彼の乗った列車の話をしよう。
BLUE-TRAIN
彼は旅の途中実に様々な列車に乗った。時代錯誤の古びた蒸気機関車だったこともあるし、最新鋭の高速電車だったこともある。灼熱の太陽の下を通ったこともあれば猛吹雪で数メートル先の景色すら見えない土地を通ったこともあった。廃線寸前のガラガラの列車だったり、そうかと思えば通勤ラッシュですし詰めにされたりと、それは実に多種多様なものだった。
その日彼はとても平凡な列車に乗っていたように思う。古いわけではないが決して新しくもなく、客は少なくもないが決して多くもない。気候は少し寒かったと思う。そんな、車体の青い列車の誰も居ないコンパートメントに座って、彼は窓の外を眺めていた。片田舎ののどかな風景が現れては消え、また現れては消えて、そしてそれは彼の脳内に止まることなく流れていった。彼は景色を視ていたけれど見るつもりはなかった。
彼が旅に出るまでには様々な経緯があった。けれど彼にとってそんなことはどうでもよくて、ただ自分が今列車に乗って外を眺めていることに意味があった。こんな風に外を眺めて何も考えず列車を乗り継いでいく。行き先も決めてはいない。ただ旅をするのだ。
彼が暫く外を眺めているとふいにコンパートメントのドアが開いた。何となしに彼が振り返ってみるとそこに人影は無く、不思議に思って視線を下に移すとそこには五歳くらいの女の子がいた。彼がこんにちは、と挨拶をするとその子はにっこりと笑ってこんにちは、と返し、何故か彼の向かい側に座った。
こんなに小さな女の子が一人旅とは思えなかったのか彼は女の子に迷子か、と尋ねた。すると女の子は首を振った。パパの所へ行くの、去年パパがおうちを出て行っちゃったからたまに会いに行っているのよ。一人でか?彼がまた尋ねると今度は首を縦に振って女の子は言った。そうよ、だってママはパパの所へ行っちゃ駄目って言うんだもの。向こうの駅ではパパが待ってるの。私が走っていったらパパはいつも抱きしめてくれるわ。嬉しそうに女の子は笑った。
女の子の父親はどれだけ遠くに住んでいるのだろうか。女の子はなかなか降りる気配は無く、下に届かない足を前後に揺らしながら窓の外を見たり、彼に話しかけたりした。女の子はとても饒舌でとても楽しそうに笑う。彼も終点まで降りるつもりはなかったので、女の子の話を聞いたり、時には祖国の話をしたりもした。
彼の祖国は東にあった。東の最果てにある小さな島国だ。彼は全てを投げ出して旅に出た。学問も努力も友人も、何もかもを置き去りにして船に乗ったのだ。孤島だったその国から脱出するためには空か海を渡らなければならなかった。彼は飛行機が好きではなかった。雲は常に手の届かない所にいてほしかった。彼が祖国を出たのはそろそろ秋が終わろうとしている頃だった。船の上はとても寒くて、それでも彼はずっと甲板に立っていた。冷たい北風を受けながら遠くに霞む大陸を眺めていた。
お前は変わった人間を見たことがあるか。外を眺めていた女の子に彼は言った。変わった人?そうさ、とても奇抜な人間に、お前は会ったことがあるか?女の子は、わからないわ。変わってる人って、どんな人のことを言うの?首を傾けた。俺の周りにはいっぱいいたよ。そうだな例えば…土が恋人だったりとか。思い出したように彼は言う。土?ああ、正しくはグラウンド。すごくムカつく奴だよ。奴は完成されてた。完成してた?女の子が言った。欠けてる場所が無いんだよ。人間的には欠陥だらけだったかもしれないがな。ええ、きっとそうよ、女の子は彼を見た。ママが言ってたもの。完璧な人間なんてこの世にいないのよって。彼は苦笑した。お前は何歳だ?四歳。今年で五歳になるわ。そうか、お前のママはすごい人だな。そうよ、ママはすごい人なの。色んなことを教えてくれるもの。パパが出て行ってから特にね。そう言って女の子はまた外へ目を向けた。他には?他に、か?数えればキリがないが…俺が一番奇抜だと思った奴は他の変人とは違ってたな。どんな風に?彼はひとつひとつ言葉をかみしめるように話した。逸脱してた。ジョークのひとつも言えない男だったのに俺には最後まで理解できなかったよ。いつも眉間に皺寄せて、たまにしか喋らなかった。同じ部活の中にいたんだが、ほとんど接点は無かったな。お前は違うって言うかもしれないが、奴こそ完成されてたよ。人間的にも、だ。逆に言えばそれ自体が奴の欠陥だったのかもしれない。女の子はそう、とだけ言った。
