YOUR SONG

 彼女はうんざりとした気分で表通りを歩いていた。クリスマス以来といった意気込みで豪華に、そしてどこか可愛らしく飾り立てられた冬の街はそろそろ寒さのピークを乗り越えようとしているようだ。それでも白く残る息を吐きながら、足早にそこら中から漂う甘い香りを避けるように彼女は歩いた。のんびり歩いていると体目当てのどうでもいいような男が一人か二人はいるもので、そういう人種を追っ払うのは彼女にとって造作もないことだったがもとより彼女は甘いものが嫌いだ。だからこの季節の街並みは彼女に毒しか与えない。今年は何が欲しいか、と普段絶対に出していなさそうな猫撫で声で聞く女に鼻の下をのばしている男のカップルとすれ違う。間違ってもああいう風にはなりたくねぇな、とごちて彼女はある一軒の店へと入った。
 その店は明らかに彼女の嫌う部類の店だった。見渡す限りで置いてあるのは手作り菓子用のブロックチョコレートにホイップ済みの生クリーム、トッピング用のカラースプレーにアラザンにシュガーパウダー、アーモンドスライス…菓子屋の戦略だとわかっていて何故女はこんなところに大勢群がるのか、彼女には到底理解できない。だが、そんなものたちの前に立って青い顔をしている彼女もまた戦略に乗せられてやってきたいいカモなのだろう。心底嬉しそうな顔であれこれ材料を集めて回る女の子達を見て、ああでもこの子達はこれが幸せなんだと思うことにした。彼女は男に比べて女にはずいぶん甘い。
 細々したトッピングの材料の前を素通りして少し奥まった場所に並べられた既製品の菓子類のコーナーへと進んだ。彼女は不器用で包丁の一本握ったことがない(あったとしても料理とはかけ離れた使い方をしていた)ため手作りの菓子なんて作る気などさらさらなく、生活に支障のない程度の出費で味を保障されたものをまとめ買いしようと考えていた。本来ならこんなふざけた風習に付き合うこともないのだが野球部の女子マネージャーという立場上そういうわけにもいかない。それで彼女は頭の先からつま先まで全身で否定するこんな場所へ来ているのだ。それも朝早くから電車で遠出し、学校の人間には会わないよう細心の注意を払って。
 中学までバレンタインと聞くと彼女は”あげる側”でなく”もらう側”だった。特に中三のときはクラスメイトはともかく、部活の後輩や委員会の後輩、果ては名前も知らない他校の下級生にまでどっさりと甘いものが送られてきた。熱狂的な子になると彼女が甘いものを嫌うと知っておかきの詰め合わせまでくれたものだ。他のプレゼントに比べて少しばかり有難いものではあったがその分不気味さが増えるだけだった。二月十四日に大量の海苔せんべいを頬張る気分はかなり奇妙なものだ。だいたい、彼女が甘いものを嫌うようになったのは毎年送られてくる大量のチョコレートやケーキといった類のせいかもしれなかった。
 主にハートをかたどったチョコレートが並ぶ棚をひとつひとつ値札と合わせて見て回る。まったく自分は何をやっているのだろうと馬鹿馬鹿しくなってくる。
 「これにしなよ」
 ふいにそんな声が聞こえて振り向くと、気の弱そうな女の子がどの商品を買うか迷っているようで連れの気丈な——どことなく彼女と似た雰囲気の女の子が半ば強制的なアドバイスをしていた。
 「あとこれとか可愛いんじゃない?」
 「で、でも…やっぱり手作りとかのほうがいいのかなあ」
 「それはやめときなって。告るんでしょ?嫌がらせしてどうすんの」
 「ちょっとお、それどういう意味よ」
 気の弱そうな女の子はもうすぐ卒業してしまう先輩に思いを寄せているようで、二月十四日に告白をするようだ。そのときに渡すプレゼントを数日前にも買いに来たそうだがなかなか決まらずに、一番信用をおいている友達を連れてきたらしい。
