グッド・モーニング
目が覚める前の、夢とも現実ともつかないような浮遊した意識は香ばしい香りに現実のほうへと引っ張られた。薄く目を開くともう明かりは点いている。窓から差し込む日差しで今日は天気がいいのだと知れた。今は、というべきかもしれないけれど。
「あら、目が覚めたの?」
おはよう、と落ち着いた声がした。
「おはよう、ロビン」
体を起こして大きく伸びをした。ロビンはもう身支度を終えていて入り口側のソファに座って本を読んでいた。ロビンはあたしより遅く寝て早く起きる。
「いいにおいね」
洗面台で顔を洗い、隣の棚にあるコーヒーメーカーに近付く。始めこの部屋にはティーセットしかなかったけれど、乗り込む前に街で簡易なものを買ったのだ。サンジくんはコーヒーを入れるための道具をたくさん薦めてくれたけど、それはキッチンにさえ一式揃っていればいいと思った。頭が起きる前に細々とした作業をする気にはなれなかったからだ。
「昨日サンジが新しい豆を挽いてくれたのよ」
おいしかったわ。サンジくんはあたしやロビンが口にするものにはいつも徹底的に気を遣ってくれる。ソファに座るロビンとコーヒーを入れるあたしはちょうど背中合わせになって会話をした。ロビンも飲む?いいえ、私はもう飲んだから。
ロビンの口から出るサンジ、という言葉にはもう違和感を覚えなくなっていた。エニエス・ロビーの一件からロビンはあたしたちを名前で呼んでくれるようになった。コックさんじゃなくてサンジ、船長さんじゃなくてルフィ、航海士さんじゃなくてナミ。はじめはみんな慣れなくてちょっと照れたように、でも嬉しそうに返事をした。あたしも嬉しかった。あたしたちとロビンの間に長いこと存在した壁が崩されたのだと知れたから。
一人分のコーヒーを入れてロビンの向かいに座った。ほんと良い香りね。一口啜ると程良い苦みが口いっぱいに広がり、その風味が鼻腔をくすぐった。朝の一杯だけはブラックで飲む。アーロンパークにいた頃の味気ないインスタントコーヒーから。あたしはけっこう朝に弱い。男たちにはそんなところは見せないけれど。だから朝のあたしを知ってるのはロビンだけ。でもあたしはロビンの朝を知らない。
時計を見ると8時を回ったところだった。朝食は毎日9時からだ。
「次の島まではあとどのくらいかしら」
「うーん、まだ気候が安定しないからしばらくはかかりそう」
今日は何を着ようかしら。前の島を出る前に大量に買い込んだ服をひととおり頭に描く。今日のロビンは黒いワンピースに黒いブーツ。ロビンは基本的に黒い服を着る。あたしはあんまり黒い服は着ない。黒い服に慣れているからかもしれないけれど、ロビンにはやっぱり黒が似合うと思う。手入れの行き届いた黒髪を見て少しだけうらやましくなったりもする。あたしは自分の髪の色は嫌いじゃないけどちょっとだけ服を選んでしまうからそれが悔しい。たとえば深いグリーンのドレスなんかはあたしには似合わない。
飲みかけのコーヒーを一旦置いてクローゼットに向かう。あたしの服はロビンの服よりも多い。あたしは安めの服をたくさん買って使い捨てるように着る。特に流行ものなんかは。ロビンはブランド物のベーシックな服を大切に着回す。
半分より少し広いあたしのスペースから半袖の黄色いロゴTシャツとカーキのショートパンツを選んだ。なんだかんだで動きやすさが最優先。
「そういえば昨日チョッパーがね」
着替えを終えてソファに戻り、コーヒーカップを手に取った。
「何か新しい小説が読みたいって言ってたわ。ロビン何か貸してあげてよ」
