SATIETY

 なんてこともない土曜の朝だった。その日はめずらしく野球部の練習が休みだったため取材に出向く必要もなく、久しぶりの休暇だと少しだけいつもより長く眠ろうと前の晩から決め込んでいた。しかし、実際翌朝になってみると、知らず知らずのうちに溜まっていた疲労は相当なものだったようで、少しの寝坊のつもりが気が付けば正午を少し回っていた。何故誰も起こしに来てくれなかったのだろう、と考えて、そういえば家族は皆それぞれに出掛けるのだと昨夜聞いていたことを思い出した。それで彼女は折角の休暇を半分も無駄に過ごしてしまったことに気付き、深いため息をついてベッドから起き上がった。
 普段の彼女ならば、たとえ休日だとしても寝坊することなどまずありえない。彼女は基本的に規則正しい生活を送り、やるべき仕事は完璧にこなしてそれなりに自分の時間も持てるようにしていた。それが近頃少し、崩れ気味になっていたのかもしれない。少しだけ、何もかもが憂欝に思えてきていた。
 ひとまず顔を洗おう、と洗面所に足を向けた。半分は習慣から来る無意識でもあった。
 初夏の所為で少しぬるい水に少し顔をしかめた。普段早起きの彼女は、例え夏でも朝顔を洗うときだけはまだ冷たい水を使える。目覚めというのは一日で一番大切だと彼女は思う。一日の始まりを失敗してしまうとその日は一日失敗なのだ。
 手早く顔を洗い終わり、フェイスタオルに顔を押しつける。水気を完全に拭き取ると顔を上げ、鏡をのぞき込んだ。
 ——疲れている、と彼女は思った。
 もともと彼女にはそばかすがあったが、それとは別に明らかに肌は荒れていた。顔色もあまり良くなかったし、普段はコンシーラーとファンデーションで完璧に隠している隅も今日は隠せる自信がなかった。何よりも彼女を憂鬱にさせたのは髪だった。不必要にのびてしまい、パーマも取れかかっていたし根元も地毛の茶色が目立ち始めていた。
 美容院に行こう。この憂鬱な気分を少しでも振り払うために、と彼女は重い体に鞭を打って出かける準備を始めた。

 行きつけのサロンは少し離れた町にあった。電車で四つ目の駅だ。
 家を出ると初夏の厳しくなり始めた日差しが一気に降り注いだ。南中はとうに過ぎている時間だったが、気温的には一番暑い時間帯だ。彼女はあまり暑さが好きではなかった。きつい日差しが肌を焼くのも嫌いだった。甲子園があるために幸い夏を嫌いにはならなかったが、今日ばかりはそれでも憂鬱だと思った。第一、大会はまだ始まっていない。
 いつもより少し軽い鞄を見遣る。取材でなくとも彼女はいつもカメラを持ち歩いているが、今日は置いてきた。なんとなくカメラの近くにはいたくなかった。

 たかが部活動だ、と言われればそれまでかもしれない。カメラだって高校生の彼女にしてみれば単なる趣味、と片付けられるのかもしれない。
 本当は義務ではないのだ。嫌ならやめたっていいはずなのだ。

 駅から歩いて三分のところにあるそのヘアサロンは彼女が中学二年の頃から通っているところで、雑居ビルの三階部分にあった。すっきりとしていて広く清潔感のある感じが好きだった。三年余りの間にいくつか他のサロンにも行ったことはあるが、結局はここに落ち着いた。この一年ほどはここにしか来ていない。
 エレベーターが開くとそこからもう店内になるが、今彼女は一階でそのエレベーターから降りてきたところだった。先程そのエレベーターに乗ってまだ3分かそこらしか経っていない。もちろん髪型もそのままだ。
 晴れた土曜の昼下がりなんて明らかに混んでいるに決まっている。けれど彼女は今日に限って予約をするのを忘れていた。取材にせよ何にせよ、彼女はそういう面に置いては常々抜かりがないはずだった。このことは彼女を一層憂鬱にさせたが、だからこそ彼女は髪型を変えるしかなかった。三時間後に予約をし、重い足取りで店を後にしてきたところだった。
 三時間も暇ができてしまった——彼女は傾き始めたにもかかわらず相変わらず強い太陽を見遣った——とにかくどこかに入ろう。中途半端に栄えたその町にも暇つぶしのできる店くらいはあるだろう。三年以上もここに通っていながら彼女はこの町をあまり知らなかった。

