彼の愛馬の話をしよう。
BIG LONG NOW
その時彼はとても静かな町にいた。静かな町の静かな酒場で、カウンター席に座って食事をとっていた。何の味気もない木造の酒場だ。カウンターの向こうにはマスターが一人で本を読んでいて、後ろにはテーブル席が四つ設置してあった。テーブル席は全て空いていて、カウンター席には彼以外誰も居なかった。何を読んでいるんだ?彼はマスターに話しかけた。マスターは顔を上げ、小説さ、どうってことないミステリーだよ、と答えた。ふうん、彼は言った。小説のことはよくわからないんだ、俺は本を読まないから。何、ただの暇潰しさ。私だって小説が特別好きなわけじゃない。マスター再び本に目を落とした。
彼はマスターを眺めた。どこにでもいそうな中年の男だ。肌は少し日に焼けていて、ページをめくる無骨な指はどことなく骨張っていて太い。筋肉もそこそこついているようだったから多分肉体労働でもしていたのだろう。あるいは今でもしているのかもしれない。食事を終えた彼はウイスキーを飲んでいた。一応年齢は偽っていたが多分マスターは彼の実年齢を知っているだろう。それでもこの国はあまり法律が厳しくないからなのか、酒を頼めば何も言わず酒が出てくるし、煙草も売ってくれる。ちびちびとウイスキーを啜る彼にマスターが本を見たままふいに口を開いた。あんたいつまでこの町に滞在するんだ?さあ、そろそろ出ようかと思ってる。彼は答えた。早いな、と言うマスターに、もともと長居する気はなかったからこれでも長いくらいさ、と彼は言った。
彼がこの町へ来て五日になるが、毎日此処に通っていながらこの店に自分以外の客がいるのを彼は見たことがない。メインストリート(と呼べるかもわからないが)にもほとんど人通りは無く、彼の泊まっている宿にも彼以外の客はいないようだった。彼が毎日この酒場に来るのはこの店が特別気に入っているわけでもなくて、酒場が此処にしか存在しないからなのだ。それでも此処を訪れる客に彼は遭遇したことがなく、この町には本当に人がいるのかと疑いたいくらいだった。
次は何処へ行くんだ?マスターは尋ねた。そうだな、西へ行こうかと思ってる。彼は言った。行き先は決めていないが、とにかく西だ。するとマスターは言う。西へ行くなら馬を借りればいい。そのほうが早い。乗馬は得意かね?相変わらず本を見つめたまま口を動かすマスターを見て彼は言った。ああ、小さい頃に何度か乗ったことがある。でも俺は馬を買う金が無いんだ。…今日は何曜日だ?唐突にマスターは言った。金曜日だ、大使館が休みだからあと三日は此処にいる。彼がそう言うとマスターは、丁度良かった。もう少し待ってれば男が来る。背の高い男だ。そいつが来たら馬を譲ってくれるだろうよ。奴は毎週金曜日に此処へ来る。彼は驚いた。俺以外に客いたのか。マスターは苦笑した。そうでなけりゃどうやって私は生活していけばいいんだ?
