MY MEN RIDE ON TIME

 夏の盛りを過ぎた八月の下旬。エアコンの効いた建物を出るのはまだ躊躇われる気候だった。強い日差しの下へ出ることに抵抗を覚え、環境汚染など何処へ行ったのだと言いたくなるような青い空を見つめる。後ろから暑いと何人かの声が聞こえ、俺が自動ドアを開けっ放しにしていたのだと気付きあわてて場所を変える。まだ夏なのか、もう夏なのか。いずれにせよ夏はもうすぐ終わる。
 帰路につく何人かの友人からまたな、と声がかかり軽く返しておく。またな、か。もう一度空を仰ぐ。何もこんなところ来たくて来てるんじゃない。申し訳なさそうに、空の隅でちぎられたみたいな小さな雲が漂っていた。視線をもとに戻して友人達の後ろ姿を見送る。——こんなとこでずっと立っているわけにはいかない。
 「あちィ…」
 思っていたとおりの熱が頭に降り注ぎ、思わず声が出る。反対側から主婦とおぼしき中年の女が日傘をさして歩いてきた。主婦ってのは随分と不思議なものだと思う。俺のおふくろもそうだったが、日がな一日家の中で家事をして、テレビを見て、たまには近所の友達の家で愚痴をこぼしあい、いつも誰かが帰ってくるのを待っている。ありえなく狭い人付き合いと旦那との駆け引きと、そんなストレスを全て子供の顔だけで忘れられるだなんて絶対に嘘だ。けれどもうそんなことはどうでもよく、ただそのときはその日傘ですら羨ましく思ってしまったのだと、それだけの出会いだった。最初で最後の出会いだ。その主婦が今どこでどうしているかなんて、すれ違った直後から俺の知ったことではなくなった。
 「沢松?」
 日よけのない国道の道沿い、排気ガスにまみれた歩道を歩く。空の青さが嘘のように吐き気のする空気だった。ふいに、呼び止められたのだ。
 「…テメェか」
 何だよその言い方は、この暑さにも関わらず肩に手を回してからんできた。酔っぱらいの親父かテメェはと少し煩わしくなってその悪友を払いのけた。
 「なんでこんなとこにいんだよ、天国」
 「おつかいってやつだ。俺ってすっげ親孝行だな」
 「勝手に言ってろ」
 この暑さの中ではいちいちリアクションをとるのも面倒くさく、何でこの男はこんなに平気でヘラヘラしてやがるんだと考えてそうだこいつの誕生日は夏だったかとわけのわからないところで納得してひとつ溜息をつく。本当は誕生日がいつだとしても夏に弱い奴は弱いだろうし、強い奴は強い。俺は弱くてこいつは強い。ああもう考えるのもめんどくさいと軽く頭を振った。軽い目眩がする。
 「テメェは塾か」
 本当におつかいに行かされたのだと伺える白いビニール袋を乱暴に振り回しながら、それでもやはり汗を滲ませて隣を歩く。こいつはいい。いつでも気楽で楽観的で、口には出さないが俺はこいつを羨ましいとすら思うことがある。
 「まあな」
 「へっ、ご苦労なこって」
 天国は俺が夏を苦手としていることを知っている。だから、だったのかは知らないが、そのテンションがいつもより随分と低かったことは確かだ。行き交う車や、反対側から歩いてくる主婦や(本当に主婦というのはどこにでもいる)、青すぎる空なんかを見ながらたまに俺に話し掛けたりして、まるで暇つぶしだなとぼんやり思う。ある種俺たちの友情というのは暇つぶしにも似ていた。それで俺も暇だったから、ただ焼かれるよりはマシだと思ってたまに天国に話し掛けた。
 「お前大丈夫かよ」
 「何が?」
 「塾とか行ってねぇんだろ」
 ああ、あまり興味もなさそうに答える。
 「テメェも十二支狙ってんだろ。今のまんまじゃヤバいって言われてんじゃねぇのかよ」
 「気にすんな」
 受験生だった。幼稚園からひたすら遊んでここまできた。日本の義務教育ってやつに甘えて、毎日毎日遊んで、気が付けば俺たちは受験生だった。
