もちろん、俺は否定しようとは思わない。肯定するわけでもないけど、でも否定をするだけの根拠など俺は持っていない。だから認めようと思う。世の中は腐っている。
だが俺にはそんなこと関係ない。この世界にいられる時間はそんなに残っているわけではない。
俺が何も考えていないように見える?実際、何も考えていないのかもしれない。眠っているときも、野球してるときも、こうやって行き先もなくふらふらと歩き回っているときでさえ、俺は何も考えていないのかもしれない。
考えるべきことなど、病院のベットの上で全て考え尽くした。俺に残されているのは、僅かな野球人生と可愛い妹の未来だけだ。
そしてそこに俺の未来はない。
TIGHTROPE
授業中の学校はやけにひっそりとしている。机に向かっている生徒が皆黙って授業を受けているわけではないことはわかっているけれど、基本的に授業中の学校は静かだ。新築の、学校にしては些か綺麗すぎる建物を見上げて思った。まだ中には一学年しかいない。
なかなかの当たりくじを引いたもんだ、と思った。野球をするためにだけ、壊れかかった体を鍛え上げて騙し騙しなんとか病院から抜け出すことに成功したが、野球をするためだけに通うはずの学校を新設の私立高校にしたのは一種の賭けだった。名門のチームで此処を制しても意味がないと思った。
俺たちは成り上がりだ。大それた歴史などない。そもそも必要がないのだ。歴史だの伝統だのというものは。必要なのは実力のみであり、自分たちの勝利は結局のところ自分たち自身で掴み取るしかない。
幸いなことに、チームメイトに恵まれた。人間としてはあまりに個性的で、最初は普通に合わない、と思った。だが悪い奴らではなかったし、何より野球の実力は本物だった。それは疑いようのない事実だ。決して幸運とは言えない俺の人生の中で、これだけは自身を持って言える。ここへ入ったのは幸運だった。
校舎を見上げそんなことを考えていた。この校舎を見上げると、何故か色んなことを考え込んでしまう。考えるのは、あまり好きじゃない。頭が朦朧として立ったまま眠りそうになった。別にそのまま寝てもよかったけれど、立ったまま寝るのもあまり好きじゃない。どこかのベンチか何かに場所を移そうと眠気に重い体をなんとか動かし、振り返ったときだ。
見慣れたヘアバンドと明るい髪が目に入った。
「霧咲か?」
なんともなしに声をかけると、一瞬動きを止めてゆっくりと振り返った。今日もひどいクマだなぁおい。
「なぁんだ、あんたも遅刻?」
笑って言う俺に笑い返すでも言葉を返すでもなく、こっちを見たままくわえた煙草をゆっくりと唇から外した。その唇からと離された煙草の先端から濁った煙が立つ。
「煙草なんかやめたほうがいいんじゃない」
すこし気分が悪くなったが俺は笑ったままでいることにした。
「説教、無意味」
霧咲は、いつも必要最低限の単語しか話さない。
「いやいや、肺悪くするから、マジで」
「世話、不要」
霧咲が話すのは単語というより熟語だったから、よく考えてみれば霧咲はとても頭が良いのかもしれない。自分の伝えたいことをすぐ熟語に置き換えられるのはある種の才能と言ってもいいだろう。国語の語彙のテストなんかはすごくできるのかもしれない。きっとたくさん話すのが面倒だからそんな話し方をするのだろうが、普通に会話をするほうがはるかに単純で簡単で手軽だと俺は思う。
「俺なんかそんなもん吸ったら即あの世行きだろうなぁ」
なるべく自然に、冗談めかして言ったつもりだった。
「・・・」
霧咲の沈黙は珍しくはないが、このときは少しばかり居心地が悪かった。俺が気にしすぎただけだろうか。
「用事、帰宅」
「おう、まったねぇ」
来たばっかりなのに、と笑ってももう霧咲は遠くへと行っている。
多分霧咲は、俺の体が健康でないことなどとっくに気付いていただろう。霧咲がそのことについてどう思っていたのかは知らない。何も思っていなかったのかもしれないとすら思う。
それが優しさなのか、残酷さなのか、それは俺が決めてもいいことなのだろうか。
息を吐くたびに目の前が白くなった。風が冷たくなってきたかと思えばすぐに十二月が来て、期末テストとクリスマスが駆け抜けて知らない間に新年を迎えていた。白く見える息は、俺が生きているという証だった。
