NOWHERE GIRL
ネガの端を切ってリールに引っかけ、そのまま手早くネガを巻き込んでいく。巻き終わると無駄なく鋏で切り、リールをタンクに入れて蓋を閉める。慣れた手つきだ。
「これがなかなか難しいんですの(汗)」
慣れるのに少しかかるでしょうね、ダークバックから手を出して梅星は一息吐いた。
「それは?」
「フィルムタンクですわ。これでひとまず光が当たっても大丈夫になりますの。フィルムはとっても光に弱いですから(汗)」
そうらしいっすね。フィルムタンクから目を反らして、部屋の中を見渡す。ありとあらゆる光が遮られて中はかなり見にくい。大きな機械のようなものがいくつかあるのが見えた。沢松が暗室へ入るのは初めてだった。
「此処からはそんなに難しくないはずですわよ(喜)」
台の上にいくつも並べられた一リットル用のビーカーにはそれぞれ別の液体が入っていて、またそれぞれにラベルも貼ってある。梅星は「前浴液」と書かれたビーカーを取り、中に入っていた液をタンクに流し入れてタイマーをセットした。細い棒をタンクに差し込み、左回りに回し始める。
「攪拌といって、とても大事な作業ですの(真剣)これでフィルムの出来は変わってきますわ」
三十秒ほどでタイマーが鳴り響き、梅星は手を止めた。タンクを下に向けてもとのビーカーに液を捨てるとすぐに別のビーカーを取り、タンクの中に液を流し込む。
「ここからが本番ですわよ(嬉)」
またタイマーをセットして攪拌を始める。梅星の手が慎重に動かされている。沢松はその様子をぼんやりと見ていた。
入部して間もない沢松にはまだまだ雑用の仕事が多い。その日も沢松は忙しく駆け回っていて、小さな使い捨てカメラを持ってあちこち奔走していた。それを見ていた梅星が思い出したように声を掛けたのだ。
「このあいだの練習試合のネガ、今日現像しますけど見に来なさる?(含笑)」
沢松は特に写真が好きな少年というわけではなかった。報道部に入らなければもしかすると一生無縁のものだったかもしれないし、彼の持っている使い捨てカメラは今まで彼が幾度と無く購入してきたもので、けれど彼がそれを仕事だとか芸術だとか、そういった目で見ることはまずなかった。だがしかしいつまでもそういうわけではない。軽い気持ちで入った報道部ではあったが、毎日写真と共に生活していく中で興味を持ち出したのも確かだった。二つ返事で誘いを了承した沢松は、放課後部室の奧にある暗室を訪れた。入部してから一度も入室を許されなかった彼にとって、そこは聖域として認識付けられていた。
今日現像する写真というのは三日前、野球部の練習試合のときに撮ったもので、その日も野球部は圧勝だった。沢松の脳裏に野球部にいる親友の姿が映る。自分も彼も、随分ガラにもないことをしている、沢松は自嘲気味に笑った。その取材で沢松自身も何枚か写真は撮っていたが、彼はまだちゃんとしたカメラを買っていないためそれは現像屋に出しているところだった。
「店の現像はどうしても商品用になってしまうでしょう?(不満)とりあえず形が出ればいいんですのよ、商売なんですもの(困)」
店では出来ない仕上がりを求めるなら自分で焼くことですわね。梅星はこう言った。
一分後にタイマーが鳴り、梅星は手を止めた。
「終わりなんすか?」
「いいえ(断)」
タンクを静かに台の上に載せ、タイマーをセットしなおす。
「最初は一分間連続攪拌、あとは約一分ごとに…そうですわね、五〜十秒ほど攪拌、というのを繰り返すんですの(教)時間は微妙な調整が必要ですわね。ちなみに私は大体五十五秒と五秒のサイクルでやってますわ(参考)」
「デリケートなんすね」
「そうですわよ(悦)」
そこでまたタイマーが鳴った。少しの間攪拌をして、また静かに置く。
「少し時間や、攪拌の仕方が違うだけで仕上がりは変わりますもの。慣れれば楽しいですわよ、写真って(微笑)」
とてもいい顔をするんだな、と沢松は思う。