その男が来たのは彼が三杯目のウイスキーを半分飲んだ時だった。居心地がいいとは言えなかったけれど決して重くない沈黙を破って、扉を開ける豪快な音と共にその男は現れた。ようマスター、また来てやったぜ。意味もなく自信のみなぎった声でその男は言った。マスターの言ったとおりとても背の高い男だった。背が高くてとてもがっしりした大男だ。男は彼に気付くと、珍しいな先客がいるのか、と言って彼との間にひとつ席を空けて座った。ビールくれ、といって男は興味深そうに彼を見た。お前この国の奴じゃないな?東から来ただろう、そんな顔してやがる。いかにも俺は東から来たよ。彼は答えた。あんたは?俺はこの国の人間だよ。生まれてから一度もこの国から出たことが無い。出された大ジョッキのビールを一気に半分飲み、東の国はどんな場所なんだ?男は尋ねた。窮屈なところさ。土地も人間も何もかも窮屈すぎる場所だ。彼は言った。そいつはいけねぇな。男は喉を鳴らしてくつくつと笑った。お前この国の景色を見たか?見渡す限りの大草原だ。どうだここは広いだろう。人間だって寛大な奴ばかりさ。男は誇らしげに言った。確かに此処は広いな。俺は地平線ってやつを初めて見たんだ。へえ、そいつは珍しい。さして驚いた様子もなく男はビールを飲み続けていた。人間は…わからないな。何しろ俺はこの国へ来て宿の従業員と此処のマスターとあんた以外誰にも会っちゃいないんだ。彼もウイスキーを飲んだ。それで充分さ、宿の奴もマスターも、もちろん俺も充分寛大だろう。そうだな、彼は言った。余談だが俺は水平線なら何度も見た。水平線?男が言った。此処からは見えないな、大陸ってのはとことん海と縁がない。彼が三杯目の残りを飲み干す間に男は三杯ジョッキを空けた。
夜が訪れるまでの間、男は彼に色々な話をした。とてもくだらない、さして意味のないような話ばかりだった。けれど彼は世の中に意味のない話など存在しないと常々思っていたので、男の話を一言一句漏らさずに聞いていた。酒が入っているからなのか、それとももともとの性質なのかは知らないが、男はかなりのハイテンションだったので彼が話をすることはほとんどなかった。マスターは相変わらず小説を読み続けていた。恐らくいつもはこの男の終わらない話をマスターが聞いているのだろう。
じゃあそろそろ帰るかな。完全に陽が沈んでしばらくした頃に男は立ち上がった。また来週来るわ。そう言って扉へ向かう男をマスターが呼び止めた。ちょっと待ってくれ、こいつも連れて行ってやってくれないかね。マスターは彼の方を見て、馬を一頭やってくれ。と言った。
夜の牧場はとても静かだった。彼はこの国へ来てからの五日間ずっと静かな場所にいたが、これ程の静かさは知らなかった。それに、さっきまで男がひっきりなしに大きな声で話していたので、それとのコントラストはかなりのものだった。
本当にもらっていいのか?彼は思わず驚きの声を上げた。おう、言ったろ、この国の奴は寛大なんだよ。お前の国と違ってな。男が連れてきたのはとても立派な美しい馬だった。従順で賢い馬さ。きっとおめぇの役に立つだろうよ。彼がその馬を恐る恐る撫でると、人懐こいのか体をすりよせてそれに応えた。気に入ったぜ、こいつにする。そりゃよかった、男はその馬に馬具をつけた。その間も身じろぎ一つしない。よくできた馬だ。
またそのうち来な、男は彼の肩に手を置いた。屈強な腕はそれだけでかなりの重みがある。彼は寂しげに笑い返した。ありがとう、だがもう俺は此処には来ない。同じ場所へは二度と戻らないのさ。そうか、男が手を降ろす。だったら何も言わねぇ、もし馬がいらなくなったら何処かの街で売ればいい。その日の宿代くらいにはなるはずだ。ああわかったよ。彼は馬を見上げる。少し乗っても?すると男は笑った。何が可笑しいのかわからなかったが、男は豪快に笑った。いいとも、そいつはもうお前の馬だ。
