IT’S NEW

 随分と日が長くなってきたとはいえ部活の帰りはもうすでに暗くなっていることがほとんどだった。あと一ヶ月足らずで夏至だとはいえ、陽が落ちてしまえばまだまだ肌寒い気候だったし、一度暗くなり始めた空はありえない速さで黒に染まってしまう。
 その日も部活が終わる頃には辺りが見えにくいほど暗くなっていた。キャッチボールの相手の顔が辛うじて見える程度の明るさだ。グラウンドを強いライトが白く、あるいはオレンジで照らしていた。
 県内トップというからには日頃からキツい練習はこなしていたけれど、四月に入ってからは特に熱が入っているように思う。高校でも中学でもどんな種目でも大概はそうだ。三年生がいるというだけで部活というある種の集団は急に意味を帯びてくる。そして冬休みの前後から、それは学校全体の雰囲気へと変わっていく。むしろ飛び火と言うべきかもしれない。引退とか卒業とか、最後が迫ると人は急に苦しいことだって何だって惜しいと思うようになるのだ。失って初めて大切なものがわかる、とかそういうことにきっと似ている。少しずつ当たり前という日常が自分から離れていくのだ。当たり前という定義が離れていくことは自分の存在意義の否定にも似ていると俺は思う。
 だがそんなことを色々と考えてみたところで俺はまだ二年になったばかりだし、今は一年間で一番嫌いな季節だった。慢性的な鼻炎に花粉症までついてくるときた。正直ランニングだけで呼吸困難に陥りそうだった。人には一年にひとつくらい苦手な季節というものがある。夏が嫌いだと言う奴もいれば十一月が嫌いだと言う奴もいる。冬休み前が嫌いだと言う奴、新学期が嫌いだという奴。季節といっても分け方なんて案外いくらでもあるものだ。そして俺は花の咲く季節が嫌いだった。花は一年中咲いているが、特に春の花は嫌いだ。桜以外は大嫌いだ。

——偉いっすね〜久芒さんは。
——御柳?
——鼻水ツラいんならサボりゃいいんすよ。
——どこ行ってたング?ずっと屑さんが探しングしでた。
——いやあ、ちょーっと屋上で授業サボってたらいつの間にかこんなに暗くなってんでビックリってやつですね。
——もう部活終わりング。
——屑桐さん怒ってました?
——当たり前ング。
——マジっすか。どうしよ。
——お前、別に困ってねぇべ?

 御柳が真面目に部活に出るのは週に半分あるかないかで、それでも実力があるから監督や他の二、三年も目を瞑っている。桜花さんもそうだけれど、ここはとにかく実力重視なのだ。努力とか何だとかそういうのは関係なくて、実際試合で使える人間だけが上り詰めていく。そういう場所なのだ。
 正直なところ俺は他の部員より少しは抜き出ているし(一応これでも一軍だ)一年生に一人頑張っている奴はいるけれど今のところポジションも安定している。つまりこのチームの中で俺は実力のある人間に分類されるわけだ。自惚れでも何でもなく客観的に言えばそういうことになる。
 ある特定の事柄に秀でているからといってその人物が優秀であるとは限らない。優秀な人間というもの自体きっと存在しないし、つまり何か特定の事柄(ここでは野球ということになる)を設定して初めて人の優劣はつけられることになる。大きな範囲で言えば金持ちか貧乏か、地位の上下、そういうところだ。人に優劣をつける意味があるのかとかそういう話には興味がない。事実人間は不公平で不平等に創られている。俺が鼻炎で少し生意気な後輩がそうでないように。

——まあいいや、それより先輩今日ちょっと付き合ってくれません?
——何に。
——いや今日ね、何か知らねえ女に呼び出されたんすけど先輩と約束あるからって言っちゃったんすよね。だから、既成事実を作らないと。
——女子は大事にぜえって桜花のおやっさんが言ってたべ。
——だから嘘つきになっちゃ駄目っしょ?嘘つく男は最低っすからね。じゃあ俺校門で待ってますんで。
——・・・別に部室でいいング。
——屑桐さん怖いじゃないっすか。じゃ、そゆことで。

 そういうわけで既に真っ暗となった空の下、一人で校門に向かうことになったわけだ。どうせならと録を誘ったけれど、今日は家の手伝いに忙しいとか何とかでさっさと帰ってしまった。俺だって帰りたい。世の中は常に不公平だ。

