今日より明日の生きがいを

 イエスとノーしか答えのない疑問になんて興味はないんだよ、と、不自然に言葉を句切る独特の話し方で獅子川は言った。
 「はっきりとわかれてることなんて所詮一握りすらねぇんだ。それくらいお前もわかってんだろ」
 「そうだね」
 牛尾は短く言った。獅子川が不満そうに顔を上げる。
 「それも、他に何かあんだろ」
 何が? と牛尾は尋ねたが獅子川は答えなかった。聞かなくたってわかっている。奇妙な時間だ。実に奇妙だ。奇妙な時間であり、奇妙な空間だ。
 牛尾は質問を変えた。
 「君も感じているのかい」
 「あ?」
 「猿野君のことだよ」
 「意味がわかんねぇな」
 「虎鉄君のときと同じだよ」
 だから何が、声に少し苛立ちが混じり始めたことを感じながらも牛尾は表情ひとつ変えなかった。目の前にいるその男が少々のことで怒らないことくらいは知っている。付き合いが長いとか、特別親しいとか、別にそういったことがなくても獅子川の性質など容易に知ることはできた。感情の表現だとかそういうことにおいてとてもわかりやすい人間というのは少なからず存在する。ただ、それを理解できるかどうかが問題なのだ。同じクラスの誰もが等しく彼の人間性について知っていて、けれど同じように一人として彼を理解している人間などいない。こういう反応をすれば彼はこうするだろう、その予測が当たったとしても何故彼がそのような行動をとるのかという理由はわからない。
 「煙草やめたの」
 また質問を変える。
 「さあな」
 「これは真面目に答えてくれるかな」
 言ったろ、一瞬牛尾に視線を走らせて、疎ましそうな表情をした。今日は機嫌が悪いのだと気が付いたのは少し前のことだ。
 「イエスかノーしか答えのない疑問にゃ興味がねぇ」
 「僕は曖昧な返事のほうが嫌いだ」
 「俺だってそうだ」
 だったら何で、とは言わなかった。もとよりまともな会話など牛尾は期待していない。獅子川との間に流れる沈黙は嫌いだった。沈黙が嫌いなのではなく(むしろ彼は静けさを好んだ)、獅子川と一緒にいて何も話さないことに、牛尾は一種の恐怖を抱いていた。久しぶりに帰ってきたとはいえ、放っておいたら何処へ行ってしまうかもわからないような男だ。今隣にいたとしても、本当にそこに存在しているのかという確信ですら未だに持てないでいる。だから話し掛ける。そこに意味はあってもなくてもかまわない。隣に存在している男が本当にそこにいるのか、その確信を得るためだけに牛尾は話す。
 例えば今この奇妙な空間において、それを奇妙だと牛尾が思うのはやはり隣に獅子川がいるという事実を理解しきれていないからだ。地下にあるただっ広い球場に二人しか人間がいないというのも、あるいはいつもそこにいるはずの後輩がいないということも、彼にとっては大した問題ではない。そこが学校のグラウンドでも、あるいは街中の雑踏であったのであっても、そこに自分と獅子川しかいないというところに問題がある。隣の人間の存在を信じられないとき、牛尾は自分自身でさえも信じられなくなる。大抵のものごとは全て相対的な存在でしかない。
 「言っとくが俺は一回も感じたことねぇよ」
 何のことか、と考えて、すぐにさっきの質問の答えだとわかった。つまり、猿野が獅子川に似ているか否かという問題だ。
 「どうして」
 「知るかよ」
 「でも虎鉄君は、」
 「あいつも違う」
 牛尾の言葉を遮って言った。その響きがあまりにも冷たくて、本当はそんなことなんてどうでもいいのだと知る。
 そもそも、根本的に住んでいる世界が違うのだ。牛尾は思う。言ってみるならば横軸的な次元の違いだ。空間の中で平行に立つ平面のような、そういう違い。だから不安になる。存在が信じられない。存在という概念そのもの、ものの考え方からして全てが違っている。結局、自分が生きている中での概念など同じ世界の人間が作り出した気休めに過ぎないのだ。隣にいる人間の存在を確かめたいから、その気休めに、共通の概念を置いただけなのだ。獅子川と同じ時間を、空間を共有するには、まずそこからして崩壊している。だから不安になる。存在が信じられない。

 楽しいか、と牛尾はよく聞かれる。レールの上に乗った生き方。大人の言いなり。中学時代の友人も、獅子川も、そればかりを気にした。牛尾は自分が典型的な優等生であり、”坊ちゃん”であることをわかっていた。楽しいわけではないが、楽しくないわけでもない。牛尾はいつも答えられなかった。
 「獅子川君は楽しいのかい」
 随分と前に尋ねたことがある。そういう、自由な生き方って。
 「自由、ねぇ」
 獅子川は繰り返した。
 「自由と、自由を求めるのは違うってもんだろ」
 「どういう意味?」
 「俺は自由が好きだ。でも自由じゃねぇ」
 わかるか。金属音がどこかで響く、二年前の暑い夏だった。
 「僕には君はとても自由に見えるけどね」
 「お前に比べりゃ誰だって自由だろ」
 そのとき、自由の意味なんて牛尾にはわからなかった。そして、それは今だって変わらない。

 久々に帰ってきたのだというのに、獅子川は何も変わっていなかった。変わっていないというのは成長していない、という意味では決してない。獅子川という人間はある意味すでに完成していた。完璧なのではなく、完成していた。もう彼は変わらなくてもいいのだ。いつまでも自分や隣の人間を気にしてあがいている牛尾とは違うのだ。
 「君はやっぱり自由だよ」
 「何だいきなり」
 「どう見たってそうなんだよ」
 二年前の夏も、そして今も、獅子川と牛尾は決して交わらない平行な面の中にいた。けれど平行だということはこの先もこの奇妙な時間と空間の中で隣にいなければならないということだろうか。そんな思いを振り切るように語尾を強くした。
 「相変わらずどうでもいいことばっかり気にするんだなぁ」
 ちょっとは変わったかと思ったんだけどな、獅子川が笑った。
 「そっちも変わらないじゃないか」
 「そうだな」
 もう、変わりたいとさえ思わないのかもしれないと、そう思う。
 「練習しようぜ」
 麦茶を一口飲んで獅子川が立ち上がる。この球場はこんなに広かっただろうか。
 グラウンドへと足を踏み出す獅子川の後ろ姿を眺める。後ろ姿だけで人を語った画家がいた。後ろ姿は本当に人を語れるのだと牛尾は初めて知る。羨望なのかもしれない。牛尾は思った。この色々な思いは、ただ単に獅子川を羨んでいるだけなのかもしれない。それでもいい。それでもいいから、とりあえず今だけは獅子川の存在を信じようと思う。
 「そうだね」
 後を追うように牛尾も立ち上がった。

2003.8.12