そしてあなたに捧げましょう

 俺が初めて屑桐先輩と出会ったのは一年前の春だった。入学式の日、まだ俺が屑桐先輩のユニフォーム姿も見たことがなかった頃に、その人は中庭の桜の木の下で立っていた。一年前のことなんて覚えていないから何故俺が中庭へ行ったのかなんて覚えていない。そんなことは多分俺が生きていく中で必要がないからだ。余計なことは覚えなくていい。けれど、一年前桜吹雪の中に立っていた屑桐先輩の姿は今でもはっきりと思い出すことができる。春らしい穏やかで霞んだ空気の中、その人の立っていたその場所だけ何かとても神聖な場所であるかのように、そこだけ切り取られた写真のようにはっきりと鮮明に映し出されていた。
 俺はきっと綺麗なものが好きだ。その綺麗、というのは花壇に咲き乱れた花を見て騒ぐ女の子のような、そんな種類の”綺麗”じゃないんだと思う。うまくは言えないけれど一目見て惹かれる美しさ、それが俺にとっての”綺麗”だ。それが必ずしも他人に共感してもらえるものであるとは限らない。俺の主観で綺麗だと思ったものがあればそれは綺麗なもので、そして俺はきっと綺麗なものが好きなんだろう。
 その風景の美しさ(というよりも綺麗さ、と言った方が合っていたと思う)に見とれていただけで、屑桐先輩に声はかけなかった。その時間は五分だったかもしれないし、三秒だったかもしれない。とりあえず見とれていた俺の方をゆっくりと振り返るようにその人はこっちを向いた。何も悪いことをしていたわけではなかったけれど俺はわけもなくドキリとしてすぐにその場を離れようとした。離れようとして、体をひねろうとした。けれど体は動かなかった。振り向いたその人の頬にはただれたような火傷か何かの傷跡が真っ赤に燃えていたからだ。怯えたのか、それともそれですら綺麗だと思ってしまったのかはわからない。頬に釘付けになったまま固まってしまった俺を一瞥して、屑桐先輩はすぐ横を通り抜けていった。

 次に屑桐先輩に会ったのはそれからそう遠くない、高校へ入ってから初めての部活のときだった。それまでに見かける機会もあったけれど(何しろあの傷跡は目立つ)、ちゃんと”会った”といえるのはそれが二回目だった。中学からやっていたし、名門である華武を受験したのだから野球部を選んだけれど、正直そこに屑桐先輩がいたのは驚いた。周りの話によれば結構有名な選手で中学時代も活躍していたのだという。そのとき初めてその人が屑桐無涯だということを知ったのだけれど、確かに名前は聞いたことのある選手だった。
 脱色された髪に先輩達の視線が痛かった。これが人為的なものなのか、はたまた地毛だったのか俺はよく知らない。物心ついたときからすでにこの色だったから他人の反応には慣れている。小学校でも中学校でも友達や先生によく色々と言われた。中学では特に、先輩からの風当たりがかなり強かったように思う。高校では髪を染める生徒が多いからか少しはマシだった。それでも白髪に近いこの髪の色は嫌でも目立っただろう。心なしか普段生活しているときよりも視線がやわらかい気がしたのはきっともう一人の新入生のおかげだった。
 「朱牡丹録、希望ポジションはセンター、趣味はネット気かな(^^)よろしくお願いします(^o^)/」
 髪は黒かったけれど、先輩の視線を集めるには充分だったはずだ。俺の髪とは正反対の真っ黒な肌に、顔には不自然な模様(と言っていいのだろうか)があった。とても背が低く、口調が少し機械的だった。お陰で先輩達の視線が分散して幾分痛くなかったというわけだ。それがそのときの倍あったとしても、俺にとっては関係ないことだったが。
 次、と当時の主将が言った。屑桐先輩は二年の先輩達の中に立っていた。興味があるのかないのかわからないような目で、それでも一応一年の方は見ていた。
 「久芒白春でず」
 髪よりも厄介だったのは鼻炎だ。春には酷くなるそれがいつも邪魔をして、よく人に聞き取りにくいと苛立たれたりする。髪のことは外見上の問題で何も気にしていなかったが、そっちを指摘されると俺自身が否定されているような気分になって嫌になる。その日も鼻は絶好調といわんばかりに詰まっていた。
 「希望ポジジョンはショード。趣味は…特にありまぜん゛」
 適当に出身校やら何やら言って、簡潔な自己紹介は終わった。屑桐先輩はといえばさっさと踵を返して練習へと向かっていってしまっていた。何故か少し残念な気分になって、俺も初練習に向かった。何を期待していたというのだろうか。それから三日間は何も起こらなかった。