 「猿野様に不可能はねぇよ」
 今さら受験なんて言われてもピンと来なかった。けれど中三になってから教師の雰囲気が変わった。なんとか無事に、と、教師ってのはいつでも何事も起こらないことばかりを祈っている。俺たちが無事に高校に行けるようにと。そして一ヶ月前、多分無事に部活が終わった。
 こいつが言えば本当に何でも不可能なくやり遂げるんじゃないかとそういう気がする。でもこれは鬼ごっこでもドッジボールでもなく、一発勝負の現実なのだ。実力が全てだ。そういうことを学校だの塾だのそういうところの教師は皆口を揃えて言う。受験生は皆洗脳されているのだ。洗脳されてこその受験生だ。
 「家で何やってんだ」
 「受験生猿野様は賢く一日三十時間の勉強という自分への重い課題を…」
 「嘘吐け」
 六時間足りねぇよ。また通り過ぎていった主婦を視界の隅に見る。今度は子連れだった。
 「…甲子園でも見ながらゴロゴロしてんよ」
 「そんなこったろうと思った」
 炎天下で母親に連れて歩かれる子供もまた可哀想だなと思う。三歳くらいの男の子だったと思うが、熱射病で死にはしないのかといらない心配でもしてみる。まだ世間を知る前の一番幸せな時代だ。世間を知れば知るほどに人は不幸に、卑屈になっていく。日本人は特に。
 「野球嫌いなんじゃねぇのかよ」
 一学期の終業式で、また野球部の奴に好きな子を取られていたはずだと思い返す。最後の大会に向けて猛練習している野球部を恨めしそうな目で見つめ、考え得る限りの怒声罵声を飛ばしていたはずだった。
 「別に、風物詩みたいなもんだろ」
 遠い世界の出来事だ。そのとき俺は思った。甲子園、白球を追う球児、深紅の大優勝旗。全ては遠く、まるで関係のない出来事だった。そしてこの先も関わりのない世界なのだとそのときはただ純粋にそう思った。青春はどこまでも遠いところにあった。

 国道を逸れて、どこか時の止まったような住宅街に入る。俺たちの家はこの住宅街を少し外れたところで、何処へ行くにもここは通らなければならなかった。家が近かったし使う公園も一緒だったから、この住宅街に友達は多い。だがほとんどが同い年のそいつらも、今までの遊びっぷりが嘘のように塾だ受験だと家に引っ込み最近はあまり会っていない。いくつか友達の家を通り過ぎながらほんとに洗脳だよな、と笑いたくなった。
 道なりに行くと途中に駄菓子屋が見える。最近輸入住宅なんかも増えてきた住宅街には似合わない、木造の平屋で昔ながらの駄菓子屋だ。店主は腰の曲がった婆さんで、昔はいたずらをしてよく怒られたが今年八十になるという彼女はもう昔のような元気を失くしつつある。人は老いる。その婆さんですら昔は受験なんてものを経験したのだろうかと考えるが戦争でそれどころじゃなかったのかもしれない。だが残念ながら俺は戦時中の学校の状況についてなんて詳しくない。
 「かき氷でも食おうぜ」
 自分が食べたかっただけなのか、それとも俺があまりにも死にそうな顔をしていたからなのか——多分前者だ——『氷』という使い古された暖簾を指差して天国が言った。二つ返事でそれを了承する。
 店主の婆さんは相変わらず腰が曲がっていて、もともと多かったシワとシミがまた増えていた。髪は昔から真っ白だ。
 「ばーちゃんかき氷。俺メロン」
 「あ、俺イチゴで」
 誰に聞いたのかは忘れたけど、彼女は戦争で夫を亡くし、当時生まれたばかりだった一人息子を養うためにこの駄菓子屋を始めたのだと言う。戦後の混沌とした町でその日の生活費もままならない中、それでも女手一つで息子を育て上げたのだ。今その息子は東京に住んでいるんだっただろうか。俺は一度もそいつの顔を見たことがない。