凍るような空気はそのまま肺をも凍らせてしまいそうだった。あるいはもう、凍っているのかもしれない。白い息をぼんやりと見つめる。いや、まだだ。まだ凍っていない。
俺は今、冬が怖い。
「最近調子悪いわね」
そう紅印に言われたのは正月休みが終わって三回目の練習のときだった。気のせいかしら?ほんのちょっと球威が落ちてる気がするのよ。寒いからまだ体がほぐれてないんだろう、笑って流した。
「俺にだって調子の悪いときぐらいあるよ」
それもそうね、紅印はいつでも俺を尊重してくれた。
白い息で霞む校舎を見上げた。何度見ても『学校』というもののイメージとはかけ離れている。この建物が新しすぎるからだろうか。それとも、俺の先入観が古すぎるのだろうか。
有意義に、あるいは無意味にまた日々は過ぎ去り、二月を迎えていた。寒さは最後の悪あがきをしていて、なかなかにしぶとかった。
ふと、覚えのある臭いがした。
「・・・霧咲か」
数ヶ月前と同じように、振り向くとそこには霧咲がいた。相変わらずクマを作り、相変わらず煙草を吸っていた。
「君はいつでも煙草吸ってんだねぇ」
飽きないの?あれ以来、なんとなく煙草について何かを言うのはやめていたのだけれど。
「習慣」
ああ、そう。校舎を見上げた。一体この中の何人が自分の生と向き合ったことがあるというのだろう。凍り付くような寒さの中の真新しい近代的な校舎は一層無機質に感じた。
俺は呟いたきり何も言わなかった。何故かこの校舎を見ると泣きたくなる。冬の所為かもしれない。
「・・・」
「え?」
霧咲が何かを言った気がした。何?と目で問う。
「恐怖?」
何のことだかよくわからなかった。
「何が?」
「死」
ああ。霧咲は単語しか話さない。それも意味を凝縮した熟語しか話さない。だからだろう。霧咲と会話をするのは難しいのに霧咲の言葉はこんなにも直球だ。
「俺が、死ぬのを恐がってるって?」
霧咲は、無駄にまっすぐと俺を見て頷いた。霧咲の眼光は鋭い。そして無機質だ。霧咲はまばたきをしなくても大丈夫なのかもしれない、と思った。霧咲はまっすぐに俺を見ていた。
何故。俺は思った。何故、霧咲なんだろう。何故霧咲には見えるのだろう。他人に興味などほとんど示さないくせに、何故見えるのだろう。
その視線に耐えきれず、目を反らした、俺の負けだった。
「・・・死ぬのが恐いわけじゃないよ」
声が上擦らなかったのがせめてもの救いだったかもしれない。ちらりと霧咲を盗み見ると全く表情も変えないでこちらを見たままだった。せめてまばたきでもしてくれ。一度でいい。俺はまた目を反らした。
「ただ、まだ早いんだよね」
校舎を見上げた。泣きたくなるのは何故なんだろう。
「俺らには夢があるでしょ?中途半端にはしたくないからね」
そのまま、しばらく沈黙が続いた。空は曇っていて、空気は冷たく、今にも雪が降り出しそうだった。
口を開いたのは霧咲だった。
「強者」
「・・・え?」
「覚悟、勇気必要」
強者、もう一度霧咲は言った。
覚悟、というのは野球に対してだろうか。それとも死に対してだろうか。何にせよ、霧咲から勇気なんて言葉が出てきたことに少し驚いて、俺を強者と言ったことにもっと驚いた。嬉しかった。
「強いわけじゃないけど」
今度はちゃんと、霧咲の目を見た。
「まぁ頑張るよ」
霧咲も目を反らしたりはしなかった。
「共闘」
イイ奴だ、と思った。
それから一年と少しが経って、俺達は三年になった。これまでそれなりの好成績を残してきたし、県内の二強と謳われるようにもなった。最後の夏がもうすぐ来て、俺は綱渡りのような野球人生を終わらせようとしている。いつ壊れるかわからない体を抱えてでも、果たすべき夢があった。病院のベットで見たとても遠い遠いテレビの向こう側、そして何よりも遠かった病院の窓の向こう側。
「霧咲〜新しい味でてたよ」
「・・・感謝」
霧咲はあれ以来煙草をやめた。本当に、何の依存もなかったのだろうかと思うほどあっさりとやめ、でも少しは落ち着かないらしく飴をなめるようになった。
「さぁて、今日も頑張りましょ」
何も言わず、表情一つ変えず、でも霧咲はしっかりと頷いた。
最後の夏が近い。たとえ腐っていたとしても、世界は強い日差しに照らされて輝いているように見えた。あとどのくらいの時間戦えるのかはわからないけれど、未来には俺は居ないかもしれないけれど、今できることを精一杯やろうと思った。命よりも大切なものが俺にはいくつもあった。