空が、地平線まで続いているのを見たことがあるだろうか。世界が空に消えていくのを、美しいとは思わないか。
 まっすぐ見つめた先に、何億光年も離れた俺の前に、ただ無数の星が輝いていたのを覚えている。

GOOD NIGHT

 都会は嫌いだった。空が狭いし、暗いし、人は多いし、車と煙草の煙で霞んでいるし、とにかく都会は嫌いだった。祖国は都会だっただろうか。都会の真似をしていただけなのかもしれない。だが空は狭く、暗く、人は多く、車と煙草で霞んでいた。そんな場所だった。
 「どこへ行くの?」
 どこでもよかった。何がどうなってこうなったのか、もう何でもよかった。

 もう少し昔の、誰もが調子に乗りだす年頃には、世界は自分のためにあるのだと思えた。そう思える頃が一番幸せなのだろうと思う。だが俺は俺なりにそれから年を重ね、まだ十分に調子に乗っていてもいい年頃だが気が付いてしまった。世界は誰のためにあるわけでもない。何のためでもない。幸運か不運かは知らないが、偶然が重なってただ単に回っているだけだ。何億年もずっと、回りすぎてきっともう意識なんてないのだろう。
 仲間もいた。仲間と思われていたのかどうかは知らないが、泥臭く青春なんてものを送っていた。
 別に人を殴ったのは初めてじゃなかった。俺は自分でもそんなに気の長い方だとは思わないし、殴ったことを後悔なんてしていない。後悔するような人生を送るつもりなどない。
 「君の気持ちは痛いくらいにわかるけど」
 見送りは1人だった。
 「あと少しの我慢だったじゃないか」
 「俺は我慢ってのがいっちばんきれぇなんだ」
 じゃあな、と言った。
 「またね」
 それには答えなかった。
 帰るつもりは、あったと言ってもなかったと言っても嘘になる。停学の期間はそんなに長くはない。もとからそんなに厳しい学校でもなかった。だが世界を見るのは夢だったし、金は無駄に貯まっていた。成人もしていないような自分が世界を渡れるとは到底思えなかったけれど、やってみる価値はあると思った。野垂れ死んでしまったら所詮はそこまでの男だったってことだ。親は放任だったし、日本を出る手続きなんかも一通りやってくれた。親も突然いなくなってはどこかの国の土産と土産話を持って帰ってくるような奴だった。

 地平線に星があった、と何年も前に母親から聞いた。
 「いつか見に行くといいよ。1人でな」
 母親の旅について行ったことはない。俺は高校に上がるまで日本を出たことがなかった。

 世界へ、と言ってもどこへ行けばいいのか最初は見当もつかなかった。だが飛行機は使いたくなかったし、とにかく歩こう、と思った。とにかくまっすぐ、まっすぐ。
 都会もあったし、田舎もあった。田舎だからといって、あの日本の田舎特有の、時間がそこで止まってしまったかのような、静かで温かいあの空気が流れているとは限らなかった。流れているところもあった。都会はどこも同じで、空は狭く、暗く、人は多く、車と煙草で霞んでいた。どこも同じだった。
 世界はどこもかしこも人で満ちあふれていて、振り返ると必ず人がいて、前を向いても人はいた。
 一人と独りに大した差はないように思えた。

 あれは何カ国目だったか。もう、あまり覚えては居ないが、とにかく人が少なかったのを覚えている。建物があるわけでもなく、林や森があるわけでもなく、でも砂漠ではなかった。草原、といえばいいのだろうか。遠くに羊と羊飼いが見えた。羊飼い以外の人間は見当たらなかった。
 俺は馬に乗っていて、そいつはとても従順だったが、でもやはりただどこまでも続く草原に嬉しそうだった。そこはそいつの故郷にも似ていて、世界にはいくつか似た場所があることを俺もその馬もすでに知っていた。
 地平線の向こうに空が見えて、空と地平線は同じところにあった。

 俺にとって母親は絶対的存在だった。親とは本来そういう存在なのだろうけれど。俺がうんと小さい頃から母親は平気で一人旅に出て、一度旅に出ると半年は戻ってこなかった。だから俺にとって母親の記憶というのは断片的なもので、そしてきっと思い出なんてものはほとんどない。公園で遊んでもらったり、遊園地に連れて行ってもらったり、眠るまで本を読んでもらったり、そんな記憶はひとつもなかった。けれどそれを不幸だとは思わない。
 俺は本を読んでもらうかわりに母親の土産話をたくさん聞かされた。それが楽しみで、そして楽しくて、公園や遊園地に行くよりもずっと遠くへずっと楽しいところへ行けるような気がしていた。
 「いつか見に行くといいよ」
 一人で、そして、一度だけでいい。
 ここ数年母親はずっと日本にいた。もういいんだよ、と自嘲的に笑っていたのは2年ほど前だっただろうか。
 「若いときから好き放題やってきて、何度も旅して、やっと満足したってゆうかね。そろそろちゃんと子育てでもしようかなと思って」
 もう充分育った後じゃねぇか、言うと母親は笑っていた。そんな風に笑う母親を俺はそれまで見たことがなかった。

 空気が澄んでいた。空はとても高く遠いところにあり、けれどずっとそこにあった。これ以上近くはならないし、遠くもならない。十年後も十万年後もそうしてそこにあり続けるように思えた。きっとここはいつまでも草原のままなのだろうな、と俺は思った。
 祖国に地平線はなかった。あったのかもしれないが、俺は見たことがなかった。
 ここなら見れるのかもしれない。地平線に空が消えていくこの場所なら、いつか母親が言っていたものが見れるかもしれない。
 地平線に星があった、と母親は言った。

2005.3.5