KISS ONLY ONE LADY
ダイニングの喧噪が収まり、ルフィとウソップは何やら騒ぎながら甲板へと飛び出し、フランキーは自室へ帰りゾロは昼寝のために展望室へ、ナミさんはログポースを確認してからたまっている海図を描きに測量室へと向かった。気持ちいいくらいに平らげられた皿の山を運ぶ俺をチョッパーが手伝ってくれる。いつも悪ぃなと言うとチョッパーは笑う。いいんだ、サンジの料理はほんとにうまいからな。可愛い奴だ。皿を半分くらい運び終えたときルフィとウソップがチョッパーちょっとお前も来いよとダイニングに向かって叫んだ。いいぜチョッパーお前も遊んで来いよ、言うといいのか?とバツの悪そうな顔を俺に向ける。ああ、もう十分助かったからな、チョッパーは頷いて勢いよく甲板のほうへ駆けていった。キッチンでは俺たちの運んだ皿をたくさんの手が手際よく洗っている。ダイニングに残って読書をしているロビンちゃんのものだ。
時計を見ると1時を少し回ったところで、3時のおやつの準備をすれば束の間の休憩がやってくる。基本的に俺は忙しい。人数に対するコックの忙しさは他の海賊船にはちょっとやそっとじゃ負けない。朝起きて朝食の準備をし、朝食を食わせて片付け、昼食の仕込みをする。昼食が終わればまた片付けておやつの用意、夕方から夕食の仕込みをしてだいたい7時頃から食べ始め、大概は宴会となるので終わるのは日付が変わる少し前くらいだ。酔いを醒ましてから祭の後片付けをし、朝食の仕込みをしていると夜食や寝酒を求めて来るクルーが何人か。そいつらが寝た後にようやく俺は男部屋へ向かう。平均睡眠時間は3時間ってとこだ。
今日のおやつは季節の果物を使ったジェラート。手間はそうかからない。季節の果物といってもこの海には季節などあってないようなものだから前の島で手に入ったもの、という意味だ。人間が言語を使うようになってからずいぶんと時間が経つが、その間に言葉は実に様々な意味を派生させている。
ジェラートを作りながらキッチンで黙々と作業を続ける手を見遣る。つくづく便利な能力だと思う。ダイニングを振り返ると手の支配者であるロビンちゃんは俺が淹れた食後の紅茶を片手に悠々と本のページをめくっていた。便利な能力だが俺には使いこなせないな、と思う。俺は読書をしながら皿を洗えるほど器用じゃない。
食器類が綺麗に片付いた頃ジェラートを冷凍庫にしまい、ロビンちゃんに礼を言って俺は甲板に出た。ルフィとチョッパーが駆け回り、ウソップといつの間にか部屋から戻ってきていたフランキーが何やら議論している。議論というよりはフランキーのウソップに対する講義と言った方が適切かもしれない。そんなクルーたちを見るともなしに見ながら煙草に火を点けた。俺はヘビースモーカーというよりはチェーンスモーカーで、十代の初めから続く依存は早速抜け出せそうもない。煙草ってのは実に厄介なもので、別に吸ったからといって快楽が得られるわけではなく、むしろ吸いすぎると吐き気にも似た倦怠感が訪れることもある。だが吸わなければ冷静な判断力や当たり障りのない人付き合いなんてものに支障をきたす。それが怖くて俺は次から次へと火を点ける。そのうち煙草が体の一部みたいになって、手元や口元がさみしくなりつい次の一本へと手が伸びる。もはや病気だ。
「私もご一緒していいかしら?」
手すりにもたれてぼんやりしていると後ろから声をかけられた。振り返らなくてもわかるが振り返ると案の定そこにはロビンちゃんが立っていた。
「もちろん」
ロビンちゃんはほとんど煙草を吸わない。ときどき思い出したようにシガレットケースを取り出し、黒くて細長いターボライターで落とし物を拾うみたいにして火を点ける。煙草をはさむ華奢な指先も紫煙を吐き出す唇もすべてが官能的で艶やかでぞくぞくする。俺は煙草を吸う女はあんまり好きじゃないが、煙草の似合う女は大好きだ。それにしてもロビンちゃんには煙草が似合いすぎる。俺は少し不安になる。何事にも節度ってものがある。
