目の前に紫煙が立ち上る。ゆっくりと、その軌道を目に追って——目が合ったその人は、笑っていた。
ANYTIME SMOKIN’ CIGARETTE
「基本的に面倒は嫌いなんだよ」
高校生の一人暮らしとはこうまでも殺伐としたものか。いや、多分全てがそうではないはずだ。この人より一つ年下、つまり俺と同い年のクラスメイトはもう少し小綺麗な部屋に住んでいたように思う。
「よく言いますYo、自分で面倒ばっか引き起こしてるくせに」
はッ、お前も言うようになったなぁオイ。豪快に笑いながら煙草の火を消す。
「別に泊まりゃいいけど飯は自分で何とかしろよ」
新しい煙草に火を付けて、先輩が言う。
「獅子川サン」
「あ?」
新しい紫煙が立ち上り、俺はその軌道を目で追った。初めて会った頃のとは違うな、なんてぼんやりと思う。旅先から帰った先輩が吸っていた煙草は変わった匂いのするものだった。俺はどうしても部屋中に染みついたこの煙草の甘い香りが好きになれない。
「…いや、何でもないでSu」
「そ」
目が合って、やっぱり先輩は笑う。
「そんなに煙草ばっか吸ってるから体鈍り放題なんじゃないですKa」
コンビニの袋をそのままに、少しだけ空いたテーブルのスペースにカードが並んでいる。ダイヤの2とダイヤのK、スペードの4にクラブの3だ。
「そんなもん、知ったこっちゃねぇな」
俺はスペードの5でダイヤの2とクラブの3を取った。
「いつから吸ってんですKa」
「さあ、忘れた」
ビルド、スペードの4にハートの4を重ね、先輩が落ちかけた灰を灰皿に落とした。
「多分中学んとき」
お前は?まあ、同じくらいですNe。ダイヤの4で先輩のビルドしたカードを取る。
「スペードはさっさと取っといた方がいいですYo」
大して悔しがる様子もなかったので軽く舌打ちした。この人はいつもそうだ。どれだけ不利なゲームでも決して態度を崩したりはしない。最後までポーカーフェイス、普段のこの人からは想像もつかない。先輩はダイヤのKを場に置いた。
「スペードの一枚や二枚くれてやるよ」
紫煙が吐き出された。決して広くはない部屋が霞む。
「いつまでもナメないでくださいYo」
俺はダイヤのQを捨てた。
「てめえなんかまだまだだ」
こう見えても先輩がいない間部内最強だったんですけDo、聞いているのかいないのか先輩はダイヤの9を捨てた。無言のままスペードの9でそのダイヤの9を取ると、急に携帯の無機質な音が鳴り響いた。静まりかえった部屋には大きすぎるその音を遮って携帯を開く。メールだった。
「何いっぱいつけてんだ?」
これですKa?知らないうちに増えすぎたストラップ類を振る。それぞれがぶつかり合ってジャラ、と音を立てた。テーブルの向かい側には何の装飾もされていない先輩の携帯が置かれている。着信音と同じように、それは無機質なただの”機械”そのものだ。
「てゆーKa、獅子川サンがつけなさすぎなんですYo」
先輩がクラブの4を捨て、俺はダイヤのAを捨てた。ディーラーの先輩が二枚を二回、四枚ずつ手元に配った。
「余計なものはつけたくないんだよ」
結局、ゲームは先輩の圧勝だった。
こうして二人でいるとき、この人はいつだって最低のテンションだ。人が少ないからか、単に俺に興味が無いだけなのか、何処か眠そうな口調で面倒くさそうに喋る。いつものように言葉を弾ませたりもしない。実際あれは口癖ではなく感情が高ぶったときの特徴らしいからそれでいいのかもしれなかったが。
初めて会った頃からこの人はいつも煙草を吸っていた。俺だって吸わないわけじゃない。どちらかといえば多いほうかもしれない。けれど一端のスポーツマンとしてこの人の吸う量はとてつもなく多すぎるし、ガラムのタールはかなり多い。何度指摘しても所詮俺の言葉なんかじゃ動かない人だから、それはすでに社交辞令のようになってしまっている。自由で奔放で、怖いもの知らずのこの人が俺には羨ましかったし、憧れだった。
俺は立ち上っては消えていく紫煙を見るのが好きで、その不自然で不完全な白を目で追ってはそれを繰り返す。そういうとき俺が視線を落とすと先輩はいつもこっちを見て笑っている。どこか意味を含んだワケありの笑みだ。
「お前も家出ればいいじゃねぇか」
そのとき先輩は寝転がって雑誌を読んでいた。
「そう簡単にはいきませんYo」
金も無いですShi。だいたい、それができれば俺は何も苦労していない。
「金なんか何とでもなるだろうが」
「俺はあんたみたいに自由な生き方はできないんでNe」
「ふーん」
どうでもいいけど、面白く無さそうに雑誌を放って先輩は体を投げ出した。
「夏になったらもう来んなよ」
「何でですKa」
