ゼウスはまず、女神アフロディテに似せて、人間の女をつくりました。最初の人間の女です。
美しい女をパンドラと名づけ、美しく着かざった姿で、地上へおりていかせました。
このとき、ゼウスはみごとな細工をした、ぞうげの小箱をパンドラにわたし、
「これを別れの贈りものにやろう。しかし、けっしてふたをあけてはならんぞ。」
といいました。
———青い鳥文庫『ギリシア神話』より
ゼウスはまず、女神アフロディテに似せて、人間の女をつくりました。最初の人間の女です。
美しい女をパンドラと名づけ、美しく着かざった姿で、地上へおりていかせました。
このとき、ゼウスはみごとな細工をした、ぞうげの小箱をパンドラにわたし、
「これを別れの贈りものにやろう。しかし、けっしてふたをあけてはならんぞ。」
といいました。
———青い鳥文庫『ギリシア神話』より
診察を終えて外に出ると、乾いた風が鳥居の前を吹き抜けた。ふと空を見上げると、抜けるように高い。秋だな、と思った。そして冬が近い、とも思って、少し表情を曇らせた。
治ったと言い聞かせても現実はそう甘くはなくて、というか治ったつもりだったのだけれど、やっぱり普通の高校生、しかも高校球児なんてものは少し彼の身体には重かった。持病の再発に気付いたのは高校に入ってそんなに月日も経たない頃だ。長い長い人生のブランクを取り戻そうと躍起になっていたのも仇になったのかもしれない。
神よ、彼は無宗教だった。神よ、けれど彼は幾度もそう呟いた。呟かずにはいられなかった。
病院というのは、彼は思う。人生の大半をここで過ごしたけれど、そこに日常的にあるのは生と死で、そんな人間の究極の課題が日常的に存在している所為で病院というのはどこか非現実的だ。医者や看護婦は自覚しているしていないに関わらず死というものに慣れていて、内科の入院病棟なんかでは今すれ違った人が明日命を落としたって大して珍しいことではない。
彼の肺は生まれつき弱くて、彼はその肺を憎んだ。家族は優しかったけれどみんなで家で食卓を囲んだ記憶はあまりない。2つ年下の妹はいつも彼を気遣って見舞いに来てくれたけれど、陽が暮れる頃になると家へと帰っていった。
「なんだかなぁ」
高い空を見上げてため息をつく。野球に関して、病気持ちの身体でここまで力をつけることができたのだから才能はあったのだと思う。うんと小さい頃から全力でグラウンドを走り回ったって活躍できない人間もいる。
天は二物を与えない。でも神よ、彼は呟く。ひとつでも与えてくれたなら、せめてそれを生かすことぐらいさせてくれたっていいんじゃないの?無宗教の彼にとって神とはただ漠然としたもので、つまり彼を救ってなどくれない。神はその存在を信じないと恩恵を与えてくれない。けれど彼は神の存在を認めた時点で悟らなければならない。自分は神に愛されなかったのだ、と。
病気をこの地上にもたらしたのは——彼の記憶に何かが浮かんだ。確か、そんな女の話があった。
「ちょっとそこのあんた」
呼ばれたことに、鳥居は最初気付かなかった。
「なんや無視かいな」
あんたやあんた、肩を掴まれて漸く自分が呼ばれていたことに気付く。
「え、何?」
振り向くとそこには彼よりも一回り小さい、おそらく高校生くらいの男がいた。男は全身黒い服を着ていて、冬も近いというのにサンバイザーをつけていた。
「あんさんセブンブリッジのピッチャーやろ」
「え?」
まずい、彼は思った。
「何のこと?」
見ず知らずの、けれど高校生に呼び止められ正体を知られているということはつまり、この男は野球関係者だ。そういえば秋の地区予選で目立ってしまったから、病院に来るときは気を付けようと思っていたのだった。彼はすっかり忘れていた。
「とぼけんなや、鳥居やったかいなぁ?病院なんかに何の用や」
名前まで覚えられている。どう逃げようかと考えていると追い打ちをかけるように男は言う。