 御柳は遅れてやって来た。校門で”待っている”はずの御柳が何故遅れてきたのかはわからない。コンビニにでも行っていたのかもしれないし、途中で屑さんに会ってしまったのかもしれない。どうでもいいことだ。
 「で、どこ行くべ?」
 「俺腹減りました〜」
 「お前の奢りなら食べに行ってもいいング」
 御柳は少しの間思案した。その間俺は暗くなった空を見ていた。昼間からありえなく晴れていたはずなのに月は見当たらなかった。新月か、あまりにも細い月か、きっと今日の月は満月とはほど遠い月なのだろう。新月は昼間に昇るから俺は多分実際に新月というものを見たことがない。もしも新月が夜に昇るものだったとしたら、俺は新月を見ることができるのだろうか?そんなはずはない。そんなことがありえないというのもあるし、暗い空に暗い月を見つけられるはずがないというのもある。月は自分で光らないから、自分の存在する場所を誇示することができないのだ。
 結局小遣いが無くてヤバいと御柳は何か食べに行くことを諦めたようだった。俺は腹も減っていないから金を払う気などさらさらなく、行く宛を失くした俺たちはぶらぶらと駅までの道を歩き、途中の公園に立ち寄った。
 公園ほど昼と夜の差の激しい場所はないと思う。昼の公園はまるでその街の平和の象徴だ。木々の間から光が差し込み、子供が遊び、鳩が集まり放課後の学生も集う。高齢者の憩いの場にもなる。海の向こうで戦争が起こっていると信じられなくなるのはそういう風景を見たときだ。夜になると公園は不気味な空間を演出しだす。切れかかった水銀灯にぼんやりと照らされるすべり台、ブランコ、砂場。たまにベンチに座るカップルのどこか低い話し声、浮浪者、例えばそういうものだ。公の園と書いて公園だが、あまりにも範囲が広すぎて内容が多種多様で、なるべく公園には来たくないとすら思う。新月の夜なんて尚更だ。
 「可愛がったの゛か?」
 途中で買ったジャーキーをかじりながら何が、と御柳は言った。
 「いや」
 呼び出してきたって女だと言うと実に興味無さそうに答えた。人の質問にこんなにも興味を持たずに答える奴を俺は他に知らない。
 「可愛けりゃわざわざ先輩なんか誘いませんって」
 興味が無さそうにしては割と正論だと思った。別に硬派な奴ではないし、こんな新月の夜の公園に白髪でロングマフラーを巻いた男と来るよりは可愛い女の子に告白でも何でもされていたほうがいくらかマシだろう。ましてや今は春だ。限りなく夏の近付いた春だ。
 「めんどくせぇっすよね」
 黙ってジャーキーをひとかたまりもらった。何か言いたげな顔を向けられたがそれも無視した。諦めたように自分も袋から新しいかたまりを取り出してかじった。八重歯が覗く。
 「生きるのってめんどくさくないっすか?男とか女とか金とか地位とか名誉とか」
 「考えるのは面倒くさいと思うング」
 「考えるって?」
 「色々」
 そこまで言って御柳が金持ちだったことを思い出した。金持ちは何も考えていないのだったと思い出した。金持ちになるためには頭が必要だが金持ちであり続けるためには何も要らない。けれど、俺は思った。けれど、金持ちはこいつの父親であってこいつでは無い。つまりそれは、つまり。
 「生きるだめには、色々考え続けんといけねぇべ」
 「まあね。どうせ死ぬっていうのにねぇ」
 「でも五十年は生きねぇと駄目ング。考えながら五十年生ぎるのは何も考えずに五千年生きるよ゛り疲れるング。そうだべ?」
 「そりゃそうっすね」
 でも脈絡ないっすよ。興味がなさそうだったのでそれ以上喋るのはやめた。

 空には雲ひとつなかった。空が暗いから見えないだけだったのかもしれないが、それでも空に雲はなかったと思う。月の光が無くとも街の照明で夜の空は見えないものでなくなったし、それに負けじと輝く星もいくつかは見つかった。両手で数えきれそうな程度の星だった。
 星が見えるのに月が見えないというのは何かしら奇妙なものだ。空はある。雲はない。暗い。星もいくつかは輝いている。けれど月が無い。
 新月とか満月とか、そういう夜には人が狂ってしまうのだという。科学的な証明はどこかの学者が励んでいたように思うが、そんなことはどうでもいい。証明するしないに関わらず、月によって狂う人間がいるという事実があるのならそれはそれでいいと思う。
 もしも新月や満月の夜に人が狂ってしまうというのが本当だとすれば、自分はどちらに狂うのだろうか。ふと隣を見遣ると御柳は俺と同じように空を見上げていた。きっと、こいつは満月の夜に狂うタイプだと思う。
 「帰りません?」
 暗い公園は俺たちが去ってしまうと、木も草もブランコも何もかも闇に紛れてやがて闇だけになってしまった。

 御柳は別れを言うや否やさっと人混みに紛れていった。あまりにも自然に溶け込んでしまったので今までそこに御柳がいたということすら忘れそうだった。夏への最後の抵抗と思われる風が吹き抜けた。次の新月にはもう春は終わっているだろう。暗い空をもう一度仰ぎ、帰路に着くべく右足を踏み出した。
 きっと俺が狂うとするなら、こんな新月の夜だろう。

2003.9.24