その年最後の雪が降る夜だった。暗闇に沈んだ海は香りと音だけでその存在を主張し、水平線は空と融け合ってただ闇に紛れている。冬の間一帯を染上げていたであろう雪の塊は、一ヶ所にまとめられ醜い灰色に覆われていた。舞い落ちる雪は仁王の髪と同じ色をしていて、黒いコートに散る欠片だけがその白さを主張している。もう花びらのように繊細となってしまった結晶は、この地を覆うことはできないだろう。打ち上げられた海水と雪解け水で濡れたコンクリートに、音も無く吸い込まれては消えて行く。それでもやはり風は冷たく、吐く息は白く、マフラーに隠し切れない耳の先端が痛みとして寒さを訴えかけていた。ダウンコートのポケットの中で両手を握りしめても、小さな震えは収まらなかった。見えない海を見るとも無く見ていた仁王は、引き摺るような金属音に気付いて振り向く。
「遅れてすまんばいね」
そこにはグレーのコートに深いグリーンのマフラーを巻き付けた千歳が片手を上げて立っていた。足元だけは彼がいつもそうであるように、素足と鉄下駄だった。座っていた仁王が見上げるには高すぎる身長の先で、赤い鼻を啜って緩んだ表情を浮かべている。
「もう来んのかと思うたぜよ」
「まさか」
上げていた右手を早々にコートへと押し込み、千歳は隣に腰掛ける。冷たい空気に曝された素足が痛々しい。肩に掛けていた布製のバックを降ろし、膝の上に置いた。
「荷物、そんだけか?」
「着替えくらいでよかろ」
「まあそんなもんやの」
傍らに置いたスポーツバッグを見遣る。仁王にしたって、千歳と大して変わらない量だった。
「なしてこげな寒かとこにおっと?待合室なら暖房ば効いてたいがぬくか」
「海が見とうて」
「そういや、立海の近くは海やったばいね」
「ああ、でもあれは太平洋じゃき、違うぜよ」
仁王は六年間過ごした土地の、夕陽に照らされた海を思った。思い出す限りいつもそこは穏やかで、学校帰りに用もなく砂浜に降りては一日の終わりを眺めていた。あの海に比べて、目の前の闇は冷たい。冬だからとか、夜だからとかではなく、纏う空気が違うと彼は思った。だから郷愁に捕らわれているわけではない。さらに言えば、感傷に浸るなどという姿を簡単に晒せるほど隣の男と親しいわけでもなかった。
夜の埠頭は全ての気配が密やかだった。まだ終わり切らない冬の所為もあるかもしれない。人々は低い声で会話し、皆一様に下を向いて歩いている。船着き場にはライトに照らされた客船がいくつか佇んでいた。分厚いコートに身を包んだ乗組員が何人か作業をしているが、それにしたって密航の準備でもしているかのようだ。その向こうにはまだ荷下ろしされていないのか、それとも出発を待っているのか、貨物船のコンテナが得体の知れない生き物のように鎮座している。
「どれね?」
「二番目」
言葉少なに問う千歳に対し、簡潔に告げる。大きくもなく小さくもない、少し古ぼけたその客船を二人で見つめる。
今夜彼らは海へ出るのだ。あの船に乗って。
SAILING DAY
どこか遠くへ行きたいと呟いたのは仁王だった。強い陽射しを少しでも和らげられるようにと逃げ込んだ木立の陰でのことだ。
「どこか、ち言うと?」
「どこでもええ、遠いとこ」
丸めた背中を木の幹に預ける仁王の傍で、千歳は自らの腕を枕にして身体を投げ出していた。長い足は木陰に収まり切らず、ジャージの明度が脛の辺りでくっきりと変わっている。その先にあるテニスシューズは薄汚れ、草臥れていた。
纏わりつく暑さより一足先に、彼らの夏は終わった。何だかんだで同じメンバーとの未来が約束されていた三年前とは違う。それは本当の意味での終わりだった。