「そっから出てきたゆうことは外科やないやろ」
その通りだった。彼が行ってきたのは内科だ。
「…ちょっと風邪ひいちゃったんだよね」
何者か知らないが、早く逃げたかった。
「嘘やろ。目が泳いどる」
少し吊り気味の目で覗き込まれる。嫌な目だ、と彼は思った。
「てゆうか名乗りもしないでびみょ〜に失礼だよね、君」
名乗るほどのもんやあらへん、男は言った。
「まあなんでもええけどな、口止め料もらおうか思たけどワイそこまで悪趣味やあらへんし」
じゃあなんで呼び止めたのさ?思ったけれど口には出さなかった。代わりに問う。
「君はなんで病院なんかにいるの?」
なんか、というところを強めていった。なんとなくイライラしたからだ。ワイか?男は言う。
「ワイはただの見舞いや、ちょっと相方が入院しててな」
「相方?」
「そや」
「相方って?」
「何でもええやん」
聞くな、というように男はそれ以上は自分のことを喋ろうとしない。けれど彼は理不尽な追求に少し腹を立てていたため諦めない。
「君、ピッチャーなの?」
ちゃうわ、男は言った。
「野球やってるなんか誰も言うてへんやん」
「だって君、俺のこと知ってたでしょ」
やっぱ鳥居やん、男は呟いた。
「今はもうやってへん」
「やめたの?」
「まあ、そんなとこや」
少し寂しそうに男が笑ったので彼はそこで追求するのをやめた。事情があって野球ができないことの苦しさを、彼はよく知っていた。
次に2人が出会ったのは病院の廊下だった。
「あれ、君」
「ああ、あんさんか」
最初に会ったときとは違って男は鳥居にあまり興味を示していないようだった。
「今日もお見舞い?」
「まあそんなとこや」
男はひどく疲れた様子で、よく見ると目の下に隈ができている。前に2人が会ったときからそんなに長い間は開いていないが、少し痩せているようにも見えた。
「君、何してる人?」
「は?」
「野球やってないって言ってたよね。びみょ〜にやつれてない?」
気のせいちゃうか、男は言った。
「ワイはしがない男子高校生や」
あんさんは、男は続ける。
「身体はどないやねん?ここにいるゆうことは内科行ってんねやろ」
君、鋭いね。彼は呆れたように笑った。
「まあまあってとこかな、鍛えてるからね」
そうか、興味もなさそうに男は呟く。
「ほなバイトの時間やさかい帰るわ」
「バイト?」
「世の中銭やで」
ほなさいなら、男は振り返ることもなく去っていく。バイトがきついのかな、ぼんやりと彼は思って、内科の待合室へと向かった。男の歩いてきた方角を見る。確か外科の入院病棟があったはずだ。
彼らは頻繁に遭遇した。それはあるときは病院の中だったし、あるときは中庭だったし、あるときは病院へと続く道の途中だった。病院友達というやつだろうか。彼らは病院以外で出会うことなどなかったし、お互いの連絡先も知らないし、鳥居に至っては未だに男の名前も知らなかった。(何故なら彼らが会話をする上でそれは必要のないものだったからだ)
彼らはお互いにお互いを詮索することはもうなくなっていた。お互い事情を持っていたし、お互いそれを知られるのが嫌だった。
彼らに共通するのは病院と野球で、それ以外の共通点は探そうともしなかった。そんなものは必要なかった。たとえば次に会う約束なんてないし、お互いいつ病院へ足を運んでいるのかも知らないし、そしてそこへ向かう理由も知らなかった。たまたますれ違ったら世間話をする、その程度の知り合いだった。
「寒くなったね」
季節はすっかり冬へと移っていた。
「せやなあ」
典型的な世間話だった。
「寒いのは苦手だなあ」
ワイもや、男は言った。
鳥居の病状はあまり良くはなかった。あと半年ほどで引退が待っているけれど、それまで持つかどうかはわからないと常々主治医には言われていた。あまり無理をしないように、彼が診察室を後にするとき必ず主治医はそう言ったけれど彼にとっては無理な注文だった。