「いつから写真やってんすか?」
三回目の攪拌が終わったとき、沢松が聞いた。梅星は少し考え込むような素振りをして答えた。
「はっきりとは覚えてませんけれど…物心ついた時にはカメラを触っていましたわね(懐)私の父がずっと写真をやっていましたので(嬉)」
「お父さんが?」
「ええ、業界ではちょっとした有名人なんですのよ(誇)」
沢松がその人の名前を聞こうとしたとき、丁度四回目のタイマーが響いた。
これは何も梅星に限ったことではないが、仕事をしている女というのは実に美しいと沢松は思う。彼も全く女と縁のない人生を生きてきたわけではないのだからそれくらいはわかる。真剣な表情で被写体を追いかける梅星はやはり他のどんなときよりも輝いて見えたし、動機が曖昧だったにせよ、そんな人物の下につけることを沢松は誇りに思っている。梅星は他の女のように陰険でも無く、優雅な物腰の所為で気付きにくいが性格はどちらかというと男に似ている。それでも彼女は女として魅力的だったし、何より美しかった。
沢松は一ヶ月梅星の下で働いてきたが、彼女は本当に写真が好きなのだろう。試合中必死に白球を追いかけているときも、球児を追い回して騒いでいるときも、いつだって彼女の目は真剣だった。沢松はそんな彼女の目を気に入っていて、同時に尊敬していた。
七回目の攪拌が終わると梅星は中の液を捨て、また別のビーカーに入っている液を入れた。
「あとは停止液で三十秒攪拌、その後定着液を現像液と同じようにすればいいんですわ。今日は遅いからもうお帰りなさいな(優)引き延ばしは明日にしましょう(案)」
「いや、最後まで見てますよ」
早く自分でできるようになりたいですし。あまりやる気のある言い方では無かったが、梅星は満足したようにそれ以後何も言わず、淡々と作業を続けた。
「今回は多分いい写真が沢山撮れてますわよ(嬉)」
定着が終わり、水道から繋がっているホースをタンクの注入口に入れて蛇口を捻ると梅星は一息ついた。水が次々と溢れてくる。水が容器から溢れ出す様子というのは案外お目に掛かることが少ない。何故なら人は水をこぼさないように生きているからだ。だから沢松はコップの中に収まっている水が自然だと思っていた。海の水でさえ陸地に囲われて収まっているのだ。水とは本来流れるものだということを随分長い間忘れていたような気がする。
タイマーが鳴って、梅星がタンクの蓋をあけてリールを取り出した。
「もうフィルムできてるんすか?」
ええ、梅星は満足そうに笑う。
「水洗が終われば、あとは乾かして片付けるだけですわ(疲)」
取り出したリールを、また別の液が入った大きなビーカーに浸す。一分間放置した後再びタンクに戻し、流水を再開する。
「引き延ばしに比べるとフィルムの現像は地味で楽しいものでもありませんけどね(汗)」
タイマーを五分間にセットして、梅星は台の上に腰掛けた。
「でも一番重要で大切なんですのよ、いい写真を作るためには(真剣)」
へえ、溢れ出す水を眺めながら沢松は呟いた。
「ほんとに好きなんすね、写真」
「ええ、とても(純)」
やっぱり敵わない、と沢松は思う。何となく生きてきた沢松にはそこまで打ち込める何かというモノがなかった。写真だって野球だって、今でこそある程度の知識はあるけれど実際自分でやったことはない。ひどく非生産的で無意味な生活を送ってきたように思った。梅星は多分、沢松の対極に位置する人物だった。一生懸命取り組む何かがあって、とても生産的で有意義な生活を送っているのだ、彼女は。
「また明日も来ていいっすか」
「ええ、引き延ばしの方が楽しくってよ(笑)」
それじゃ、お先っす。微笑む梅星に笑い返して暗室を出る。取材の後から始めたから外はもう大分暗い。この分じゃ猿野も既に帰ってしまっただろうと部室に寄ることもせず、沢松は一人きりの帰路につく。今度小遣いを貯めて、梅さんにカメラを選んでもらおう。そう決心して校門を後にした。