その毒に眠れ
仲間の帰還によって、ロビーはいつも以上に活気付いていた。再会を喜び、この数日何をしていたか報告しあい、そこかしこで笑いや歓声が起こる。入れ替わり立ち替わり、やがて自然と同じ学校の部員たちの塊に分かれていく。
青学も例外ではなかった。仲間と離されたことを何より嘆いていた菊丸がはしゃぎ、桃城が武勇譚を語り、越前は無関心に食料を漁っている。いつもの光景だ。ただそこにいるはずの存在が欠けていることには、誰一人として言及しなかった。事情は既に全員が共有していた。
不二だけが、その不在に立ちすくんだ。居たたまれなくなって不二は自然な形で輪を抜け出し、少し離れた窓際のカウンターへと向かう。なるべく死角を選んだ。窓の外には夜の闇が広がり、はっきりと映った自分の顔が想像以上に焦燥しているのを見つけて目を逸らす。
一度離れてしまうと、先程まで確かに実体のあった戯れは単なる喧騒と化し、沈黙の降りた空間のBGMでしかなくなった。一つ一つの会話には意味があり、感情があり、思想があるはずなのに、その集合はいつしかさざ波のように没個性な音楽と成り果てる。こういった場所にいるといつも不二はそのことを不思議に思った。
彼を最後に見送ったのは不二だった。長らく彼らの間に横たわり続けた約束を果たし、手塚はコートを後にした。その後ろ姿はもう遠ざかるばかりで、倒れ込んだ不二に声がかけられることはなかった。
わかっていたことだった。けれど、不在が現実になれば、存在した事実すら幻と変わらなくなる。今朝までは確かに隣にいたはずの存在が、今では昨夜の夢であったかのように輪郭を失くしていく。その過程に不二は戸惑う。
「あんな別れ方でよかったん?」
さざ波の立つ水面に石を投げ込まれた。弾かれたように不二は顔を上げる。首から下だけが映る正面の硝子を見て、投手を確認する。腕に巻かれた包帯ですぐにわかった。
「白石」
見てたの、不二はゆっくりと振り返った。
「別に覗き見しよう思てたわけやないで」
弁解が続くのかと思って先を待ったが、白石は何も言わなかった。静かに不二の右隣にあるスツールを引き、滑らかに腰掛ける。白石のこういった無駄の無い動作は同室で過ごすようになってから何度も見ているが、それは時に感心よりも辟易を感じさせる。
「引き留めんでよかったん?」
こういうタイプの人間から話を逸らすのは不可能だということを、不二は経験的に知っていた。彼らは自らの望む答えを得るまでありとあらゆる角度から攻め立てる。たとえば手塚。たとえば乾。他校生なら柳生あたりだろうか。もう少し逃げるフリをしても構わないけれど、今は戯れな会話を楽しむ気分では無い。
「そんなことするわけないよ、手塚がドイツに行くことは随分前から決まってたんだし」
「それ含めてや。一回も止めへんかったん?」
「うん」
白石からは微かに消毒液の匂いがした。腕に巻かれたその包帯は大浴場ですら外さないにも関わらず、気付けばいつも新しく清潔なのだった。
「君はいいよね、成功したんだから」
誰を、とは言わない。
「あんなんは止めたって言わへん」
白石も名前を口にはしない。
「猶予引き延ばしや。元からあいつは期間限定やったからな」
「手塚だって同じだよ」
喧噪の向こう側から菊丸の声がした。彼の高い声はよく通る。何かを大石に捲し立てているようだった。手塚のことかもしれない。そうじゃないかもしれない。菊丸は手塚が苦手だった。
「手塚がいなくなることは、始めから決まっていたんだ」
「始めって?」
「そのままの意味だよ、出会ったときから」
「あのなあ、不二クン」
続けようとした言葉を、白石は遮った。不自然な間に不二が目をやると、表情が呆れた、と言った。それから白石は続ける言葉を変えた。
「失恋したみたいな顔してるで」
その言葉に、不二は普段柔和に細められている目を開いて改めて白石を見る。隠された琥珀の瞳は醒めて冷たい。人によっては恐怖すら感じると評されるその視線を、それでも白石は真正面から受け止めた。射竦めるような敵意を受け流し、含みのある笑みさえ浮かべていた。
「…あながち、間違ってないかもね」
先に折れたのは不二だった。睨みつけるのをやめ、諦めたような、自嘲めいた溜息を吐く。
「手塚と寝たん?」
「寝たよ、一度だけだけど」
あれは夏だった。ずっと追いかけ続けた夢が叶った夜だ。どちらがとは言わないが、夢を追い続けた夢のような日々が終わることに、うまく納得しきれなかったのだと不二は考えている。誰に向けるでもない、自分のための言い訳だ。
「僕らはそうしなきゃならなかった」
「何のために?」
「終わらせるために」
「何を?」
「全部」