 「…おい」
 「はい゛?」
 いきなり屑桐先輩が話しかけてきたのは入部から三日目の帰りだった。散りかけた桜の中では入学式ほどの感動を覚えることはなくなっていたけれど、練習中も気が付けば屑桐先輩を眺めていた。ただそれだけで俺は一度も屑桐先輩に近づこうとはしていなかった。俺は神聖な感じのするものに触れてもいいような人間じゃないと常々自分に言い聞かせていたからだ。人数の多い部活でも髪のことがあるから屑桐先輩が俺の存在を知らないことはないだろう、と思ってはいたけれどまさか話しかけられるとは思っていなかった。妙に緊張して振り向くと、入学式にすれ違ったとき以来の近さに屑桐先輩は立っていた。遠目に見ても屑桐先輩は背が高い。奇妙な圧迫感があった。
 「久芒というのはお前か」
 「え゛?あ、はい゛」
 鼻を垂らすまいと必死だった。
 「教官室に呼ばれてるぞ」
 ああ、そんなことか。また何かを期待していたのかもしれない。わけのわからない落胆と少しの安堵があった。
 「ずみまぜん゛、失礼しま゛すン…」
 昔から直らない口癖を出しかけて思いとどまる。
 「…失礼しま゛した」
 何か、何もしていないのに自分が悪いことをしているような気がして早くそこを離れたいと思った。憧れというのではなく、何か屑桐先輩には近寄りがたい、というよりやっぱり神聖といった感じがあったからだろう。けれどそこを去ろうとした瞬間、もう一度屑桐先輩に呼び止められた。
 「…お前」
 「はい゛?」
 「前に何処かで会ったことがあるか?」
 ドキリとした。一瞬屑桐先輩が何を言っているのかがわからなかった。
 「何で、でずか?」
 「いや、見たことがある気がしてな」
 あるとすれば入学式のときしかありえない。白髪の人間が自分のほうを見ていたのならきっと俺なら覚えているだろう。
 「…多分人違いだと思いま゛ず」
 何故嘘を吐いたのかは今になってもわからない。そうか、屑桐先輩は言った。
 「引き留めて悪かった」
 自己紹介が終わったときと同じように、そのまま屑桐先輩は帰っていった。

 それから随分時が経って、春が過ぎて夏が過ぎ、三年の先輩が引退して秋が来た。その年の夏も例年通り華武高校は埼玉を制覇し、甲子園へ行った。先輩の引退試合もとてもいい試合で、大会を通して良い成績も残せたと思う。
 実力重視の華武高校で既に目立ち始めていた一年も新チームへ移行してからがぜん動きが良くなっていった。俺は一年の中でも優秀なほうだったのだろう。徐々に試合に使われることも多くなり、一軍に入れるようにもなっていた。そうなってくればエースピッチャーである屑桐先輩とも話す機会が増える。屑桐先輩は選手としても先輩としてもいい人だった。そして相変わらず綺麗だった。屑桐先輩は決して完璧じゃない。そりゃあ、野球に関しては欠点なんて見付けられないけれど、人間として完璧な人ではなかった。屑桐先輩と親しくなっていく中で少しずつ屑桐無涯という人物のこともわかっていった。
 屑桐先輩にはいつもからっぽなところがある。入学式の日に一目見たときからそれはわかっていた。だからこそ俺は屑桐先輩を美しい、と思ったのだろう。人間として何か足りないところがある。そしてそれは俺にも言えることだった。何が欠けているのか、きっとそれは誰にもわからない。屑桐先輩に対しても、俺自身に対してもだ。それがわかっていればきっと俺はここまで欠陥だらけの人間じゃなかったと思うし、あるいはそう思うこと自体が俺にとって何か欠けた部分によるものなのかもしれない。
 俺と屑桐先輩に欠けているものというのは多分同じものだった。自惚れかもしれないけれど俺は今でもそう思っている。