最後のミーティングを終えてふらりと集団を抜けて来た先で、千歳を見つけた。彼らは所属するチームも住む場所もまるで違っていたが、幾度かの全国大会や選抜合宿なんかでお互いのことはそれなりに知っている。団体行動に向かない彼らが思いがけない場所で遭遇することも初めてではなかった。
いつもそうであったように、彼らは当たり障りのない会話をした。終わったばかりの大会について、互いの住む街にある夕陽の綺麗な場所、懐かない野良猫の振り向かせ方。
「これからどげんすっとね?」
そう問いかけたのは千歳だった。そして話は先に戻る。
少し前まで陽射しだけではない熱気に包まれていたコートを、大人たちが事務的な態度で片付けている。祭りの後はいつも無機質だ。畳まれるネットや拾い集められるボールが、彼らにとって全てだった世界を終わらせて行く。仁王は見るともなしにそれを眺めていた。
「ほなけん、一緒に行こかいね」
「え?」
「遠いとこ」
終わり行く夏を見ていた仁王は、それが先程の他愛ない会話の続きだと気付くまでに時間がかかった。千歳は週末の約束でもするかのような口振りで、一緒に行かんね、ともう一度言った。
「何を言うとるんじゃ」
「ちょうど俺も同じこつば思いよったけん。高校卒業したら海ば越えて、世界ば見に行こうかちね。旅は道連れたい。ばってん、一人で行きたいち言うとなら無理強いはせんばい」
一息に話した千歳の表情を盗み見ても冗談と本気の区別はつかなかった。緩く目を閉じ、穏やかな微笑みを浮かべている。
仁王が遠くへ行きたいと考えているのは本当だった。千歳がどうであったかは知らないが、少なくとも仁王はテニスだけで辛うじて世界と繋がってきた。何かに縛られることを嫌い、馴れ合いを好まなかった彼は、必要最低限のチームメイトだけに側に居ることを許した。ある程度淡白な付き合いをするその世界の居心地は存外悪くなく、気付けば六年の歳月が過ぎていた。彼らとの繋がりはただひたすらにテニスだ。だからそれが無くなってまで、仁王には彼らと共にある理由がなかった。何よりもそのままぬるま湯のような関係に成り下がってしまうことを恐れた。
「いつ?」
是とも否とも言わず仁王は尋ねた。そやね、と千歳は目を閉じたまま考えるような間を空ける。
「二月の最後の日はどがんね?」
「俺んとこ卒業式三月ぜよ」
「俺んとこもそうったい」
その言葉を聞いて千歳は本気なのだと悟った。そしてそれは悪くない考えだ。旅立つ前に別れの式典に出るなんて馴れ合い以外の何物でもない。
「わかった、二月最後の日じゃな」
千歳の理由はきっと自分と同じなのだとその時仁王は思った。だから一見軽く聞こえるその誘いに乗ることを決めた。
冷たい雪が薄く二人を包んでいく。払うこともしないで、海を眺める。カチンと乾いた音がして振り返れば、千歳の手の中で古ぼけたジッポが船を照らす光を反射していた。今度は金属が擦れる鈍った音がして、風除けのために丸めた指がオレンジ色に染まる。いつの間にか咥えていた煙草に火を灯し、吸い込んだ分だけ先端が赤く光った。立ち昇る紫煙を眺めていると、一本いるかと千歳が尋ねた。仁王は首を横に振る。
「吸わんけえ」
「真面目やね」
「機会がなかっただけナリ」
そうか、と千歳の吐き出した煙は白い息と混ざり、どこまでが寒さでどこからが毒なのかわからなかった。二度ほどそれを繰り返し、徐に千歳が口を開く。
「誰かに言って来たと?」
「何を」
「今日んこつ」
「言っとらんよ、言ったら意味ないじゃろ」
声色に何を言ってるんだと込めたが、千歳はそうかねえ、と疑問系で返した。
