自分が黙っているからと言ってその世界が静かなわけではない。第一俺はいつも耳元で音楽を鳴らしていたし、人混みは嫌いだったけれど他人が近くにいたってどうでもよかった。音がなければ野球はやりづらいし色々と不便だ。だから結局のところ騒音なんてどうでもよくて、喋りたい奴は喋っていればよかった。自分が何も喋らなくてもいいのであれば。
I SAY HELLO
「おッ前ホントに喋んねぇんだな」
麦茶を飲みながらその人は言った。ポジションも違えば学年も違う、多分趣味も合いそうにないしいわゆる先輩ってやつだったからほとんど話したことはなかった(もっとも言ってみれば俺は誰とも話してはいないのだが)。俺は先輩ってのが苦手で、別に苦い過去があるとかそういったことではなくてただ苦手で、以前だってたまたま同じポジションだった蛇神先輩くらいしか関わったことはないし、二年に限ってはほぼ接触がないと言ってもいいくらいだった。強いて言えば虎鉄先輩くらいだろうか。彼は多分誰にでも親しくしたし、誰とでも平等で誰にも懐いていなかった。猫のような人だと俺は思う。
周りにはわりと奇妙な人がたくさんいて(そして多分俺も同類で)だから高校に入ってからの何ヶ月かで人といることには随分慣れた。詮索さえされなければ人も物も関係ないのだから俺にとってこの部はちょうどよかったと言っていい。奇妙な人というのは大抵他の人間に関心を持たないからだ。兎丸なんかはその点で言うとまだ奇妙とまでは言えないのかもしれない。彼はただ幼いだけなのだろう。俺にはよくわからないけれど他人のこと、特に他人のあら探しに多大な関心をよせるのが普通の人間らしいから。
俺とその先輩とは対照的だった。「まったくの逆」というものは現実的に存在しえないということはわかっているが(逆というのはつきつめていけば正とさほどの変わりがない)、俺とその先輩ではあまりにも反対な部分が多すぎる。ひとつひとつ言えばキリがないから一言で終わらそう。あの人は多弁で俺は寡黙だ。
「オットコならはっきり言え」
俺がまだ諦められる前はよく同じセリフを聞いたように思う。最近じゃようやく周り(昔からうるさかったやつら)が放っておいてくれるようになったから久しくその言葉を聞いていなかった。聞き慣れて聞き飽きたはずのその言葉は不思議と自分の中に奇妙な形で跡を残したがだからと言って感化されるわけじゃない。前まで、男がどうのというこだわりを持たれるならいっそのこと男であることをやめてもいいと思っていた。そのほうが楽に生きられるなら。こだわりを持つことを悪いとは思わないけれど押しつけられることだけはゴメンだ。制約されることは一番嫌いだ。だが、この獅子川という奇妙な先輩は並々ならぬこだわりを持っていたがそれを俺に押しつけることはしなかった。ただ俺にイライラしているだけのようで、俺が喋らないとそれ以上は何も言ってこなかった。イライラしているのは生理的なものだとか性格的なものだろう。
孤独が好きだといつかその先輩は言っていた。孤独が好きで、旅をすることが好きで、だから一人で旅してたとそのときも麦茶を飲みながら言っていた。俺は相変わらず喋らなかったけれど先輩は淡々と話した。彼は時々酷く落ち着いた話し方をする。猿野や虎鉄先輩、他のみんなと騒いでいるときとは比べものにならないくらいに。
話しかけられたことはあるが先輩と二人きりになるのはそのときが初めてで、それは確かどこかの練習試合に行った帰りのことだった。何てことはない、帰るときたまたま同じ方向になっただけだ。兎丸が部員を何人か集めてゲーム大会をすると言い出したから俺は遠慮して久しぶりに一人の帰路についた。夏の始まりの風が少し心地よくて少し上機嫌だった。後ろから先輩に呼び止められたのだ。
「めッずらしいなお前が一人なんてよ」
ああそういえば、その時俺は思った。高校になってから一人でいることが減った。そう望んだわけでもなく、ただ周りに人がいた。彼らは俺にとって害のない人達だったから自然にまかせていた。
先輩は何も答えない俺に構う様子もなくさっさと隣を歩き出した。ボトルを取り出してまた麦茶を飲む。ごくりと音が聞こえそうなほど喉を上下させた。一度に多くを飲むというのに何故彼の麦茶は切れないのだろう。これは今でも疑問に思うことだ。
