決して広くはない部屋に目覚まし時計が響いた。何年も使い続けているというのに決して音の弱らないとても従順な目覚まし時計だった。どこにでもあるようなデザインの、どこにでもあるような音で、音量だけがバカに大きいアナログの目覚まし時計だった。

蝶の雨宿り

 俺は夢を見ていた。良くも悪くもなく、心地よくも悪くもない、そんな夢だ。内容は忘れてしまった。夢はいつも記憶に留まってはくれない。目を開けた瞬間、そこから全て煙のように抜け出てしまうのだ。俺が夢から覚めるとき、いつも目覚まし時計は大きな音で俺の耳を打った。
 初夏の朝は嫌いではない。真夏のようなうだる暑さもなければ真冬のような身を刺す寒さも無い。初夏の朝と秋の昼間は好きだった。真冬ほど布団に未練を覚えない初夏の朝は大抵出発の三十分前に目覚まし時計が鳴る。毎晩設定する必要も無くその日も俺は三十分前に目覚めた。空はまだ暗く、雲は少し多かったように思う。そのときふと、窓の外で蝶が一匹飛んでいったのを見た。

 例えばの話だ。通学途中にある電信柱について考えるときがある。見回した限り、電信柱というものは常に一定の距離を保ちながらいくつも高くそびえ立っている。俺はそれを見て、それが電信柱であることを理解するし、その電信柱というものに触ることもできる。電信柱は電信柱としてそこに立っているだけであり、紛れもなくそこに実在しているものなのだ。そこで方向転換をしてみる。目の前に立っている電信柱は確かに存在しているが、そもそも電信柱というものは存在しているのだろうか?頭の中に電信柱という概念があるだけで、電信柱そのものに触れることはできないのではないか。
 朝は苦手だ。頭が変な方向に働きすぎる。俺は決して哲学っぽい話が嫌いなわけではないが、哲学者は嫌いだ。彼らはいつでも死ぬ準備をしているだけなのだと、中学時代の元友人は言っていた。奴も哲学が好きな男だった。俺はもともと頭が良くなくて、疑問を浮かべることはできるけれどそれを解決したことは一度もない。中学時代の元友人は抽象的な言い回しが好きだった。いい家で生まれ、いい家で育ったその元友人は常人とはズレていたらしい。らしい、というのはそもそも俺が常人の考えを持っていないから実のところよくわからないからだ。(それも別の他人に聞いた話であって、俺は俺が異常だとは思っていない。)その友人はどこかズレたままいつのまにか俺の前から消えて居なくなった。俺が奴の言い回しを理解しないうちに居なくなった。そうかと思えば、この間いきなり現れた。相変わらずズレたまま、眼光だけが鋭くなっていた。いつのまにそんなことを覚えたのか、奴は一人前に俺を憎んでいたらしかった。
 俺は電信柱と中学時代の元友人から思考をそらし、何か別のことを考えようと思った。そのとき丁度目の前を蝶が横切ったからその蝶について考えることに決めた。昆虫には詳しくないから品種まではわからず、ただ漠然とその蝶について考えてみることにする。黒い羽に時々白や黄色が混じっている。前にもどこかで見たような蝶だった。蝶にしては無防備に俺の目の前を行ったり来たりしている。掴んでみようかと目の前で握った手は空を掴み、蝶はと見回せば斜め遥か上の方で旋回していた。奇妙な蝶だった。

 学校へ着くのはいつも日が漸く昇り始める頃だ。それでも既にグラウンドからは声が聞こえているし、バットの快音だって聞こえる。名門と言われるだけはあるのだろう。その音をぼんやりと聞きながら部室へ行って着替える。それが俺の一日の始め方だ。
 部室に入ると大抵は何人か部員がいて俺に頭を下げて挨拶をする。だが今日は何故か誰一人として部室にはいなかった。早くも遅くもない時間帯には珍しいことだった。膨大な人数を収容出来る部屋に一人でいると奇妙な気分になる。この広い空間に俺一人では均衡を取らせることが出来ないからだろう。居心地の悪いままできるだけ急いで着替えるようにした。何故急いでいるのかはわからない。早くこの空間を抜け出したかった。
 俺が着替え終わった頃に漸く一人、部室の扉を開けた人物がいた。一つ年下の後輩だった。
 「あ、おはようございます屑桐先輩(^^)v」
 「…ああ」
 その後輩が扉を開けたとき、微かに外の景色が見えた。日はもう昇っていたけれどあまり良い天気とは言えなかった。もうすぐ梅雨だったかもしれない、と俺は思った。
 「遅いな」
 「いやー昨日遅くまでネットしちゃってたんスよ。これでも睡眠時間二時間で頑張った気なんですけど(^^;)」
 それでよく練習をこなせているなと思ったが、適当に相槌をうっておく。後輩の心配までしてやるほど俺は気の回る男ではない。
 先行くぞ、そう残して部室の扉を開けたると強い風が吹き込んできた。外の天気は悪くなるばかりで、先程までは見えていた太陽も今ではすっかり雲に覆われて、霞んだ光の名残が残っているだけだった。
 「うわー一雨来そう、やんなっちゃうよ全く(@_@;)…ん?何だあれ(?_?)」
 後輩がそう言ったので何気なく振り返れば部室の中に何か漂っているものが見えた。
 「…蝶?」
 「揚羽蝶じゃん、何でこんなとこにいるんだろ(∵)ねえ、屑桐先輩」
 その蝶は通学路で見た蝶と酷似していた。深い漆黒の羽にはやはり白や黄色の模様が混じっていた。ゆっくり部室の中を旋回している。
 「屑桐先輩?」
 はと気付けば後輩がすぐ側に立っていた。
 「何ボーっとしてんスか(?_?)」
 「いや、何でもない」
 そのまま強い風の中へと出て行く。今日はよく蝶を見る日だ。

