FLY
隅々まで片付けられた、けれど決して殺風景ではない小綺麗な部屋の窓辺に彼女の机はあった。仄かに漂う紅茶とお香の香りの合間で、キーを打つ音だけが規則的に動き、止まり、そして動いた。
彼女は記者だった。論文でもなければ小説でもなく、気持ちを入れすぎてはいけないけれどあまりに無感情でもいけない、そんな文章ばかりを書いていた。彼女はいついかなるときも、正確で、そして公正なる視点からものごとをとらえ、記述しなければならなかった。
彼女の書く記事はいつも、たかが校内新聞の、その中でも割り当てられた小さな場所にしか掲載されない記事だ。世界の広さに比べればあまりにも小さすぎる出来事ばかりを彼女は書いていたのかもしれない。けれど、遠くの国で起こっている戦争よりも、友達が昨日行った試合結果のほうが、読者にとっては重要で大切なものであるということもまた事実だった。だから彼女は誇りとプライドを持って、その片隅のスペースを埋めることにしている。
「悪くないもんなんすね」
彼女の部屋とは対照的に、部室は書類や写真が散らばり雑然としている。少し陰鬱な空気も持つその部屋に設置された長い机に向かい、沢松は言った。
「何がですの?」
「こういうの」
うまく言えないんすけど、と沢松が続ける。
「悪くない」
彼女はちらり、と彼に目線をやってすぐに目の前のモニターへと向き直った。
「梅さんは」
梅さん、というのは彼女の愛称だった。
「何で報道部入ろうなんて思ったんすか?」
言葉が途切れて少しすると、エンターキーを強く押して手を止め、彼女は立ち上がった。そのまま部室の隅に不自然に設置されたティーセットに歩み寄り、手際よく準備を始めた。
「どうしてそんなことを?」
「いや、別に」
オレンジ・ペコでよろしくて?沢松は黙って頷いた。紅茶の銘柄に興味はなかった。
「きっかけなんて覚えていませんわ」
ティーポットとカップに熱湯を入れておき、別の容器に水を入れて火をかける。もともと彼女は紅茶を入れるのが上手かったが、彼女の追う野球部の主将はそれよりも上手かった。去年の暮れに彼女は彼から紅茶の入れ方を教わり、余っていたという高級なティーセットを一式もらった。部室に置かれているセットはもともと彼女が持っていたもので、彼にもらったほうは家で大事に使われている。使ってしまうのがもったいないとすら思ったが、やはり彼女は使うことにした。ティーセットにはティーセットの役目というものがあるのだ。勝手に置物にしてはいけない。
「沢松はどうなんですの?」
紅茶の缶を取り出しながら言った。ティーセットが置いてある小さな台の、ひらきの中にそれは入っている。彼女の趣味でそこにはいくつもの紅茶が並んでいた。特にお気に入りは決めていなかったから、ほとんどが均等に減っていっている。彼女はいつでも公平だ。
「俺っすか?俺は…」
そこで沢松の言葉は止まった。天井の曇った蛍光灯を見ながら思考を巡らせる。何故か腐れ縁の幼馴染みの顔が浮かんできたが、やっぱり違うな、と思って沢松は考えることをやめた。もともと考えることは嫌いだったから、沢松は思考をやめるのが彼女の三倍くらい早かった。
「わかりません」
「同じことですわ、何にでも理由があると思ってはいけませんわよ」
火にかけた水が沸騰し始め、彼女はティーポットに入っていたお湯を捨てると茶葉を二杯すくって入れた。熱湯を注いで蓋をする。中の葉が対流しはじめる。ジャンピング、目まぐるしく回るそれは多分自分たちに似ていると彼女は思う。出会っては別れ、踊り疲れてみな沈んでいくのだ。そうしてやがては静寂が訪れる。あとに残るのは出し切ってしまった色だけだ。彼女はいつもそれらの流れを客観的に見届け、誰かに伝えなければならなかった。理由なんてない。それから二分半の間、二人が何も話さなかったのもまた同じことだ。
「でも悪くないっすよ」
茶こし器を使って慎重に紅茶を注いでいく彼女を見ながら沢松が言った。
「例えば人の役に立たなくても人を惹きつけられる」
特に梅さんの記事は。最後の一滴が落ちたカップは、沢松に差し出された。彼女は周りが思うよりずっと後輩思いで、そしてそれを気取らせるような真似は絶対にしない。
そのクラスメイトは、決して嫌いではなかった。虎鉄は彼女が追い続けている部の部員だったし、その学年では有望視されていて実際レギュラーも取っていた。年功序列制を方針としていた頃からだ。
教室の中で虎鉄は目立つ。派手だし、うるさいし、ついでに言うなら女が好きだった。甘いものも好きだった。
「何書いてんDa」
必要以上に語尾を弾ませて話す虎鉄を、一瞬鬱陶しそうに見遣ってから作業を続ける。教室で記事を書いていると一度は声をかけられる。それもわかりきった質問ばかり、毎回毎回一言一句違わずに虎鉄は尋ねる。
「記事に決まってますわ」
「はっ、ご苦労なこったNa」
ここまでがいつも同じだ。おはようとか、ありがとうとか、そういう言葉と変わらない。おはようよりは重くてありがとうよりは軽い。そんなやり取りを飽きっぽい虎鉄は飽きずに続ける。
「最近調子悪いみたいですわね」
手を休めず虎鉄を見ることもせずに彼女は言った。
「うるせぇYo」
そのとき廊下から何人かの女子生徒が虎鉄を呼んだ。適当に営業スマイルで手を振る。女子生徒は何か話があったようだったが、気付かないふりをして彼女の隣の机に腰掛けた。クラスメイトの誰かのものだろう。
「いかなくていいんですの?」
「いいんだYo」
ただの友達だ、と虎鉄は言った。虎鉄には女友達は多かったが彼女はいない。男友達も多いが親友はいない。猪里とは仲がいいが、クラスメイトでクラブメイトだった、ただそれだけの関係だった。彼女は自分もその他大勢の彼の知り合いだということを知っている。学校にいても、街に出ても、虎鉄にはそれ以上の人間もそれ以下の人間もいない。そういう男だった。
「楽しみにしてるZe、記事」
「…どういう風の吹き回しかしら?」
別に、と虎鉄は言った。本当に理由がなかった。
「夏は見てろYo、牛尾サンより目立ってやっからNa」
「まあ、無理でしょうね」
虎鉄は舌打ちしてその場を去ろうとした。
「もしできたら」
そのとき初めて彼女は顔を上げた。
「ちゃんと書いてあげますわよ、記者として」
「…おう」
教室を出て行く虎鉄は見送らずに、彼女は作業に戻った。紅茶を飲みたかったが教室だったのですぐに諦めた。
心地良い風が頬を撫でて彼女を揺り起こす。初夏の午後はついうたた寝をしてしまうことが多い。彼女は起き上がると、カップの底で冷め切った紅茶を飲み干して立ち上がった。小綺麗な部屋には誇りひとつ落ちていない。友人に勧められたCDをかける。洋楽のポップスだった。歌手は分からなかったが、なかなかいい曲だった。
机に戻ると彼女は再びキーをたたき出した。もう締め切りが近くなっていた。