いいわよ。チョッパーは医学書や理系の文献には精通しているけれど文学には疎かった。図書室にはありとあらゆるジャンルの本が並んでいるけれど半分はロビンのもので、誰でも自由に読んで良いとロビンは言うけれど数が膨大すぎてどれから手をつければいいのかわからない、とチョッパーは言っていた。
コーヒーは良い具合に冷めてきていた。入れたての熱すぎるのはちょっと苦手だ。最後の一口の冷め切ったのはもっと苦手。体温よりちょっとだけ高い温度のコーヒーはあたしの脳を目覚めさせてくれる。サンジくんの入れてくれるコーヒーは始めからあたし好みの温度だけれど、安物のコーヒーメーカーではちょっとそれが難しい。
冷め切らないうちに飲み干してドレッサーに移動する。置いてある化粧品の量はクローゼットとは逆であたしのが少なくてロビンのが多い。あたしはアイメイクに力を入れるけどロビンはベースに気を遣う。初めてあたしのポーチを見たときロビンは十代の頃を思い出すと言ってふんわりと笑った。自分がまだ小娘なのだと思い知るのはそういうときだ。ドレッサーに並ぶロビンの化粧品はどれも高級メーカーのものだ。
洗顔の直後の化粧水と乳液がいい頃合いに肌に馴染んできていた。日焼け止め入りの下地をまんべんなく塗り、パルガントンのパウダーをはたく。ファンデーションは二十歳になるまで使わないと決めているからベースはこれで終わり。それからビボのペンシルアイライナーで睫毛の隙間を埋めていく。上は目頭から目尻まで、下は粘膜に三分の一だけ。次はシャドウ。何回もリピートしてるブルジョワのエフェ・ルミエール41番。定番だけどやっぱり発色がいい。右端の明るい色をアイホール全体に、左端の濃いブラウンを目のキワに。そして真ん中のブラウンをまぶたに乗せて、指で軽くぼかす。それから涙袋にもブラウンを。そしてマジョリカマジョルカのネオオートマティックライナーBK999で目のキワをなぞる。切れ長すぎてもたれ目すぎてもいけない。真ん中で少しだけ太くするとぱっちり丸い目に仕上がるのだ。
そういえば、ラインを引きかけた手を止めてロビンを振り返る。このライナーもずっとリピートしてきたけど、最近ロビンの使ってるボビィブラウンのジェルライナーが気になっていた。
「ねえロビン」
入り口側のソファに座るロビンはドレッサーの鏡には映らない。
「なあに?」
「ジェルライナーって引くの難しい?」
そうでもないわ、ロビンは言った。
「始めは使いにくいけどすぐに慣れると思うわ、あなたは手先が器用だもの」
やってあげましょうか、ロビンはそう言って本を置き、立ち上がった。
「いいの?」
「ええ、きっと気に入るわ」
ポーチから黒い蓋の丸い容器と筆を取り出し、あたしの横に立って鏡をのぞき込んだ。ロビンのいい匂いがした。ロビンはメンズの香水を使う。あたしは香水が苦手だけれど、ロビンのものは嫌いじゃなかった。
「どんな風にしたいの?」
あたしはいつもの引き方をロビンに教えた。
「あなたは目が大きいものね」
人差し指と中指の間に筆を挟んだままジェルの蓋を開け、ロビンは言った。
「こうやって筆にちょっとだけライナーを乗せてね」
あたしによく見えるように微量のジェルを筆に乗せた。
「少しずつ引いていくのよ。乾燥すると粉が落ちるのが難点ね」
でも滲まないからお化粧直しは楽よ、あたしの目のキワに少しずつ黒が乗せられて、鏡との間にロビンの細くて長い指がちらちらと揺れた。ロビンは全身のどこにも無駄がない。爪の先まで計算され尽くしたその姿は神様の造形物みたいだ。アダムのわき腹から作られた最初の女性のような。
「下にも引く?」
「下はいらないわ」
化粧を覚えたての頃は下にもきつくラインを引いていたけれど、ケバくて逆に子供っぽく見える気がしてやめた。
「できたわ」