「言うて来たんか?」
「言っとらんたい」
行き先はね、長くなった灰を落としながら千歳が言う。
「ばってん、お別れば言うて来たったい」
仁王は気付かれない程度に息を呑む。それでも誰に、とは聞かなかった。詮索するような間柄ではないし、それなりに想像がついたからだ。
「意外ぜよ」
「そげんこつなかろうもん、けじめたい」
「いや、それでもここにおるんが」
ずっと海の方を向いていた千歳の目が仁王に流される。煙草を挟む手に隠れて口元は見えなかったが、笑っているような気がした。それも自嘲的に。
千歳には恋人がいた。仁王もそれなりに知る人物で、男だった。イレギュラーであるがために公にはされていなかったその関係を仁王が知っているのは、いつかの合宿で隠れた口付けを目撃したことがあるからだ。仁王に気付いたその恋人は顔を真っ赤にして「せやからこんなとこでやめろ言うたやろ」と関西弁で千歳に詰め寄ったが、千歳は「見られてしもたばい」と少し困ったように笑っただけだった。仁王の方では一般的な偏見など持ち合わせていなかったし、さして興味も無かったので、何も言わなかったし誰にも伝えなかった。ただ、どこか根無し草のような印象を与える千歳がその関係に対し、存外一途に向き合っていることに気付いたときは少なからず驚いた。
千歳が別れを告げたと表現するならば、相手は十中八九その恋人だろうと仁王は思った。彼は止めなかったのだろうか。それとも、千歳は四年近く彼なりに大切にしてきた相手をそれでも突き離したのだろうか。待ち合わせに遅れて来たのはその所為かもしれない。
「鋭か男ばい」
短くなった煙草が千歳の指から落とされた。湿ったコンクリートに触れて微かにジュ、と響く。雪は音も無く舞い落ちては消えていく。
「ばってん、別れや思うちょるんは俺だけたい。向こうは多分気付いとらんとよ」
「意味あるんか、それ」
「賢か男やけん、俺のおらんち気付いたらすぐ意味ばわかろうもん」
「酷い奴っちゃのう」
大した同情もなく仁王は言った。そんな彼に対し、千歳は情けなく眉を下げ、笑った。
「嫌いになったごたる言おうち思たばってん、嘘でも言えんかったとよ」
そう思うなら旅になんて出なければいいと仁王は思ったが、言わなかった。その分だけ決意が固いのだと知れたからだ。もしかすると、あの夏同じだと思ったのは勘違いで、千歳が旅立つ理由は自分と違っているのかもしれないとも思った。
「コーヒーでん飲まんね」
そう言って千歳が立ち上がる。この話はこれで終わり、の合図だ。仁王も無言で立ち上がり、暗に是だと伝えた。
待合室の裏に設置された自動販売機は、ライトのあまり届かない場所で所在無げに白く発光していた。海辺にある大抵の物がそうであるように、潮風に曝されて色褪せや錆が目立つ。見た目よりは新しいのだろうと思いながら、仁王はブラックコーヒーのボタンを押す。もちろんホットだ。温められ過ぎたスチール缶は素手で持つには熱く、両手の間で弄ぶ。すぐに開けたところで猫舌の彼は飲めない。
入れ替わりで百二十円を投入した千歳は、緑がかった微糖の缶を選んだ。自動販売機の高さをも超える長身を屈ませ、窮屈そうに取り出し口を探る。この国の色々な物は彼に合わないサイズで出来ている。例えばそんなことも彼が日本を離れる理由の一つなんだろうか、とその姿を見て仁王は思った。それが彼自身の理由でなくとも解釈の一つとしては悪くない気がした。
待合室の方がいいかと相談したが、今さらだろうと元の場所へ戻ることにした。ちらりと見遣った明るい部屋には家族連れやカップルも少なくなく、夜逃げのように寄り添う男二人連れで入るには気後れしたからだ。鉄下駄を履く二メートル近い長身と、真っ白な髪の組み合わせなんてどう頑張っても堅気には見えない。
