刹那主義

 電話が鳴ったとき、虎鉄はMDウォークマンを聴きながら雑誌を読んでいた。四角いテーブルの反対側では猿野がいびきをかいて眠っていて、鳴っていたのは猿野の携帯だった。うるさいほどの大音量に設定されている着信音にも関わらず猿野が起きる気配はない。しばらくは我関せずといった風に雑誌に読み耽っていた虎鉄だったが、あまりのうるささに十秒が過ぎた頃テーブルの下から猿野を蹴り飛ばした。
 「いって!何すんだキザトラ!」
 「電話Da」
 そう言って鳴り止まない携帯を押しやる。ようやく自分の携帯が鳴っていることに気付いた猿野が騒音にも近い着信音を遮った。一瞬だけ静寂が広がる。
 「いよッ!てッめぇらまだ俺んちにいるかッ?」
 機嫌が良いときの、いつもの特徴ある話し声が聞こえた。
 「当たり前…つーか買い出しまだっすか?もう一時間以上経ってんすけど」
 心なし寝ぼけた声で猿野が応答する。
 「まあ待てや。今ッから虎鉄も連れて河原へ来い」
 「はあ?」
 ウォークマンを聴いている虎鉄には猿野の声は届いていないらしい。寝そべって雑誌の続きを読んでいた。
 「今からやるんすか?」
 「いッいから来い!わかッたな!」
 そう言って電話は一方的に切られた。どうせ繋がらないことくらいわかっているから、猿野はかけ直すことも声を荒げることもしない。獅子川の携帯は発信専用だ。見張られてるようで嫌だから、と獅子川は常に電源を切っている。もとが旅人であるためか、少しでも会わないとどこにいるかもわからなくなってしまう、獅子川はそういう人物だった。
 「お〜い、出掛けますよっと」
 電話を切ると、猿野はさっきの仕返しとばかりに寝転がっていた虎鉄を軽く蹴飛ばした。
 「…誰からDa」
 軽く一睨みして、けれど文句も仕返しもなく虎鉄は尋ねた。
 「シシカバ先輩。河原へ来いですってよ〜」
 「また焚き火かYo」
 「やっぱあの人に買い出しは頼むべきじゃないっすね」
 薄いパーカを羽織りながら猿野が言った。もうすぐ夏が迫っているとはいえ、まだ夜は冷える。外へ出るともう真昼には感じなくなった冷気がやけに新鮮だ。
 「季節はずれもいいとこだNa」
 虎鉄はウォークマンを外さないまま出てきていた。静かな道とはいえ、控えめにされた音量では時折漏れる音だけの曲が何であるかを判断することは難しい。それでも一応猿野は大きめな声で話すよう心がけた。
 「真夏でも焚き火するんすか?あの人」
 「いや」
 ちょっと待ってRo、通りすがりにあった自動販売機で虎鉄はあたたかいおしるこを買った。アンタも大概季節はずれっすよね、と猿野が呆れたように言う。
 「夏はやらねぇYo。つーか夏は兄貴日本にいねぇだRo」
 「ああ」
 なるほど、そう言ったきりあとは黙って河原へと向かった。猿野も虎鉄も、他に人がいないのに騒ぐ理由はなかった。
 その河原は獅子川の家から歩いて十分ほどのところにあった。さほど大きい川ではなかったが焚き火をするには充分な広さがある。細い路地を抜けて静かな公園を横切ると土手があり、その向こう側に川は流れていた。人のいない夜の公園はやけに不気味で、猿野はあまりそちらを見ないように歩いた。虎鉄は多分音楽に意識を集中させているから周りの景色などどうでもよかったのだろう。軽く口笛を吹きながら歩いているだけだった。
 土手の石段を登り切ると河原が見えた。さて、と辺りを見回すと獅子川はすぐに見つかった。石段よりも少し右よりの位置で、薪を組んでいる最中だった。
 「兄貴〜」
 何も通らない車道を渡って反対側の土手の上に座り込む。虎鉄が声をかけると獅子川は振り返って片手を上げた。
 「早ッく降りて来いよ」
 へ〜い、とやる気のなさそうな返事をして二人は土手を降りた。