三日後に彼はその町を後にした。行く前に少しだけ酒場に顔を出してマスターに別れを告げた。あの男にもよろしく言っておいてくれ、そう言うとマスターは快く了承してくれた。気を付けてな。マスターは推理小説を読んでいた。
彼の馬はやはりよく出来た馬だった。とても従順で、賢かった。彼はその馬に『黒王号』と名付けた。綺麗な毛並みによく似合う名だ。それは故郷で彼が好んだ馬の名だった。
彼は何処の国へ行こうと黒王号を捨てることはなかった。彼にとって黒王号はすでに大切な相棒であり、なくてはならない存在になっていたからだ。乗り物でありながら孤独だった彼の旅で、最初で最後の相棒となれたのが黒王号であった。彼は旅の最中誰とも馴れ合いを好まなかったし、同じ場所に長期間滞在することもなかった。それでも彼の旅は長く続いた。長く続けば黒王号と共に歩けない地もあった。けれど、彼がそのような場所に踏み込んだとして彼と黒王号が別れてしまうことはなかった。彼が呼べばいつだって黒王号は駆けつけたし、待てといえば何時まででも主人を待っていた。
ある日黒王号を置いて彼が市場へ出掛けた際、つい路上の賭け事に興じて時間を忘れてしまったことがあった。陽が暮れるまで我を忘れて賭け事に勤しんでいた彼がお詫びにいつもより多く餌を買って黒王号の元へと戻ると、黒王号は早朝、彼が最後に見た姿のままで彼を待っていた。そんな黒王号に彼は苦笑して言った。おまえは素直すぎる。俺が帰ってこなかったらどうするつもりだ。それでも黒王号は彼を見たまま動かなかった。目は真っ直ぐ彼を見ているような気がして、彼は餌をやりながら悪かった、と小さく呟いた。
彼が黒王号の手入れをしてやる際、黒王号はいつも気持ちよさそうにおとなしくしていた。決して丁寧とは言い難い手入れだったが、それでも黒王号にはそれが最適だったのだ。大草原で走り回っていたあの頃より少し毛並みの艶が落ちてしまったが、黒王号は少しも不満そうな様子を見せなかった。
黒王号は結局最後まで彼の旅に付き合った。東の国へと帰るとき、彼は本当は黒王号を置いていくつもりだった。黒王号が生きるにはあの国は少々狭すぎると、彼はそう思ったのだ。けれどいざ売ろうとしたとき、初めて黒王号が暴れた。それまでありえないほど主人に従順だった黒王号が初めて暴れたのだ。どれだけ長い道を走らされたと思ってる、お前はもう自由になっていいんだよ。必死にそう叫び言い聞かせたが黒王号は必死に抵抗した。道行く人への迷惑にならぬよう黒王号をなだめすかしながら彼は人の少ない場所へと移動した。尚も抵抗を続ける黒王号を見て珍しく彼は感傷的な気分となる。自分が今までこいつにしてやれたことは何だった。彼は考えた。精々餌をやったことと適当に手入れをしてやっただけではないか。あとは過酷な長い旅に付き合わせただけだ。それなのに何故この馬はこうまでして自分の側にいたがるのだろう。彼は不思議でならなかった。けれど黒王号の縋るような(少なくとも彼にはそう見えた)目を見てそれも彼にとってはどうでもよくなった。彼だって本当は黒王号と別れたくなかったのだ。悪かった。俺はお前を売ったりはしないから、だからそんな目で俺を見るな。すると黒王号は暴れるのをやめて彼にすり寄った。ああ、俺はこいつに謝ってばかりではないか、黒王号を撫でてやりながら彼は自嘲的な気分になった。
東の国へ帰っても黒王号は従順な彼の馬だった。彼はたまには思い切り外で走らせてやりたいと思うのだが黒王号はただ黙って彼の側に控えているだけだった。旅をしていた頃のように何処へでも連れて行くわけにはいかなかったが、それでも黒王号は満足していたらしい。けれど大人しく草を食べる黒王号を見るたびに彼は思う。いつかはあの静かな大草原へこいつを帰してやるべきではないのか、と。いつかは必ずと思いながらも彼は今日も黒王号を撫でてから家を出てしまうのだ。少しだけ瞳に淋しそうな色を宿して主人を見送る黒王号に彼は意味もなく悪い、と声を掛ける。本当に彼は黒王号に謝ってばかりだ。悪い、俺だって帰ってきたんだ。いつか故郷に帰してやるよ。
それが彼の愛馬の話だ。