 雨は朝練が終わる頃に降り出した。最初は少し、やがて激しく打ちつけるように降り出した雨に急いで校舎へと駆け込む。みるみるうちにグラウンドには水溜まりができていった。今日から梅雨入りらしいな、と誰かが言った。
 雨宿りをした校舎の軒下にはまた蝶がいた。そういえば、蝶も雨宿りをすると聞いたことがある。蝶がずぶ濡れになることは無いらしい。それが何故なのかまで俺は知らなかったが、蝶は水に濡れない生き物だと聞いた。それでも強い雨の日には葉の裏や軒下で雨宿りをするという。黒い羽は少し不吉に見えた。誰も頭上を旋回する蝶には気付いていなかった。
 昔、確かあれは中学の頃だったと思う。道端で一匹の犬が死んでいたのを見たことがある。それだけでもあまり直視したくない光景だったのだが、そこには何匹もの蝶が群がっていた。その時一緒にいた元友人はあれが蝶の性質なのだと言った。
 「昔から蝶は不吉なものとされていたからね」
 嫌いというわけではないが、それ以来もしかすると俺は蝶が苦手になっていたのかもしれなかった。生と死の同居している光景というのは何かしら不気味で仕方がない。
 雨は際限なく降り続き、結局その日の部活は少し筋トレをしただけですぐに終わってしまった。帰ろうとしたときに二つ年下の後輩に出くわした。
 「おつかれっスー」
 ガムを膨らましながら気怠そうにその後輩は通り過ぎていった。春から入った新入生だ。選手としての実力は申し分ない。だが少し苦手な人種だった。
 「ああ」
 もう聞こえていないかもしれなかったがそう呟き返しておく。未だに何を考えているのかよくわからない人物だった。掴めそうで掴めない、そういえば蝶に似ているかもしれない。掴もうとすればすぐに手の中からすり抜けていってしまう。だから俺はこの後輩が苦手なのかもしれなかった。

 雨の街はいつも湿っていて静かだ。まとわりつく湿気がそうさせているのだろう。人はあまり喋らなくなるし、発した音はほとんど雨音に飲み込まれてしまう。車のクラクションだけはいつも増えた。まだ日の落ちる頃でもないのにぼんやりと赤いテールランプがどこまでも続いていた。
 帰路の途中で買った安物のビニール傘を持って歩く。雨が傘を打つ音は悪くない。その音を聴きながら静かな街を歩く。誰もが下を向いて歩いていた。多分これも雨の日の特徴だ。
 それから家に帰るまでは蝶を見ることがなかった。何故なら学校を出る直前に蝶が死んでいるのを見たからだ。二つ年下の後輩が去っていった後に見付けたのだ。やっぱり黒い羽で白や黄色の模様がついていた。今日俺が見た蝶は全て同じ蝶だったのだ。そして蝶が死んだ。蝶の死というのは普段あまり見れるものじゃない。死んだ蝶は生きているときよりも不気味さが無くなっていた。不気味には変わりなかったが得体の知れない不気味さが無くなっていた。それだけで俺はほっとした。
 蝶を見なくなって気が付いたのは、雨の日に空を飛ぶ生き物が少ないということだ。鳥も何処かで雨宿りをしているのだろうか。無性に空を飛ぶものを見たくて、家につくと窓から紙飛行機を飛ばしてみた。紙飛行機はすぐに水を吸って落下してしまった。ため息をついて窓を閉めようとすると、視界のすみにちらちらと動くものがあった。何かと思って窓の外を覗けば、家の軒下で一匹の蝶が雨宿りしていた。今度は黒の羽に赤い模様だ。やっぱりそれは不気味な様子だったが、黙って雨宿りをさせておくことにした。

2002.12.22