初めて煙草を吸ったのはいつのことだっただろう。

チェーン

 豊邑の街は今日も賑やかだった。この街はいつも同じ顔を見せる。煙草をふかし、毎日この屋根に座って街を見下ろすが、昨日と今日の違いなど天化にはわからなかった。明日も、明後日も、来年も百年後もこうして人々が行き来し、商人の声が鳴り響き、若者が出会い別れ傷ついて傷つけられて街は回っていくのかもしれないと彼は思った。
 変わらない街を見ながら、変わらない自らの生について考えた。
 年を取るのをやめてから20年近くが経っていた。彼の師や周りの仙道と比べれば天化はまだ若輩で、父はおろか祖父までもが健在だった。兄弟もまだ若く、自分が寿命のない生を生きているという実感はまだなかった。それでも彼が不在であった時間は彼の家族のそこかしこにその跡を刻んでおり、成長期だった兄や上の弟にははっきりとした変化が伺われた。自分は何一つ変わっていないというのに。天化が家を出てから生まれたという下の弟は彼が下界に降りてからの数年の間にも背は伸び、いずれ自分が追い抜かれるであろうことは容易に想像ができた。下の弟には天化と同じ才能があったが、仙人界には弟に修行をつける動きは見られなかった。
 変わらないこの街と、変わらない自分と、どちらが先に滅びるだろうか。そんなことは自明だった。そして、今が革命期であることを思い出して天化は自嘲的に笑った。
 弟は、自分よりも先に逝くのだろうか。状況を考えれば答えなど即座にわかるのに天化にはどうしてもその実感がわかなかった。それは希望的観測だったのかもしれないし、あるいはある種の予感だったのかもしれない。寿命が無いというのは自らに死が訪れない確証ではなかった。

 修行の合間の休憩時間、師に初めて煙草が見つかったとき、天化は師に怒鳴られることを覚悟した。けれど師はそうしなかった。少しだけ眉根に皺を寄せ、泣くみたいに笑った。スポーツ一筋の彼の師が弟子の煙草に怒りを感じないわけはなかったのに。その表情を見たとき天化に激しい後悔の念が襲いかかったが、もう取り返しがつかないことはわかっていた。
 「体に良くないぞ、体力が落ちる」
 形だけの諫言を残して、けれど師は天化の煙草に関してそれ以後一切何も言わなかった。何かを言ってほしかったのか、放っておいてほしかったのかは天化にもわからなかった。やめることも考えたが、天化はあえてそうしなかった。

 「天化くんかい?」
 3本目の煙草に火を着けたとき、上から彼を呼ぶ声がした。見上げると蒼く長い髪の見知った道士がいた。霊獣と紛うその犬は天化の剣と同じ兵器なのだという。
 「楊ゼンさん」
 何してるさ?聞くと君のほうこそ、とその容姿端麗な道士は言った。
 「武王を探してるんだよ、ちょっと目を離した隙にまたいなくなっちゃって」
 武王というのは彼らの王の名前だった。天化はもっぱら彼を「王サマ」と呼んでいたが、初めのうち彼はその呼び名を忌んだ。近頃では何を言うでもなく「王サマ」と呼べば振り向き、返事をする。それは彼が王という自覚を持ち始めたからかもしれないし、単に慣れたというだけだったのかもしれない。ちょうど天化が自分よりも背の高い上の弟に「兄さん」と呼ばれる違和感を感じなくなったのと同じように。
 「天化くんはずっとそこにいたのかい?」
 髪と同じ蒼い目と真っ黒な天化の目が合う。そうさ、捨てられた吸い殻にちらりと目を移すとふたつの蒼い目もそれを追った。
 「街で武王を見なかった?」
 「いや、俺っちは見てねぇさ」
 まだ俗世の生活を捨てきれない王が監視の目をくぐっては街に遊びに出ていることは周知の事実だった。天化は人混みの中に彼の姿を見つけることもあったし、見かけないこともあった。王の姿を見つけても天化は何もしないし誰にも言わない。人間として同じ年頃の王の気持ちはわからないでもなかったし、そういうことは天化の仕事ではなかった。
 じゃあもうちょっと探してみるよ、と苦く笑いながら楊ゼンが立ち去ろうとしたので天化は呼び止めた。
 「楊ゼンさん」
 「何だい?」
 蒼い眼に不思議の色を混ぜて楊ゼンが振り返った。
 「楊ゼンさんって何年ぐらい生きてるさ?」
 どうしたの急に、楊ゼンは少し笑って考える素振りを見せた。
 「…どのくらいかな、はっきりとは覚えてないなあ」
 それがどうかしたの?楊ゼンがそう答えるのでいや、何でもないさと天化は笑った。
 天化は何人かの仙道に同じような質問をしたことがある。まだ70歳ほどの太公望なんかはともかく、見た目のある程度成熟した者たちは皆そろって覚えていない、と言った。彼の師もその例にはもれず、200歳を過ぎた頃には誕生日も忘れてしまったと笑っていた。300年続く殷王朝も彼らにとっては歴史のごく1ページに違いない。
 「早く王サマを見つけるさ」
 そう言うと楊ゼンはそれ以上追求することもなく薄く笑みを浮かべた。
 「ゴミはちゃんと捨てるんだよ」
 父も師も口にしないその言葉を残して楊ゼンは立ち去った。保護者みたいだと天化は思った。

 自らの喫煙について、何度か考えたことがある。
 仙道の生活は基本的に質素倹約であるが、修行でたまった疲れやストレスなんかを発散させるため、個々に隠れた発散法を持つ者は多くいる。本を読んだり、物を書いたり、酒を飲んだりすることもそれらの一部だ。はじめのうち天化は喫煙もその一種なのだと考えていた。
 でも、天化は思う。百害あって一利なしと言われるこの嗜好品は、自らを鍛え上げる仙道の生活にはあまりに似つかわしくない。天化は誰よりも強くありたいと願っているし、誰かに負けるくらいなら死んだ方がましだとも思っている。ならば喫煙は少なからずその信念の足を引っ張るのではないか。
 それでも天化は煙草をやめる気はなかったし、これからもそうだろうと思っていた。
 たぶんこれはささやかな抵抗なのだ、天化は思った。彼が仙界行きを決めたのは強くなるためだった。敬愛する父の役に立つため。老いない体、死のない生など彼の望んだものではなかった。家族は皆自分よりも先にこの世を去り、国は変わり、なのに自分だけは止まったような時の中を永遠に生き続ける。まだ実感のないその人生に天化は漠然とした不安を抱えていた。
 人間が喫煙を嫌うのは寿命を縮めるからだ。ならば寿命の無い自分ならば?金を払って寿命を縮めるなど馬鹿のすることだと人は言うが、縮める寿命のない自分にはその行為がどうしようもなく哀れで、愛おしい。
 不老不死とはいっても仙道も病気にはかかるし、傷も負う。年を取らないとはいえ何千年も生きていれば少しずつ年もとる。教主や師の同僚の老いた風貌を思い浮かべ、彼らがどのくらい生きているのかを想像して天化は気が遠くなった。自らが彼らと同じ道をたどることを考えると今ここから飛び降りて死にたくもなった。もっとも、天化の体はこんな高さから飛び降りたところで傷一つつかないことも彼は知っていた。
 選んだ道は間違っていたのだろうか。その考えを振り切るように短くなった煙草を落とし、踏みつけて天化は立ち上がった。西の空に夕陽が沈もうとしていた。

2008.10.30