「ありがとう」
ロビンの手で引かれたラインは寸分の狂いもなく綺麗で、いつもより少し大人に近付いた気がした。
ソファに戻るとロビンは本の続きを読み始めた。ロビンはいつも本を読んでいる。専門の考古学関係のものだけではなく、それはあるときには物語だったし、あるときには自然科学関係の専門書だったりした。ロビンは何でも知っている。あたしも本を読むのは好きだし色んなジャンルのものを手に取るけれど、ロビンに比べると世界中の海と25mプールくらいの差がある気がした。
「ロビン、何読んでるの?」
「死に方の本よ」
ロビンの表情は鏡を見てるあたしにはわからない。
「死に方?老衰とか溺死とか?」
「ちょっと違うわね。著名人の死の間際のエピソード集みたいなものよ。だから死に方の本でもあるし、生き方の本でもあるわ」
「こんな晴れた朝には似合わないテーマね」
マスカラに手を伸ばしながら言った。マスカラに関しては最近浮気気味だった。昔はずっとデジャヴュのファイバーウィッグを使ってたけど、海の上で生活するには向かなかった。いつシケが来るかもわからないグランドラインでは特に。今はメイベリンのボリュームエクスプレスとワンダーカールマスカラを重ね付けしてる。もちろん両方ウォータープルーフ。これで満足してるかと聞かれればノーだった。やっぱりロング系も使うべきかもしれない。地睫毛も決して短い方ではないけれど、もっと、と思うのが人間の性だった。
「ロビンってマスカラどこのだっけ?」
ドレッサーの上には見あたらなかった。きっと化粧ポーチの中だろう。
「ランコムよ」
「ランコムいいらしいわね。そういえばビビも使ってたわ」
ロビンと入れ替わりにゴーイングメリー号を降りた王女のことを思い出した。ビビとは年も近かったし何でも話せる仲だったから、始めはビビのベッドにロビンが眠ることに抵抗を覚えたりもした。今ではあたしはロビンに何でも話す。同年代の子と話すほど盛り上がることはないけれど、ロビンはいつも的確なアドバイスをくれるからあたしはついそれに頼ってしまう。ロビンは今でもあまり自分のことは話さない。あたしが小娘だからなのか、もともとロビンが秘密主義だからなのか、たぶんその両方だろう。
あとはオレンジ系のチークを丸くぼかし、アイブロウ代わりの薄いブラウンのシャドウで眉を描く。チークもブルジョワ、ブラッシュパステルジュの72番。色は悪くないけど付属のブラシが使いにくいから別で買ったものを使っている。リップにピンクのグロスをのせて、最後に眉周りの産毛を抜いてできあがり。時計は8時40分を指していた。
ソファに戻るとロビンが顔をあげた。
「早いわね」
「ずっと変えてないから慣れちゃったのよ」
それにあたしはそんなに化粧が濃いほうではない。濃さと時間は比例しないけれど、めやすにはなる。
「ロビンはいつもどのくらいかかるの?」
あたしはロビンが朝化粧をするところを見たことがない。あたしが起きた時にはロビンはいつものロビンだ。
「さあ…1時間はかからないけれどあなたよりは長いわ」
眠る前にだけ見るロビンの素顔は綺麗だ。目も大きいし鼻も高い。肌にもハリがある。でもロビンは自分の造りをよく知っていて、それを最大限に生かせるメイクを施すからやっぱり化粧をしているロビンはもっと綺麗だ。化粧は女の武器なのだ。
「ねえ、もうダイニングに行かない?」
「ええ、そうね」
あたしが立ち上がると死に方の本にしおりを挟んでロビンもそれに続いた。今日の朝ご飯は何かしら、大食漢が多いせいで朝からちょっとした宴会料理のような量のお皿が食卓に並ぶこの船のダイニングを想像しながらあたしたちは部屋を出た。