言わないことを確認してから、広場で遊ぶ子供たちに目をやった。子供たちの歓声が上がって、新しい生贄が決まる。
「前に私があの歌の話をしたことを覚えてる?」
「ああ」
「私ね、人柱に選ばれたら恋人が迎えに来るのを待とうって思ってたの」
人柱に選ばれたら、というのは恐らく比喩だった。
「でもいつまでも人に頼ってちゃだめだと思ったわ。助けられるのを待つんじゃなくて、自分で何とかできるように強くなりたいの」
「助けを待つのは何も弱いことじゃないさ、相手を信じることも大切だろう?お前がいなくなったら俺たちは必ずお前を助けに行くさ」
俺が、助けに行ってやると言えばよかったのかもしれない。バロンの町はずれの高い垣根に隠れてセシルとローザがキスをしている所を目撃したとき、カインは心の底から後悔した。
「もちろんあなたたちのことは信じてるわ」ローザは言った。
「でもね、私もあなたたちの力になりたいし、信じてほしいの」
夕陽の反対側の空は紫色をしていた。紫は次第に濃度と勢力を増し、やがて夕陽の橙を飲み込むだろう。夕暮れはいつも永遠のように見えて、それでいて気がついたときにはほとんど夜に飲み込まれてしまっている。子供たちは生贄選びをやめて、笑い合いながら母親の元へ帰っていった。
「セシル達を迎えに行く」
カインがそう言ったとき、ローザは眠っているように見えた。
「何ですって?」
彼の言葉に弾かれたように顔を上げて、彼女は目を見開いた。食事は少しずつ摂るようになっていたが、全体的に痩せていることに変わりはない。それでも目にだけは力が込められている。
「じゃあ、クリスタルを」
「ああ、手に入れたそうだ、お前の為に」
カインは感情の籠もらない声で言った。ローザの目に失意が浮かぶ。それは彼らが自分を助けに来ることを喜ぶよりも、自身の所為で世界が終わりに近付くことを恐れていることを示した。
「行ってくる」
「カイン!」
呼び止められて、彼は振り向くことなく立ち止まった。甲冑がカシャン、と音を立てる。
「セシルと戦うの?」
「…あいつ次第だ」
「そんな…」
カインはローザの目を見ない。その目を見れば金縛りに合ったように動けなくなることをわかっていた。甲冑に隠された背中はひどく無機質で、頼れる竜騎士隊隊長というよりも心のない殺戮者に見えた。あるいは、不思議と迷子の子供のようにも見えた。カインが正面を向いていたならば、ローザは彼に言えたことがもう少し多かったかもしれない。彼の背中は彼女を拒絶していた。残酷に、冷徹に。
「ねえ」諦めたように彼女はため息をつく。
「どうして私達はこんな風に歪んでしまったのかしら」
ローザはそのとき3人で見た夕陽を思い出していた。赤に近い橙の、燃えるような夕陽。永遠に見えた夕陽は、けれどすぐに夜に飲み込まれた。カインは何も言わず、部屋を後にした。乾いた甲冑の音は遠ざかり、やがて聞こえなくなる。彼女は彼の返事が欲しかったのかもしれないし、あるいは彼女自身に問いかけていたのかもしれなかった。
クリスタルと引き替えにローザを返すことは約束だった。ゴルベーザは本当に彼女を返すだろうか。恐らく返さないだろう、とカインは思う。セシルは剣を抜くことになるだろう。相手は他の者かもしれないし、あるいは自分かもしれない。遠い記憶を辿っていた。ローザは「あなたたちを信じてる」と言った。そこから自分が外れてしまうことは間違いないだろう。そうなることがわかっていて、カインは今此処にいる。
Lock her up,Lock her up.
Take a key and lock her up,
My fair lady.
「俺は橋だ」カインは呟いた。
人柱を決めるように彼女を捕らえたのは彼だった。マイ・フェア・レディ。彼女は迎えに来た恋人と逃げるだろう。そして彼女を失った彼は、人柱を失った橋のように破滅へと向かうだろう。