高校、卒業するまで生きてられるかな。半分冗談のように、けれど真剣に、最近彼は頻繁に考えるようになった。自分の命のこと、野球のこと、今までそのふたつを天秤にかけて、野球が圧倒的に勝利を収めていたのはまだ命に余裕があったからだ。さすがにそろそろやばいかもしれない、彼は身体の悲鳴が尋常じゃなくなってきていることを悟っていたけれど、今更引き返すことなどできなかった。
神よ、彼は呟く。やっぱり俺はあんたを憎むよ。あんたは俺に才能だけを与えてあとは突き放したんだ。
彼に神はいなかった。
決して開けてはいけないよ。神がもっと厳しく言っていたならば。虚構に過ぎない神話だって信じたい気分だった。
冬が終わろうとしていた。それは鳥居にとって1年で一番厳しい季節が終わることを意味する。彼は少しだけ安心することができる。
「もう半年以上になるわ」
珍しく男が自分の話をした。
「高校入って野球してた時間よりやめてからの時間のほうが長なってもうたなあ」
そうなの、彼は言った。
「俺はまだ、ちゃんと野球やれてた時間のほうが病院にいた時間より少ないよ」
顔を見合わせ、2人で泣きそうな顔で笑った。
「ねえ、ギリシア神話、読んだことある?」
唐突に彼は言った。
「ないな」
即答だった。
彼は病気の所為で幼少期の大半を病院で過ごした。小学生の彼にとって楽しみと言えば病室で見るプロ野球の中継だけで、あと記憶に残っているものといえば持て余した時間を潰すために無駄に読みあさった児童書だけだった。
「パンドラの箱って話があってね」
ああ、なんや聞いたことあるような気ぃするわ、男はそう言ったが彼は気にせずに続けた。
「ゼウスって神様がいてさ、彼は怒ってたんだ。なんでだったか忘れたけど。それで、泥で女神に似せた女を作るんだよ」
「怒って女作ったんか?」
まあ聞いてよ、彼は続ける。
「ゼウスは確信犯なんだよね。彼は作った女にパンドラって名前をつけて、地上に送るんだよ。そのときに絶対に開けるなって言って小さな箱を渡すんだ」
ゼウスの怖いところはね、彼は言う。
「そのとき一緒にパンドラに好奇心を与えたんだ」
「箱開けろっちゅうことやな?」
そうなるよね、彼は笑った。
「それでパンドラは地上で結婚するんだけど、どうしても好奇心が抑えられなくて箱を開けてしまうわけだ」
それこそがゼウスの人間への罰だったのに。彼は目を伏せた。
「何が入ってたんや?」
箱ん中、男は言った。
「災いだよ」
彼は目を開ける。遠くを見るように。
「疑い、とか妬み、とか憎しみ、とか」
そこで少し間を置く。
「——病気、とかね」
たとえ神話でも、彼は思う。神話でも、そんなものを世界に解放したパンドラを俺は憎む。だけどパンドラも災難なものだ。彼女はゼウスに作られた泥人形で、人間に災いをもたらすための道具に過ぎなかった。可哀想なパンドラ。いつまででも悪者扱いされて、彼女が最初の女性だって話があるけど、パンドラも、創世記のイヴも、いつも悪者。俺、女性不信になりそうだったよ。
「なんやいらんことしいやなあ、そのパンドラって女」
けれどパンドラには救済が残されていた。
「でもパンドラはね、最後にひとつだけ災いを残して箱を閉めちゃったらしいよ」
ゼウスが仕掛けたのか、パンドラの運が良かっただけなのかわからないけれど。
「何が残ったんや?」
「未来を全てわかってしまう災い」
「何やそれ」
「だから人間は希望だけは失わなくてもよかったんだって」
ふうん、男は言った。
「希望って未来がわからんからあるんか?」
そうみたいだよ、彼は言った。そして、間を入れずにもう一言。
「俺にはもう希望なんてないんだけどなあ」
なるべく明るくなるように彼は笑った。けれどそれはひきつってひどく自嘲的なものになってしまった。
「なんや、それ」
「俺、多分死ぬよ」