 「じゃあ…これにするね」
 結局その女の子は友人が熱心に進めていた大きなハート形のチョコレートに決めたらしく、それをカゴに入れた。
 「はい、次はラッピング!決めに行くよ!」
 「あ、ちょっと待って!」
 慌てた女の子は最後まで迷っていたもうひとつの小さなキャンディが入ったビンを棚に戻そうとして取り落としてしまった。ビンは転がって彼女の足下で止まった。
 「はい」
 彼女はそのビンを拾って女の子に渡した。改めてみるその子は中一くらいのまだあどけない少女だった。
 「すみません!」
 「いいっていいって、頑張れよ」
 「はい?」
 「バレンタイン、告んだろ」
 ビンを渡して彼女がそう言うと、女の子は顔を真っ赤にして彼女の目をまじまじと見た。
 「何やってんの?」
 連れの女の子が声をかけると女の子は慌ててビンを棚に戻し、ちょっと待ってと返事をした。
 「ありがとうございます」
 にっこりと気恥ずかしそうに彼女にそう言って、女の子は友人の元に駆けていった。いいなあ、若いなあなんてボーっと二人の女の子をしばらく見つめ、やがて彼女は棚に向き直った。何故私もあんな風になれなかったんだろうとだんだん彼女は悲しくなってくる。女友達と楽しくお菓子を選べるような、そんな風になってみたかったなと初めて彼女は思った。女の子らしい服も髪型も化粧も全部否定してきたのに、今更そんなことを思うのだ。
 「ダメだこりゃ」
 結局彼女は何も買えずに店を後にした。人には向き不向きってもんがあるんだよ、と一人ごちて甘ったるい空気の表通りを来たときと同じように足早に帰っていく。さて凪や檜や先輩に何て言い訳しようと残り数日の中で頭を抱え込むしかなかった。

 猫神様、今年もこの季節が来ました。だってほら、もみじが妙に落ち着かないみたいだし凪ちゃんは昨日また新しいお菓子の本買いに行ったみたいですよ。この間商店街に行ったらピンクとハートの垂れ幕でいっぱいになってて、うるさい女の子がまた一段とうるさくなってました。ねえ猫神様、どうして女の子はみんなあんなにはしゃぐんでしょう。チョコレート屋さんの前に中学のときの友達がいました。みんな中学のときと変わらずにうるさくしていて、足の悪いおばあさんが通っているのにお構いなしではしゃいでいるんです。突き飛ばしてしまうんじゃないかってずっとはらはらしていました。偽善ぶるわけではないけれど。
 でもね猫神様。今年は私も参加しなきゃいけないんです。マネージャーになってしまったから仕方ありません。だから猫神様、ご信託をお願いします。私はあの人達の中店先であれこれ選ぶなんてしたくありません。同じように見られたくないし、きっとあの喧騒に耐えることができないでしょうから。
 「百円の板チョコで充分にゃー。ちなみにもみじは絶対買ってこれなくなるにゃ。凪は美味しいものいっぱい作って檜にも食べさせてくれるにゃ。楽しみにするにゃー。」
 ありがとうございます猫神様。それなら私のお小遣いでもなんとかできそうです。野球部の部員はたくさんいるからみんなで手分けしても大変なんです。凪ちゃんのお菓子はいつも美味しいから楽しみにしておきますね。そのときは猫神様にも少し分けてあげます。
 それから最後にひとつ、猫神様には他の人より少し高いチョコをあげますね。気に入ってもらえると嬉しいのですが。

 湯煎にかけられて溶けたチョコレートとバターが部屋中に甘い香りを漂わせていた。甘くて、そして少しだけ苦い香りだ。軽い金属のぶつかりあうテンポのいい音が響く。グラニュー糖を入れると幾分重く鈍い音に変わってしまうが、それでも次第にグラニュー糖も溶けてさらさらになってくる。ここでだまを残すと後々面倒なことになるからやりすぎるくらいで丁度いい。ラム酒を少し入れてもうしばらくかきまぜ、凪は手を止めた。