列車はその時北へ向かっていた。片田舎の家々はいつの間にか消え、ちらちらと舞い落ちる雪が見えた。そしてやがては辺り一面の銀世界に変わり、そこには人の気配が感じられなくなっていた。彼の故郷にはあまり雪が降らない。たまに降ったかと思えばすぐに人々に踏まれて灰色の塊と化してしまう。彼はえらく久しぶりに白い雪を見たような気がした。
ママが言ってた。女の子が言った。何を?”この世で確かなものは、税金と死だけ”。そりゃまたヘヴィだな。彼は言った。みんな雪は儚いって言うけど、私はとても確かだと思うわ。何故だ?無くならないからよ。雪は溶けても一粒残らず水になるでしょう?年齢にそぐわない思考をするこの女の子に彼は驚いていた。俺には儚く見えるけどな。ええ、人それぞれよ。それから暫くは黙って外を眺めた。雪は止む気配もなく、どんどん強まっていった。
ねえお兄ちゃん。女の子は言った。ねえお兄ちゃん、パパはいつおうちに帰ってきてくれるのかな?私ずっと待ってるのにいつも私が会いに行くだけなんだもの。どうだろうな、少し考えてから彼は言った。パパに帰ってきてほしいか?すると女の子は少し寂しそうに言った。うん、だってね。パパは駅に着いたら嬉しそうに抱きしめてくれるけど、帰るときはとっても寂しそうな顔をするんだもの。女の子は今にも泣きそうだった。一緒に帰ろうって言ってもまた今度ね、って言うだけでいつも私は一人で帰らなきゃならないの。そう言って女の子は俯いた。彼は思う。彼女は多分知らないのだろう。”パパ”が既に自分の父親ではなくなっていることを。女の子の両親は恐らく離婚しているのだろうから、彼女の父親が家へ帰ることはまず無いといっていいかもしれない。彼はかける言葉が見つからず、そうか、とだけ言ってまた外を見た。
外はもうすっかり雪に埋もれていて、そこはとても広い林になっていた。けれど広大すぎる大地は尚地平線を見せていて、人の入れない場所で新雪はただ静かに降り積もっていた。大きな牡丹雪が窓をかすめて落ちていく。
なあ、彼が再び口を開く。なあ、この辺はいつも雪が降ってるのか。彼女は答えた。そうよ、とっても綺麗でしょ?今はこれでも少ないほうなのよ。もっと進めばもっともっとたくさんの雪が降っているわ。彼は遠くにキタキツネの親子が見えたような気がした。もちろんそれはただの偶像だったかもしれないが。
雪の深まる線路を走りながら彼は久々に故郷を思った。もうかなりの間故郷には帰っていない。行き先のない旅をいつまで続けるのか。漠然とした思いを巡らせて彼はため息をついた。旅に出てから必ず訪れるだろうと考えていたホームシックに彼がかかることはそれまで一度もなかったが、それはそれで寂しいような感にとらわれていた。一人旅をしている最中は必ず残してきた人間を思い出したが、彼には誰一人として恋しいと思うような相手はいなかった。彼は多分何かを避けようとして祖国を旅立ったのだろうが、何を求めているのかは自分でもわからなかった。ただ外を眺めていればいいなんて本当は嘘だ。あるいは彼は何かの変化を求めていたのかも知れない。けれど、ロバが旅に出たって馬にはなれないのだ。
ありがとうお兄ちゃん、さようなら。乗車から三時間後に女の子は列車を降りた。ああ、気を付けてな。彼が言い終わる頃には女の子の姿は消えていた。多分ホームでは彼女の父親が複雑な気持ちで我が子を迎えているだろう。彼は少し彼女が羨ましかった。例え自分がどこかの駅に着いたとしても彼には迎えてくれる人間が居ない。彼はいつまでも雪の止まない外を見ていた。
それが彼の乗った青い列車の話だ。