 彼女は好奇心が強い方だ。そうでなければ報道部でキャップを務めたりしないだろうし、もっと自分自身のことに日々時間を割くべきだろう。けれど彼女は昔から好奇心が強く、知らないことは何でも追いかけた。
 初めての人、初めての物、初めての場所。それらは彼女にとって格好の好奇心の対象で、人見知りなどまるでしない彼女は初めてのモノを見るたびに夢中になった。何においても徹底しなければ気が済まなかった。
 彼女は一度でも足を運んだ町のことは大抵把握していた。知らないのはこの町のことだけだった。

 しばらく歩くと、カフェを見つけた。カフェといっても大規模なチェーン店の一店舗で、その店は彼女の家の近くにも学校の近くにもどこにでもあった。ここでゆっくりしよう。ボタンを押して自動ドアを開けた。
 彼女はあまりこういったチェーン店のカフェには入らない。どちらかといえば少し奥まった路地裏にあるような、隠れ家的なカフェのほうが好きだった。だから彼女は大抵の町のそういったカフェを知っていたし、クラスの女の子なんかもどこかへ出かけるとき彼女にいい店はないか、と尋ねてきたりする。彼女はどの分野においても情報屋だった。
 そのようなカフェを探さなかったのは彼女の気分が優れなかったからと、ひとつ見つけてしまえばこの町にある店全てを知りたくなってしまうからだ。彼女はそれを避けたかった。
 この初夏の暑さの中でホットドリンクを頼む気になどなれず、アイスラテを頼んだ。暑い土曜の昼下がりは少しでも涼しいところを求めてやってきた人々で満ちあふれていた。彼女がこういう店を好まないのはこの人の多さのせいもあっただろう。しかし空いている席を探して見回すと、幸いなことに窓際の端の席が空いていた。うまい具合に陽は当たらない。
 腰を下ろして漸く一息つく。アイスラテはまだ飲まず、ぼんやりと窓の外を眺めた。

 彼女はとても好奇心が強かったが、同時にとても飽きやすかった。わかりうる限りの全てを知り尽くしてしまうと、彼女の興味は大抵の場合まるで夢から覚めたかのように消え失せてしまう。もちろんその知識を忘れてしまうことは絶対に無いが、これ以上得る知識がないと知ると彼女は急速に冷めてしまうのだ。学問も趣味も恋愛も、全てがそうだった。
 彼女は野球には珍しく興味を失わなかった。というか、スポーツにおいては彼女の興味が冷めてしまうことはほとんどなかった。きっとそれは試合ごとに新しいモノを見ることができることだったからだろう、と彼女は思う。結局のところ自分は新しいものが見たいだけなのだ、と彼女は割り切ることにしていた。
 この町をあまり探らないようにしていたのも、この町自体に飽きてしまうことが恐かったからだ。彼女は近くの大抵の町のことはもう知り尽くしていて、どこへ行っても楽しいと思うことができなくなっていた。

 初夏の町は明るい日差しに照らされて、学生やカップルや家族連れなんかがたくさん行き交っていた。土曜の夕暮れ前、あんな風に楽しそうに歩いている人たちは普段何をしているのだろう。ふと写真を撮りたくなったが、生憎カメラは家に置いてきていた。
 昔は休みの度に父が写真を撮りに行くのについていったものだった。十歳の誕生日にカメラを買ってもらってからは彼女も一緒に写真を撮った。まだ成長しきらない体に立派なカメラは大きくアンバランスだったが、彼女は夢中になって被写体を追った。彼女が写真に飽きないのもまた、同じ写真は二度と撮れなくて、写真は常に新しいモノだったからに違いない。
 最近は家族で出かける休日も、友達と遊ぶ時間も、恋人を作ってデートする暇も、何もなかった。中学の時の友達とはどのくらい会っていないだろう。
 例えばこれが雨の日なら、こんな風に気が沈むこともあるはずだ。けれどこんな雲一つ無い日に、久々の休みに、こんな場所で一人で何を憂鬱になることがあっただろう。その理由は数え切れないくらい彼女の中にあった。

 四時になっても太陽はまだ沈む気配を見せない。夏はいつの間にこんな近くにまで迫っていたのだろう、と彼女は思う。
 漸く、思い出したようにアイスラテに口をつける。混ぜなかった所為で溶けた氷が浮いていて、酷く不味かった。
 本当に今日はだめだ。彼女は諦めたように溜息を一つついた。予約の時間まではまだあと一時間半は残っていた。

2005.3.13