 「…こんなたくさん何処から拾ってきたんですKa」
 準備として組まれている細い薪もさることながら、脇に積み上げられた大小様々な木々の量に虎鉄は驚いた。
 「こッないだ大雨降っただろ。あれでかッなり流れてきたみたいでよ」
 「…で、集めてたら一時間経ったんすか」
 薪の側に跪いて作業をする獅子川からは自然と後輩達を見上げる形となる。獅子川は、猿野の問いに苦笑を漏らしただけで返事をしなかった。
 「じゃッ、火ィ点けんぞ」
 一度立ち上がって獅子川は尻ポケットからジッポを取り出した。カチッと音をたてて火を点け、あらかじめ薪の下にひいておいたくしゃくしゃの新聞紙に近付ける。火が点けば新聞紙はすぐに黒くなっていった。他にも二カ所ほど、違う方向から火を点ける。新聞紙が燃え尽きるのは早いが細い木には比較的火が移りやすい。少しずつ組んでいた細い薪が黒くなり、時々赤い炎をちらつかせるようになった。猿野と虎鉄はその様子を無言で見つめていた。
 火は次第に強くなり、一番外側の少しだけ太めの薪も黒に染めていった。
 「…こッこまでくりゃ大ッ丈夫だなッ」
 「さすがっすね」
 手際の良さに猿野が感嘆を漏らした。
 猿野が覚えている限り、獅子川が着火を失敗したのを見たことはない。それでも獅子川は毎回毎回こうやって火が点くまで真剣な顔で見守っている。まるで初めて遊具遊びをする子供を見守っている母親のようだ、と猿野は思う。自分がそのように見守られたことがあるかといえば記憶にはなかったが。
 「ちょっと湿りッ気味だったからな」
 ちゃんとついッてよかった。満足げに笑いながらどんどん薪を足していく。ここからは多少雑でも大丈夫だ。一通り中くらいの木を置いて、最後に太い丸太のような木を置く。細い木だけでは燃えるのが早すぎるのだ。空気が通れるようにと慎重に太い木を置いて、獅子川はようやく一息ついた。火の勢いはかなり安定してきている。

 最初に獅子川が後輩と焚き火をしたのは一年前のちょうどこの季節だった。獅子川がたまに焚き火をするようになったのは高校に入った頃からで、その日も河原やそこらの公園なんかに落ちていた木を集めて火を起こしていた。それを、たまたま通りかかった虎鉄が見付けたのだ。その頃虎鉄はまだ野球部に入ったばかりだったけれど、最初はなかなか同級生たちと馴染めなかったことも手伝って獅子川とはよくつるむようになっていた。
 「兄貴?」
 久々に家へ帰ったはいいがやはり居心地が悪く、挙げ句父親と喧嘩して家を飛び出した。嗚呼せめて晩飯くらい食ってくればよかったとほぼ手ぶらで家を出てきたことを後悔し、そうだ獅子川の兄貴なら一人暮らしだったはずだと寝床を確保するために歩けば一時間はかかる道のりをのらりくらりと歩いてきた。すると獅子川の家に程よく近い河川敷で何やら煙が立ち上っている。こんな季節に誰が焚き火なんかやってんだと興味本位でのぞきに来れば自分が世話になろうとしていた先輩が黄昏れているではないか。ことの次第はだいたいこんなものだった。
 「てッめえなぁ…」
 半ば呆れたように虎鉄の話を聞いていた獅子川だったが、虎鉄を追い返すようなことはしなかった。そのままぼんやりと焚き火を見つめ、火が消えてしまうと後片付けをして帰ろうとする。どこかその様子を居心地悪そうに見ていた虎鉄に、どうした、泊まってくんッじゃねぇのかと声をかけて土手の石段を登っていった。その日から虎鉄は獅子川の家に通うようになり、ときどき雨が降った後には焚き火をするようになった。夏の間は獅子川がどこかへ出掛けたまま帰ってこないため虎鉄はもっぱら友人宅を渡り歩き、その間に同級生とも随分馴染んだ。獅子川がいない間はその中でも猪里のもとへ転がり込むことが増えて、それは今でも変わらない。台風がやってきた後はどうしても木の具合が気になって虎鉄は何度か河原へと足を運んだ。確かに流木がたくさん流れ着いていたけれど、そこに火を起こす人間はいなかった。