「暑いんだよ」
何ですKaそれ、見ると先輩はいつの間にか眠っていた。
この部屋にはエアコンなんて無い。夏は暑くなるところまで暑くなるし、冬は寒くなるところまで寒くなる。去年の夏此処へ遊びに来たときはあまりに暑くてすぐ外へ出た。先輩は家にいることが極端に少ない人だ。行き先も様々で、近くのコンビニのこともあれば本当に地球の裏側のときだってある。文明さえ発達すれば多分宇宙にだって煙草ひとつで行ってしまうような人なのだ。先輩が家にいるときは大概一人でいたいときだけだから、本当は俺だって此処には来たくない。だから夏に外へ出たのは暑さと、それと遠慮からくるものだったのかもしれなかったし、泊まるときも一日に二回は外へ出る。手持ち無沙汰になるのは嫌だから以前は先輩に煙草を一本分けてもらっていたけれど、今は好かない銘柄を吸う気にもならないので自分で買いに行く。
腹減ったNa、なんて冷蔵庫を開けても中身はほとんど無い。ビールが二本と麦茶が少し。ため息をついてジーパンから財布を引っ張り出し、中身を確かめる。初夏の夜に平気で上半身裸のまま寝ている先輩にブランケットを一枚かけて外へ出た。携帯がいつもより随分軽い。装飾品はさっき全部引きちぎってきた。
夜のコンビニという場所は嫌いじゃない。此処には色んな種類の人間が集まり、各々の目的だけを全うして全く別の場所へと帰っていく。どこか殺伐として冷たい場所だとは思うけれど、暗い道沿いに煌々と光る白い明かりはとても暖かい。此処ではエリートも犯罪者も関係なくなる。そんな空気が俺は好きだ。適当にカップラーメンと雑誌数冊、チューハイ二本につまみ数種類を持ってレジへ向かった。店員は二十歳過ぎくらいの長身の男で、愛想のいい笑顔で対応していた。ある程度整った顔立ちで、ホストなんかも十分やっていけそうな感じだ。コンビニというのは客も様々なら店員だって様々だ。俺とそう変わらない年で上京したばかりのように垢抜けない女の子もいれば、どう見ても不景気の波にのまれて失業中といった中年男だっている。一の位までぴったりと勘定を済ませ、レジから袋を取り上げてさっさと外に出る。後ろから店員が「ありがとうございました」と社交辞令だけの挨拶をかけていた。きっと今は差し出しかけて行き場を失ったレシートを捨てているところだろう。
帰りに通った自動販売機で煙草を切らしていたのを思い出し、一箱買っておく。国産の何でもない銘柄だ。一本取り出して火を付ける。俺の百円ライター、あの人の立派なジッポと同じ役割を果たしてくれる便利な品だ。
家に戻ると先輩は既に起きていてテレビを見ていた。わけのわからない外国の映画だ。俺は映画をあまり見ないから、さして気にとめず買ってきたばかりのカップラーメンに湯を入れた。
「俺の分は〜?」
視線をテレビに注いだままで先輩は言った。
「ありませんYo、飯は自分でなんとかしRo〜とか言ったの獅子川サンじゃないですKa」
三分待つ間の暇潰しにさっき買った雑誌の一冊を選んで開いた。興味深い内容もなく、ただ並んでいる文字をひたすら目で追っただけだ。
「つまみならありますけDo」
んじゃそれでいいや、先輩が面倒くさそうに立ち上がって冷蔵庫からビールを出した。お前は?チューハイあるんでいいでSu。戻ってきて座り、つまみを食べながらまた映画に意識を戻したようだった。無くなりかけの短い煙草が灰皿の中で紫煙を上げていた。無意識にそれを目で追って、視線を落としてもやっぱり先輩は映画に見入ったままだった。
最近俺が先輩の家へ行くと、決まって先輩は眠っている。もともと生活の不規則な人で、休日なら陽の落ちきらないうちに寝ることも陽の昇る頃に寝ることも珍しくはない。けれど最近は本当に疲れた様子で、服も着替えずひきっぱなしの布団にそのまま倒れ込んでしまうらしい。牛尾サンの家で猿野と特訓を受けているのは知っていた。きっとそれほどまで辛いものなのだろう。
今日も俺が勝手に部屋に入っても起きることなく豪快ないびきをかいて眠ったままだった。どうせ夕食だって取っていないだろうと思って、荷物を置き財布だけ持って買い物に行こうとした。
「…虎鉄」
…何、起きてたんですKa。振り向くと先輩は布団に顔を突っ伏したままのぐぐもった声で言った。
「煙草、買ってこい」
命令形ですKa。次の瞬間にはまた大きないびきが響いていた。
「わかりましたYo」
テーブルの上には吸いかけの煙草がまだ燻っていて紫煙を漂わせていた。一度だけそれを目で追って、窓から空を見てみれば見事なまでのミッドナイトブルーだ。売ってくれるかNa…、一人ごちて少し遠いたばこ屋にしか置いていない、先輩の癖のある煙草を買いに出た。