ロビンちゃんがライターを取り出す前に俺は自分のライターに火を点け、どうぞ、と風で火が消えてしまわないように手を添えて差し出した。ロビンちゃんは一瞬少しだけ目を大きくしてすぐに細め、ありがとう、とふんわりと笑った。気が狂うかと思った。
「紳士なのね」
火に近付くためロビンちゃんは少し屈み、少し目を伏せる。その睫毛があまりにも長く密であったので俺は息をのんだ。ロビンちゃんは完璧だ。
ロビンちゃんの吸う銘柄は様々だったが、どれもスリムでロングタイプのメンソールだった。イメージ通りすぎて退屈なくらいだ。俺はもともとメンソールが好きで、でも男がメンソールを吸うとインポになるなんて俗説に未だに耳を塞げず普段は吸わないでいる。たまに吸いたくなったときにロビンちゃんにもらうことがあるが、何せロビンちゃんの煙草はタールが少ない。吸った気がしないから今では島に降りたとき1カートンだけ買うようにしていて、常に少しだけ持ち歩いている。
ウソップとフランキーはいつの間にかいなくなっていた。新しい武器でも作りに行ったのだろう。代わりにゾロがトレーニングを終えて芝生の上で眠っていた。ゾロは常にトレーニングをしているか寝ているか酒を飲んでいるかのどれかだ。
「のどかね」
ロビンちゃんが言った。
「たまにはいいんじゃない?」
グランドラインではこんないい気候が長続きすることはまずない。
「この船にいるとね」
細い指先がとんとん、と灰を落とす。白い灰は穏やかな風に乗ってすぐに見えなくなった。
「ここがグランドラインだってことをたまに忘れるわ」
「確かに」
「そんなこと今までなかったから」
そう言ってまた煙草を銜える。この船にロビンちゃんが乗り込んだときには考えられないようなくつろいだ表情だった。
「ロビンちゃんはグランドラインに入って何年になるの?」
そうねえ、そう言って煙を細く吐き出す。
「もう、5年になるわ」
少しだけロビンちゃんの表情が曇った気がして、俺はあわてて話題を変えた。
「煙草はいつから吸ってるの?」
いつだったかしら、遠くを見るように目を細めた。
「十代の中頃かしらね」
ずいぶん遠い昔のことよ、とロビンちゃんは笑った。なんだか自嘲的だった。
「十代の頃は年上に見せようと必死だったのよ」
「ロビンちゃんが?」
「子供でしょう?」
ふふ、と笑って俺を見る。
「俺と一緒だ」
そう言って笑うとロビンちゃんもまた笑った。俺も早く大人になりたくて煙草に手を出した。煙草を吸ったくらいでは大人になれないことくらいわかっていたのに。
「私も十代の頃はただの小娘だったのよ」
想像できないな、短くなった煙草を捨てた。俺には十代のロビンちゃんなんて想像もできなかった。ロビンちゃんには二十代の俺なんて見えたりするんだろうか。でも二十代の俺なら俺にも簡単に想像がつく。何せ数ヶ月後には(このまま無事で生きていればの話だが)俺は二十代の扉を開くことになっている。今と何ら変わりのないハタチになった俺なんて想像しなくても見える。
「あの頃は必死だったから」
ロビンちゃんが昔の話をするのは割と珍しいことだった。
「生きるためには何でもやったわ」
「男と寝たりも?」
「必要があればね」
そう言ったロビンちゃんの横顔を見て適わないな、と思った。ナミさんを見ていると守ってやりたいと心の底から思うのに、ロビンちゃんに対しては畏れ多くてそんなこと絶対に言えない。ロビンちゃんは強くて、もちろん戦闘力的にもそうなんだけど、それだけじゃなく強くて、何よりも大人で、俺は19のガキなんだってことに嫌でも気付かされる。