 夏が過ぎて、学校が始まる頃ひょっこりと獅子川は戻ってきた。それで虎鉄は家にほとんど帰らず、獅子川と猪里の家を行ったり来たりするようになった。どちらでもない日は街でオールをしているか気紛れに作る彼女の家に半同棲しているかだった。
 秋が深まるとようやく焚き火の季節らしくなって、たまには焼き芋をしてみたりもした。火にあたりにきた川に住む浮浪者と話をしたり、本当は禁止だというのに夜釣りに来ていた人と焼き魚を食べたりとそれなりに楽しい日々を送っていた。部活でも鬱陶しかった三年が引退して、牛尾を中心とするチームは悪くなかった。そうやって秋は過ぎた。
 ところが、冬になって、本格的に焚き火で暖をとるようになった矢先のことだ。学校で問題を起こした獅子川が停学になった。その知らせをその日の部活で初めて聞いた虎鉄は部活が終わるとすぐに獅子川の家へ急いだが、すでにそこには誰もいなくて、しばらく家を空けるからよろしく頼むと書かれたえらく簡潔な置き手紙とアパートの鍵が残されていただけだった。出されたばかりのこたつが一度もそのスイッチを入れられることなく置き去りにされていた。自宅謹慎になったわけでもない獅子川が旅に出るなどわかりきっていたことだ。それで虎鉄は特に何をするでもなく獅子川の家を後にした。生活のほうは相変わらず、友人宅を転々として、たまに一人になりたいときだけは残された鍵を使って獅子川の家で過ごした。そうやって一番寒い季節は誰も焚き火にあたることなくひっそりと過ぎていった。
 春になって進級しても獅子川は帰ってこなかった。停学はとうに明けていたはずだったけれど虎鉄はもうそのことを考えないようになっていた。故意にではない、自然にそうなっていったのだ。
 二年になった虎鉄にも後輩ができた。その中にいたのが猿野だ。入部試験を通り過ぎてきたというのに野球はまったくの下手くそで何かにつけてはふざけてばかりいる。だがその雰囲気がどことなく獅子川に似ていて(多少いきすぎてはいたが)合宿を終える頃にはかなりつるむようになっていた。獅子川にからかわれてばかりだった虎鉄は猿野をからかって遊んだ。猿野は案外反応が素直でおもしろいほど感情を表に出す。だが、猿野は虎鉄と二人でいるとき、大勢の前にいるときのようなそこまでの明るさは見せなくなったりする。それは虎鉄にもいえることだったし獅子川にもいえることだった。三人はとてもよく似ていた。野球云々はそれこそ差があったけれど、人間的な面で三人には共通点がいくつもあった。
 獅子川が戻ってきたのは突然だった。合宿を終えて少しした頃だ。相変わらずのマイペースで馬を乗り回しながら入ってきた獅子川の姿に一年は固まったままで、猿野だけがつっかかっていった。それを見て虎鉄はやっぱり獅子川と猿野は似ているのだと思った。猪里なんかは虎鉄も同類に見ていたが、獅子川と猿野は本当によく似た人種だ。虎鉄は再び獅子川の家に通い出した。そこには猿野もいた。それで三人で一緒にいることが多くなったのだ。けれど、三人でいるときは酒でも入らない限りあまり騒ぐことはなかった。それは騒げなかったからかもしれないし、騒ぐ必要がなかったからかもしれない。我を忘れたように騒ぐのは人前でだけだった。それが三人の一番の共通点だ。
 焚き火もやはり三人でするようになった。雨の後には必ずといっていいほど焚き火をした。そろそろ季節が夏に近付いていたけれど、いつも無言で火を見つめた。