 シロップ多めでと、言わなくてもたくさんかけてくれる。叱られながら、たまにはイジめられて泣いているのを励まされながら、ここらのガキは親と同じように彼女に懐き、彼女もまた俺たちを子供みたいに可愛がってきたのだと思う。金を払って礼を言い、店を出てイチゴのシロップがたっぷりとかかった氷を一口口にする。冷たい。
 「うっっっっめぇ〜!」
 「うまいな」
 隣で叫ぶ天国を横目に、もう一度空を見上げた。確かに暑い。暑すぎるくらいに暑いが、空は抜けるように高かった。もう今年のかき氷もこれが最後かな、と何となく思う。もうすぐ中学最後の夏が終わる。
 「お前さ」
 ふいに天国が口を開いた。
 「マジで十二支でいいんかよ」
 「何が?」
 「志望校」
 わけがわからない、かき氷をまた一口食べる。
 「お前ならもうちょっと上狙えんじゃねぇの」
 天国のかき氷はもう半分が無くなっていた。
 「別に、十二支で充分だろ」
 俺たちの志望校は一緒だった。一緒に行こうと言ったわけでも、互いの志望校を相談したことがあるわけでもないが、気が付けば同じ高校を志望していた。
 「まあ、それでいいっつーんならいいけど」
 「ああ、気にすんな」
 「でもよ、」
 天国はカップを傾けて残ったシロップを喉に流し込んだ。俺はまだ半分以上が残っている。
 「俺に気ィ使うのだけはやめろよな」
 一瞬、言葉に詰まった。
 「…何言ってんだよ。別に使ってなんかない」
 と思う。というのは口には出さなかった。俺は担任にももう少し上でもいいんじゃないかとも言われたが、俺は志望校を変える気はない。天国から十二支を考えていると聞いたとき、確かに相談してはいないがこれがごく自然なことだったのではないかと思った。今まで悪態つきながらやってきたようにこれからもそうやっていくんだと、ごく自然に俺はそう思った。だから、志望校を変えないことに天国が絡んでいないと言えば嘘になるが、ただ俺の中で何の疑問もない選択だったからそれはそれで自分の意志なのだと俺は信じている。天国と一緒の高校に行きたいのではない。それが自然なことなのだ。
 「じゃあもし、俺が十二支行かないっつってもお前は引き留めねぇよな」
 「え?」
 例えばの話だよ、真剣な天国は久しぶりかもしれなかった。第一、この長い夏休みで天国に会うこと自体久しぶりだった。それでか知らないが、天国は少し背が高くなった気がする。
 「マジな話、俺無理かもしんねぇから」
 「だから勉強しろって」
 「勉強ねぇ…」
 自分で言いながら似合わない言葉だと思う。俺にも、天国にも。それでもしなければならないことというのはある。俺は別に、
 「俺は、別にお前と行きたいわけじゃねぇよ」
 でも行けたらいいなとは思う。というより行けなければおかしいとも思う。思うだけで言わないけれど。
 「そうかよ」
 俺の言葉をどう取ったのかは知らない。天国がその後勉強を頑張ったのかも知らない。

 「一口くれ」
 天国が溶けかかった俺のかき氷を奪い取って、とても一口とは思えないほど頬張る。
 「あっ、こらてめぇふざけんな!」
 中学最後の夏の終わり、溶けかかったイチゴのかき氷と高い空の下。半年後の俺たちがどうなっているのかなんてわからない。それでも誰もが手探りで、なんとか前に進もうと足掻いていた。隣の奴を見ては焦り、置いて行かれないように必死で、多分誰もがいっぱいいっぱいの生活を送っていた。だけど俺は、この日から少しだけ気が楽になった。不安なのは俺だけじゃないし、でも俺には悪友がいてまだまだ一緒に生活していかなければならないから、あと半年、頑張ろうと思えた。
 青春も、別に遠くないのかもしれないと、ぬるくなったイチゴのシロップを流し込みながら思った。

2003.8.20