 「えーっと次は…」
 先程から甘い香りを放出し続けている鍋へと足を運ぶ。しっかり溶かしたバターとチョコレートはうまく混ざり合ってその香りを出していたのだ。さっと木べらでかき混ぜ、その少し重い片手鍋を持ち上げる。中の液体が低い波を作って揺れた。
 毎年凪はこの季節を楽しみにしていた。女友達と腕によりをかけて作った菓子を交換することが心底好きだった。去年もその前もそのまた前も彼女の作った作品はとても好評だった。
 作品、そう、彼女は作った菓子を作品と称する。料理はある意味では芸術だ。優れた作品はときに絵画や小説をも上回る表現力を持つ。絵画や小説には無い嗅覚と味覚によってのうったえが可能だからだろうか。彼女はそこまで専門的な作品を作ることはできなかったが、一般的な女子高生の中では料理のうまい分類に入っただろう。アマチュアのショート・ショートが大作家の長編名作より人を惹きつけることがあるように、彼女もまた好きに創作をして密かな人気を誇っていた。
 もっと凝ったものを作れたらよかったのに、と凪は嘆く。けれど今回は大量生産が必要だった。だから凪は見た目に凝ることも手間をかけることも諦めて割合美味しく簡単にできるものを選んだ。今作っているのは三つ目で、一つは網の上で冷まされて一つはオーブンの中にある。今の三つ目を完成させればとりあえずノルマは達成だ。おまけでクッキーでもつけようかと考えていたのだが少し時間が足りなかった。
 片手鍋に入っていたチョコレートを、卵とグラニュー糖の入ったボウルにそっと加える。軽く混ぜ合わせるとふるっておいた薄力粉を二回に分けて入れ、ゴムべらで切るようにさっくりと混ぜ合わせる。薄力粉の馴染んだ生地は丁度パステルカラーにも似た薄い茶色で、チョコレートのいい部分だけを切り取ったかのような香りを出していた。まだ生々しい感じのこの香りも、オーブンから出てくる頃には香ばしくてシャキッとしたものになっているだろう。途中で二つ目を焼いていたオーブンが止まって出来上がりを知らせるための合図が鳴った。竹串で焼け具合を確かめ、それを取り出してもう一つの網の上で冷ます。三つ目の作業に戻るとあらかじめ荒く刻んでおいたくるみを入れて軽く混ぜ込み、オーブンシートの敷かれた平べったいバットに流し込んだ。ゴムべらでならし、二・三回落とすと空気が抜けて生地も平たく広がった。最後に飾りようのくるみを落として凪は一息つく。あとはオーブンで焼けば出来上がりだ。
 出来上がっていた一つ目のブラウニーをまな板の上に置き、端を切り落として四角く整える。切り落としたものを口に運ぶ。試食だ。どれだけ作り慣れたものでもこの瞬間だけはいつもドキドキしながら臨んでしまう。作品としての完成度がここでほとんど決まる。心地よい緊張感の中でそれを口に入れるとまずチョコレート独特の風味が広がり、そしてかための表面と柔らかいスポンジ部分が口の中で微妙な食感を醸し出した。その風味を最後まで失うことなくゆっくりとブラウニーは口の中から消えていった。
 我ながら満足な出来だ、と凪は思った。あまりに簡単すぎるけれど気持ちはこもっているのだからと自分に言い聞かせて切り分ける作業に取りかかった。まだこれを全てラッピングする作業も残っているのだ。全て平等に切り分けるよう苦心しながら、ひとつだけ少し大きめに切り分けた。最近よく頑張っている彼に、せめてもの気持ちをと紛れ込ませるつもりだ。相手は何も考えずただ頬張るだけだろうけれど。
 その様子を思い浮かべて嫌ではない苦笑を浮かべる。この分だとマネージャー仲間の分もありそうだとうきうきしながらブラウニーを切り分けていった。オーブンがまたそろそろ音をたてる頃だった。

2003.2.14