少し自己嫌悪を覚えた俺は煙草のない自分がよけいガキに見えて(そんなところがバラティエにいた頃とちっとも変わってないことによけい嫌気がさして)新しい1本を取り出した。メンソールだ。これは最近出会った中では一番のお気に入りで、フィルターのあたりを強くつまむとプチ、とはじけるような音がしてメンソールが強くなる。メンソールはきつければきついほどいい。特に寝起きと魅力的な女性の前では。
ロビンちゃんは半分ほどになった煙草を消して携帯灰皿に入れた。何気なくこっちを見遣り、あらその煙草、と口にした。何?と言った俺と目が合うとちょっと意地悪そうに笑った。
「その煙草を吸う男の子はとても一途なのよ」
「何それ?」
「都市伝説みたいなものよ」
「じゃあ俺には似合わないなあ」
おどけて笑ってパッケージを取り出して見ていると、あらそんなことないわとロビンちゃんが言った。
「私にはあなたはとても一途に見えるわ」
俺は驚いて、からかわないでとロビンちゃんを見た。でもロビンちゃんは意外なほど真剣な目だった。
「あなたはナミが好きなんでしょう?」
見ててわかるわ、他の子とは違うもの。俺は目をそらした。
「それは違うよ」
少しだけ考え、苦笑いで俺は答えた。
そう、それは違う、俺のナミさんに対する思い入れはそんなに可愛くてロマンティックなものではない。それはもっと哲学的な問題で、あえて言うなら俺のレーゾン・デートゥルの問題だった。この船における俺の存在理由、なるほど第一に来るのはコックという特異な立場だろう。だがそれは俺の外側から見た理由であって、俺にとって俺がコックだという事実は理由というより手段だ。俺が世界と関わる手段が料理でありコックという職業なのだ。ナミさんは俺の内側のレーゾン・デートゥルに関わりがある。つまりこの船にナミさんがいなかったとして、果たして俺はこの船に乗っていたかどうかという問題だ。もちろん俺がルフィについてきたのはそんな単純な経緯でもないし俺には俺の夢もある。それでも俺は時々考えるんだ、俺はナミさんがいなくてもこの船にいたろうか?
その命題は母親に対するそれに似ている。俺は母親を知らないが、母親がいなくとも俺はこの世に存在しえただろうか?答えはノーである。ナミさんを母親に、この船をこの世にそのまま代入してもなおこの命題は成立するか?答えはアンノウン、問題はナミさんが俺を生んだわけではないってことだ。
「認めたくないのかしら。一途なのはとてもいいことだわ」
ロビンちゃんはさらに言う。俺は曖昧に笑う。
たとえば恋愛が一個人に対する執着と定義されるとして、ならばなるほど俺はナミさんに恋をしているだろう。だが十代の恋愛とはもっと爽やかで軽いものであるはずで、俺は俺の存在理由を守るというエゴを恋といういかにもな美しい盾でカモフラージュしているだけなのかもしれない。
「俺は」
「なあに?」
こういうとき俺は君のほうが好きさとでも言えば女は喜ぶのかもしれないが、ロビンちゃんみたいな種類の女性はそんな言葉に感応したりはしないだろう。ましてや俺はロビンちゃんより9つも年下なのだ。言えるはずもない。それに言ったところでそれがどうしようもなく嘘であるという事実に一番直面するのは間違いなく俺なのだ。
「ううん、なんでもないよ」
いつのまにか煙草の半分が灰になって不安定に揺れていた。それを隠すように床に落として踏み消し、ロビンちゃんの視線に居心地が悪くあたりを見回すとバン、と荒い扉の開く音がした。ナミさんだった。
「噂をすれば、ね」
ロビンちゃんが笑った。それよりそれどころじゃなさそうだよ、と俺はゾロと遊び疲れて一緒に眠っていたルフィとチョッパーを起こしに下に降りた。ロビンちゃんの方には振り返らない。つくづくガキだなあと自分でも思う。8時の方角から嵐が来る、とナミさんが叫んでいた。
持ち場に向かいながら冷凍庫のシャーベットのことを思い出した俺は時計を見て、3時までの20分に嵐が去ってくれることを祈った。