 焚き火をするとき、獅子川はたまにいらないものを燃やした。高校に入って焚き火を始めたときからそれはしていたことだ。旅から帰ってから燃やすものが増えたように思う。それは例えば写真だったり手紙だったり、そういうものだ。虎鉄も猿野も、いらないものがあるときは燃やした。環境に優しい範囲で、というのを獅子川にきつく言われていたから、いらない紙くずだけは全部燃やした。今日の赤点のテストだとか、昔の彼女にもらった手紙だとかだ。全部、燃やした。

 最後に置いた太い薪が静かに赤く燃えている。猿野はこの一番大きな木が燃える様子が好きだった。高校に入るまで例えば猿野は新聞紙だった。一際よく燃えるくせに尽きてしまうのはあっという間だ。すぐに黒いだけの塊になる。炭にだってなりはしない。それはきっと今でも同じだろう。大きな木がほのかに赤く燃えていく様子は、高校に入って見付けた思い人を猿野に思い出させる。これが例えば暖炉の中にあれば、それはもっと強くなるだろう。パチパチと音をたてて静かに木は燃えていく。追加分の薪はもう随分減ってきていた。真っ暗な闇に炎は一際よく目立つ。
 「まさか、帰ってくるとは思ってなかったZe」
 獅子川が戻ってきて間もない頃、虎鉄はよく猿野にそんなことを言っていた。
 「もともとあの人はこんなとこにいるような人じゃなかったんDa。こんなとこで俺らとつるんでるような人じゃなかったんだYo」
 猿野は実のところ獅子川という人物をよく知らない。虎鉄のことも知っているのかと聞かれれば答えにつまるが、それとは別の次元で、猿野は獅子川を知らなかった。食べ物は何が好きでどんな色が好きでどんな女が好みかとかそういう当たり前のことも知らなかったし、今獅子川はどこにいるかと聞かれたって絶対に答えられない。猿野にはその自信があった。虎鉄もそれと変わりはないが、一年先に知り合ったぶんだけ獅子川がどういう人間かは知っている。だからある程度の予測はできる。今どこにいるのかがわからなくても何の酒を飲んでいるのかを考えることができる。猿野にはそれができない。
 獅子川は旅が好きだ。それは彼とそう親しくない人間でも知っていることだ。獅子川が旅好きなことは有名だが、その旅の最中の話を聞いた者は誰一人としていない。彼は誰よりも人懐こかったが、誰よりも孤独を好んでいたのかもしれない。だから焚き火をするのかもしれない。何もかも燃やして、自分ですら消してしまいたいのかもしれない。けれどその真相を知ることができる人間だっていない。彼は孤独だ。孤独であるが故に人を惹きつけてしまう。だから彼は燃やすのだ。何もかもを、燃やそうとするのだ。

 余分に積んでいた薪が全て無くなって、火は勢いを半分にしていた。ほとんど話をせずに火を見つめている。誰にとって損でも得でもない時間だった。
 焚き火が終わるのは、最後の木が音を立てて崩れたときだ。不安定に支え合っていた脆い木が、バランスを失って倒れるとき。猿野はそれが自分たちだと思うようにしている。虎鉄も獅子川も、もちろん猿野も、すごく不安定なのだ。不安定に支え合う脆い木のように、自分たちもいつか音を立てて崩れてしまうのだろうと、猿野はそう思うようにしている。
 くすんだ音をさせながら焚き火は終わろうとしていた。終わったら黒いだけの塊になって、集められて、捨てられる。獅子川は炭も捨ててしまうから、後には何も残らない。そんなふうに、きっと彼らは何も残さず消えていくのだろう。三人の似ている点はそういうところにもあった。彼らはとても目立つ。目立ち、一見人の心の中に入り込んでくるように錯覚させられるのだが、彼らが消えたところで周りの人間には何も残らない。旅に出た獅子川を誰も探しにいかないように、彼らは何も残さずに消えていくのだ。
 「帰るッか」
 暗闇の中、バランスを失った小さな灯りが消える。そこでいつも彼らの焚き火は終わる。彼らの沈黙もそこで終わる。後には何も残らなかった。

2003.1.21