 一度だけ、一度だけ屑桐先輩がスランプに陥ったことがある。スランプといっても俺たちから見てもピッチャー陣からしてもその球威ははるかに超越したものではあった。けれど屑桐先輩はどうしても思い通りに球を操れないのだと、そう俺に漏らした。事実調子が悪いというのは感じ取っていた。球威がどうとかそういうことじゃなく、投げられた球に迷いがあった、といえばいいのだろうか。ピッチャーなんてやったことはなかったけれど長年野球をやっているし、入学当時からずっと見つめ続けていた屑桐先輩の球だったからそのくらいは俺にも見抜けた。部内でそれに気付いている人間は一握りしかいなかったようだったけれど。
 「そんな゛ことないング、先輩の球はい゛つでもすごいング…」
 落ち込んだ様子で俺に弱音を漏らした先輩に、俺はそんなことを言ってしまった。屑桐先輩が欲しかったのはきっとそんな言葉じゃなかったのだろう。でも俺にはそれを察することができなかった。
 「ああ…ありがとう」
 相談をして楽になった、というような感じではなかった。どこか諦めを含んだため息を吐いて立ち去っていった。屑桐先輩はきっと孤独なのだ。その超越しすぎた技術故に精神面で支えられる人間がいないのだろう。俺と同じように、きっと欠陥だらけだった屑桐先輩を救える人なんて、多分この世には存在しないのだ。あるいは屑桐先輩も俺に似たような、欠落した部分があることに気付いていたのかもしれない。いつか何処かで失ったものを、屑桐先輩も探していたのかもしれない。だから俺に相談してくれたのかもしれない。けれど俺にはできない。屑桐先輩が何を考えているのか、思うのか、自分には何ができるのか、何もわからない。
 屑桐先輩はとても強い。もしも今まで一人で辛いことも乗り越えてきたというのであれば、本当に強い人だ。だからこそその反面とても弱いのだろう。どこかで挫折してしまえばきっともう立ち上げれないくらい、とても脆い人なんだと思う。儚くて、だからこそ残酷なまでに美しく綺麗なんだろう。そんなことを考える俺にとても腹が立つ。何もできないのに屑桐先輩の美しさにただ見とれているだけの俺が大嫌いだ。できることなら自分が屑桐先輩を守りたいのに。とても弱い人だから。

 結局俺が何をできたということもなく、屑桐先輩は徐々に実力を取り戻していった。球にも迷いは無くなっていた。誰かによって自身を回復させたのか、孤独に自分を奮い起こそうとしていたのか、俺は何も知らない。俺にそんなことを知る資格はない。屑桐先輩の支えになれないのなら遠くから見守っていた方がいい。
 また時が過ぎて新しい春がきて、俺は相変わらず屑桐先輩と親しくしている。先輩に対して何もできない俺を拒もうともせずに屑桐先輩は話しかけてくる。それが辛い。
 何も出来ない俺だけどせめて、夢くらいは見せてあげたいと思う。そのために今日も屑桐先輩の後ろ姿を見つめながらグラウンドに立っている。そのくらいしか俺に取り柄はないから、せめて屑桐先輩の夢だけはつなぎ止めておきたいと思う。いつか支えになれる日を夢見ながら。

2003.1.28