また明日、とでも言うような口調で彼は言った。
「主治医にも言われてるんだよ、今度無理したら知らないって」
知らないって言われてもねえ。彼は意味もなく自嘲的に笑い続けた。
彼は思う。パンドラはきっとゼウスに愛されていた。ゼウスは、たとえパンドラが道具として作った泥人形でも、最後に絶望だけは与えなかった。ゼウスが希望を残したのは人類のためなんかじゃなくて、せめてパンドラがただの悪者にならないように、人類の敵にならないように、ただそれだけのためだったんだ。だから神に愛されなかった俺とは違う。俺は最初から、神に知らないって見捨てられてたんだ。
「なんや、それ」
ふいに男がそう口にして、彼は思考から引き戻される。
「あんさんはもう治るとか思ってないゆうことか?」
そういうわけではないけど、弱い反論は掻き消される。
「そら治るもんも治らんで。あんさんがこれまでどんだけ辛い思いしてきたかは知らんけどな、それはあかん。信じる者は救われるとかようゆうやろ?あれ意外とほんまやねんで。ワイは希望持つってのはええことやと思うで。ワイもずっと待ってるんや。奇跡ゆうか、相方の目ぇ覚めるんずっと待っとんねん」
説教されてるのかな、彼はぼんやりと男の言葉を聞いていた。けれど発作でもないのに、何故か息が苦しくなているような気がした。
なあ鳥居、男は続ける。
「ワイらには先のことなんてわかれへんのやさかいそない悲観的になるだけ損しとるんとちゃうか?あんさんまだ生きてるやん、生きてる間ぐらいせめて腹の底から笑いぃや。あんさんの笑顔見てたら辛なんねん。自分だけが不幸やみたいな顔しやがって、ワイは諦めへんで」
そう言い放つ男の目は真剣で、怒らせたのかな、とぼんやりと彼は思った。ごめん、と言ってみるとなんであやまんねんと逆に男は怒った。
「君にはわかんないよ」
やっと捻り出した言葉がそれだった。
「ほななんで泣いてんねん」
彼の頬にはいつの間にか幾筋かの涙の跡がついていた。
「なんでだろうね…」
言いながら、拭おうとはしなかった。涙はあとからあとから溢れ出て、止め方を忘れられたように流れ続けた。
「ええ年した男が泣くなや」
くしゃくしゃのハンカチを取り出して男は言った。
「生きるんや」
その言葉は彼に言ったものなのかどうか、彼にはわからなかった。諦めかけていたはずの生への執着が一気に押し寄せて、声を押し殺して彼は泣き続けた。こんな姿妹やチームメイトには見せられないと、溢れたのがここで、この男の前でよかったと彼は思った。
「ほなな」
そのハンカチやるわ、今回は特別に負けといたる。男はそう言って立ち去っていった。
鳥居の病状は、それからも悪くなる一方だった。無理をするなと言われても無理をしたし、チームメイトに再発を気付かれていることも随分前から知っていた。知っていて、けれど誰も彼を止めることはしなかった。それだけが彼にとって救いだった。
いつまで持つだろうか、彼は思った。最近、あの男を見ない。相方が目を覚ましたのか、はたまた逆なのか、彼にはわからなかったけれど、なるべく前者だと思うようにしていた。
空を見上げると夏が近い。もう少しでいいから、彼は自分の身体に言った。もう少しだけがんばってくれたら、あとは好きなだけ休ましてやるから。
神よ、彼は呟いた。俺はあんたに挑戦しようと思う。あんたが俺を愛してないとしても、どれだけ突き放そうとしても、俺多分しぶといから覚悟しててね。
病院を出て学校へと急ぐ。午後から練習が入っていた。
「泣かないで、パンドラさん。まだ、わたしがいますよ。わたしは人間の味方です。」
「え、あなたは誰?」
「わたしはね、希望です。あなたが箱のふたをあけたので、いろいろの悪いことが世の中にひろがって、人間は苦しむでしょう。でも、わたしがいるかぎり、人間はわざわいにうちかつことができます。さあ、元気を出して。」