先輩は俺に話をするとき、いつも答えのいらない話し方をする。例えばそうだ、彼が愛馬に話しかけるときに似ている。それは俺に対する気配りだったかもしれないし、もしかすると本当に愛馬と同じように俺に接していただけかもしれない。どちらにしろ俺は助かった。話を聞くのは面倒くさいが聴くことは嫌いじゃない。幸いいつものような大きすぎる声ではなかったし、声変わりしきったその声はむしろ心地よいとさえ言ってもよかった。だから道が分かれるまでの間、俺はずっと彼の話を聴いていた。そのほとんどが旅の話だった。
そういえば、彼は多弁だけれど旅が好きだと言うわりに普段あまり旅の話をしない。聞くと(結局のところ俺は彼の話を聞いてしまっていることが多い)自慢になる話もあるし、野球部の彼らに話せば盛り上がれそうな話も多い。先輩は話の聞かせ方がうまかったし、だから結局俺はいつも先輩の話を聞いてしまっている。淡々と、けれど味わい深げに話して聞かせる旅の話はどれも嫌いじゃなかった。
「孤独が好きだ」
ふいにそのとき彼は言った。
「孤独ってのはなぁ司馬、別に淋しいもんじゃねぇぞ」
何故その話を俺にしたのか、それは今でもわからない。
「よお」
背中を少し蹴られて、自分が眠ってしまっていたことを知った。雨が降って、部活は簡単な筋トレだけで終わってしまった。雨は嫌いじゃないけれど少しふぬけた気分で、少しの間茶色い水溜まりのたくさんできたグラウンドを見ていた。
「こんなとッこにいたのか。兎丸が探してたぜ」
時計を見るとそんなに時間は経っていなかった。そういえば校門で待ってるとか兎丸が言っていたような気もする。おい、一礼してその場を離れようとしたとき、もう一度先輩に呼び止められた。
「お前よぉ、何で喋んねぇッんだ?」
あまりにも唐突だったから暫くの間俺は先輩の顔を見たまま固まっていた。彼が質問をすることが珍しかったのもあるだろうし、彼が聞き慣れた言葉を発したことにも少しだけ驚いた。彼が俺に言うことは全て非現実的な事実ばかりだったからだ。だから俺にとってそんなに聞き慣れた言葉は最初に先輩と話したとき以来だった。”おッ前ホントに喋んねぇんだな””オットコならはっきり言え”
数秒経ってから俺は首をかしげた。実際何度も聞かれたけれどいつだって答えはわからなかった。他の人間に比べて口数が少ないことは確かだが、理由を聞かれて答えられるような理由など持ち合わせてはいない。
「まあ、別にどうでもいいけどなッ」
人そッれぞれだ。自分で質問しておきながら先輩はそう言った。
「話を聞ッけない奴は嫌いだけどな、話さない奴は別にいい。言葉が通じなくてもだいたいわッかる。そうやって生きてきた」
俺はまた何も答えずに、もう一度頭を下げてその場を離れた。
今でもたまに、先輩は旅の話をしてくれる。授業中の屋上で出会うこともあるし、部室でたまたま二人になるときもある。
例えば、俺がものすごく多弁で毎日騒ぎながら暮らしていたとすれば、先輩は俺に話をしただろうか。俺はこの先輩のことなんて実際にはほとんど知らないし、他の部員との付き合い方だって何も知らない。誰と仲が良くて誰と何をしているかなんて俺にはどうでもよかったし、先輩も一切そんな話はしない。何も話さない俺を、例えば彼が彼なりの基準で何らかの位置付けをしてくれているのだとしたらそれもいいだろう。何も言わずに話を聞いてくれる存在というのが彼にとって何らかの形で支えにでもなれたならそれが一番いいのかもしれないが、孤独を好む彼に支えは不必要で邪魔なものだろうし俺もそんな甘えた対象になるつもりなど毛頭ない。独特のこだわりと価値観を持つ彼の中に、ごく自然と紛れ込んでいるだけだ。
「おい司馬、ちょっと聞いてくれ…」
座っている俺のそばで、実に楽しそうに先輩は話す。目を見なくても相槌を打たなくても彼は気にする様子もなく話し続け、終わればとっとと去っていく。俺が何も言わないでいても彼は彼なりに俺の居場所を作ってくれているのだ。そういう声が心地良いから俺はまたその話に耳を傾ける。だが一度くらいは、ほんの少しの挨拶くらいしてみてもいいのかもしれないが。