再び雪に曝されながら、千歳がプルトップに指をかける。ただでさえ小さな缶コーヒーは、彼の大きな手の中でおもちゃのように見えた。カコン、と小気味好い音と共にコーヒーが口を開ける。千歳は啜るように口を付けた後、ぬくか、と笑った。けれど笑顔はすぐに引っ込み、両手で缶を持ったまま膝に肘を付き俯く。少しの間沈黙が訪れる。手持ち無沙汰になって、仁王も漸くまともに持てるまでに冷めた自分のそれを開けようとした。そのとき、名前を呼ばれた。千歳の声で紡がれる「仁王」という響きには自分の名なのに違和感があって、少し反応が遅れる。彼らはいつも二人でばかり会話をしたから、ほとんど名前を呼び合ったことがないのだと気付いた。
「何じゃ」
「ほんなこつよかと?」
「何が」
「引き返すなら今のうちったい」
プルトップに引っ掛けた仁王の指が止まる。振り返っても千歳は缶を見つめたままで、髪に隠れて表情は見えない。仁王と違って黒い髪には、降り積もった雪が目立つ。
「誰にも言わんちこつは、戻れるちこつばい」
「……俺が逃げ道残すために黙って出てきた、言うんか?」
少し声が低くなってしまったことを仁王は後悔した。違うばい、と慌てたように千歳が顔を上げる。暫くそれを見つめ、仁王は止まっていた指に力を入れる。勢い良く開いた飲み口から暗褐色の液体が細かく散った。手の甲に付いた雫を舐め取り、一口飲む。添加物の一切無いその味は酷く安物めいていた。
「誘ったんは俺やけん、確認ばしといた方がよかろうち思て」
気ぃ悪さしたんならすまんばいね、と苦笑いで千歳も微糖コーヒーを一口啜る。
「どっか行きたい言うたんは俺じゃき、何も気にせんでええぜよ」
「ならよか」
そう言ったきり千歳はそれ以上追及して来なかった。仁王は些か缶コーヒーを握る手に力を込める。千歳の問い掛けに対し、確かに動揺した自分を認めたからだ。
夏が去ってからの半年間のほとんどを、仁王は無気力の中で過ごした。それぞれの未来に想いを馳せるチームメイトの話を流しながら、大学へ内部進学する素振りだけを演じて。
全国トップレベルのプレイヤーが揃いながらも、本格的にテニスの道へ進むと決めたのは部長の幸村だけだった。いつも彼に寄り添っていた真田が同じ道を選ばなかったことは意外に思ったが、大学を出て警官になるという言葉を聞いてなるほどと思った。他の人間も、中学時代には「テニスプレイヤーになれなかったら」と仮定して描いていた未来に向かって動き出していた。誰もがその道で食べていけるわけではない。現実なんてそんなものだ。それでも他に目指す何かを持っていたメンバー達は、何も無い者達よりは恵まれていたのかもしれない。そんな周りを見ながら、仁王は誰にも言わずに出て行こうという気持ちだけを強く持ってただ時を過ごした。千歳との約束にはまだあまり現実感が無かったが、一人でもその計画を実行するつもりだった。あの夏の日には漠然とした願望だったその道が、他人に漏らしたことで奇妙に具体化してしまったからだ。
そんな日々に波風が立ったのは年明けの、千歳から船のチケットが届いた頃だった。夏の日の戯言めいた約束に漸く現実が追いついた矢先、幸村に呼び止められた。
「ちょっと話があるんだけど」
幸村は花のような笑みを浮かべ、帰り道で待ち受けていた。見た目は柔和だけれどこうと決めたら譲らない男だ。多少の悪い予感に戦慄きつつも、黙って付いて行くことにした。