全部だよ、俯きがちに微笑んで不二は呟いた。終わりがあることを知っていて、終わる為の儀式を行った。ひとつだけ残した約束は最後の鎖だった。それも果たされた今、不二に染み渡るこの感傷は予め用意されていたものに他ならなかった。夢見た日々の代償として。不二にとっては、すでにその感傷だけが実在だった。
目を閉じて一度大きな溜息を吐き、不二は徐に白石の包帯に手を伸ばした。
「今日見てて思ったんだけどさ」
触れたそこは、筋肉の硬さとはまったく異質の感触だった。指先で弾く。硬質な音が響く。そのまま手を滑らせて、軽く握られた手をつかむ。
「白石って、指キレイだよね」
手塚の指に似てる。不二はもう一度包帯を辿った。音楽を奏でるように。折り返して、されるがままの指先に手を触れる。今度は不二の指先が捕まる。
「不二クン」
捕まった指先がまだ先端を求める。不二はその光景ばかりに見入っている。
「俺と寝たい?」
藻掻いていた指先が止まる。不二は顔を上げる。
「…わからない」
白石の手が緩み、不二は解放される。その手を顔の前まで持ち上げて、確かめるように開閉する。
「わからないけど、多分そうなんだと思う」
何度目かの笑い声がテーブル席から聞こえた。ひどく遠くからの音だった。
包帯は外して欲しい、と不二は言った。一日に二回もオサムちゃんとの約束破らせるんか?いいじゃない、誰にもバレやしないよ。
電気は消した。鍵もかけた。
手塚、初めてだったんだって。そりゃそうだよね、ずっとテニスのことしか考えてなかったんだから。だからやっぱり拙くて、まあ正直に言えば下手くそだった。けどね、やっぱりそこは手塚だし、何て言うか拙いんだけど繊細で、探りながらだけど大胆で、それに努力家だしさ、指もキレイでさ、きっとすぐに上手くなるんだろうね。ああでも嫌だな、セックスの上手くなった手塚なんて吐き気がするよ。手塚が初めてで本当に良かった。
手塚は遠慮なく僕の中に入ってきたよ。それで何度も何度も僕の名前を呼んだんだ。不二、不二、って。手塚はいつもそうだった。何かを伝えるときには、確かめるように、念を押すように僕の名前を呼んだ。あの威圧的な目でさ、不二、って言うだけで伝わると思ってたんだよ。それで僕はわかってるよ、って微笑むんだ。すると手塚は少し安心していつも溜息を吐いた。けれど僕はね、手塚が何を求めているのか本当は確信なんてなかったんだ。僕はわかったフリばかりして、それでいて失望が怖いから、仕方なく試合に勝ち続けた。結局のところ僕は手塚が僕に何を求めていたのか、最後の最後までわからなかったんだ。…話が逸れたね。それで手塚は僕の名前を呼びながら掻き回して、ブチまけて、そして入ってきたときと同じように遠慮なく出て行った。僕の中に少しの白濁を残してね。ねえ白石、あれは僕たちそのものだったよ。手塚とのセックスは、僕たちの2年半そのものだったんだ。
お互いの体臭に混じって、鼻腔を擽る甘い香りに気付いた。この部屋に増え続ける植物からだろうことは想像に難くない。白石のものか、幸村のもののどちらだろうか。甘い香りをしているから、きっと毒のある方だ。甘美なものには罠がある。それは経験則以上に、自然の摂理だった。
「不二クンはそれでよかったん?」
途切れがちな吐息の合間に続く不二の話を、白石は黙って聞いていた。彼の日頃の行動通り、完璧で無駄のない手順で全てを進めた。不二の言葉を遮らない代わりに、相槌ひとつも打たなかった。ひどく儀式めいた行為だった。
「どうだろうね」
白石は左手に色素の薄い不二の髪を巻きつける。包帯のないその腕は白く浮いて、発光しているようにさえ見えた。
「でも手塚は最後に約束を守ってくれたから」
指先から溢れる榛色の髪は手入れが行き届いて絹のように落ちる。いつか地毛なのだと聞いた。確かに根元から正しく榛色だった。
「だからたぶん、これでよかったんだ」
「俺もそう思うんやろか」
「千歳と寝た?」
「寝たで、何回も」
あいつは寮暮らしやからヤリ放題や、わざとらしく茶化して言った。不二は笑わなかった。
「セックスしたら、その間だけは手塚が僕のものになるような気がしてたんだ」
「せやな」
「でも最後に残ったのは離れていく喪失感だけでさ」
「うん」
「決まってたんだ、手塚がいなくなることは、出会ったときから」
白石の腕の中で、不二は手塚の体温を思い出そうとした。全てを刻み付けるつもりだったのに、その熱はもう不二のどこにも残されていないのだった。それでももういないという現実が記憶という幻を浸食して、概念としての手塚がいつまでも不二を蝕み続けるのだった。そしてそれは、不思議と愛撫のようにも思えた。
「だからたぶん、これでよかった」
毒とわかっていて近付いた。誰に?手塚かもしれない、白石もそうなのかもしれない。不二にとっては毒ですら甘美だった。その罠を含めて誘われた。そのことに漸く今気付いた気がした。