幸村が向かったのは、学校からある程度離れている寂れた街だった。急行電車も止まらない簡素な駅を降り、ほとんどの店にシャッターが下りているような商店街を抜ける。土地勘があるのか幸村は迷いの無い足取りで、営業しているかも疑わしい古びた喫茶店へと入っていった。
「なしてこんな所選びよるんじゃ」
「お前のためだよ」
事も無げに幸村はそう言い放った。解せない、という表情を仁王が浮かべると、「たぶん誰にも聞かれたくないだろう話だから」とやはり花が綻ぶように笑う。
今にも潰れそうなその喫茶店は、それでもある程度飲み物の種類にメリハリを付けているようだった。幸村はアプリコットティーを頼み、仁王はエスプレッソを選んだ。ケーキも頼んでいいかという幸村に好きにしろと告げ、聞いて来るということは奢らされるのだろうかと身構える。ある程度のそんな理不尽さには、この六年間で随分と慣れてしまっていた。幸村は悩んだ挙げ句、黒蜜きなこのシフォンケーキ、と嬉しそうに注文する。名前だけで胸焼けがしそうだと仁王は思った。そんな食の嗜好が合うからと、丸井と女子のような会話を繰り広げていた日々を思い出す。そんな日常も随分と昔のことのように思えた。
注文した品が来るにはある程度の時間がかかった。コーヒーを豆から挽いているらしい。お前がエスプレッソなんて頼むから遅いんだとごちる幸村を流し、当たり障りの無い近況報告で間を繋いだ。ほとんど幸村が話すばかりだったが。やがて三つの商品が運ばれて来ると、幸村は早々にシフォンケーキを消化していった。これうまいよ、食べる?と差し出された欠片は丁重に断った。さすが拘っているだけあって深い味わいのあるエスプレッソを啜りながら食べ終わるまで待つ。
「うん、満足」
紙ナプキンで口周りを拭い、ほとんど手付かずだったアプリコットティーを上品に飲んで幸村が一息付く。時間としては五分少々だった。
「相変わらずブン太並に速いのう」
「量では負けるよ。さすがにあの胃袋には敵わない」
確かに、と仁王は頷く。パティシエにでもなるのかと思っていた丸井は、外部の専門学校で保育士の資格を取るのだと言う。始めは意外だと思ったが、自己中心的でいて実のところ面倒見の良い彼には似合う気がした。
「で、本題なんだけど」
そう言って幸村が居住まいを正した。仁王は表面に出ないよう注意して身構える。幸村は射抜くような目線でこちらを見ている。こういう時の幸村の瞳は昔から苦手だった。だからあえて正面からそれを受け止める。
「仁王って本当に大学行くの?」
いきなりの直球だった。呼ばれた時点である程度予測していたことではあったので、直球過ぎて逆に拍子抜けしたくらいだ。
「行くぜよ、もう合格もしちょる」
嘘ではなかった。ギリギリまで大学へ進む自分を演じることは容易い。入学手続きは出発予定日より先だから、万が一にも露呈するはずはなかった。
「でもテニスは辞めるんだろ?」
「おん、じゃがそれとこれとは関係ないじゃろ」
「柳生が言ってたんだよ、テニス無しに仁王くんが我々の傍に居続けるとは思えません、って」
幸村は心持ち柳生の声真似をして言った。余計なことを、と仁王は歯噛みしたい気分だった。チームメイトの中でも一番一緒にいた時間が長く、紳士という肩書きとは似つかない喰えなさを持つその友人が、仁王の意に反して必要以上に彼を理解してしまっていることは事実だ。長年それに抵抗を続けて来たが、途中から面倒くさくなって好きなようにさせていた。本人から言って来ず、幸村に伝えるあたりが彼らしくて憎い。
「まあ別にさ、俺も遠くへ行くわけだし、正直お前がどうしようがどうでもいいっちゃいいんだけど」
「ならほっときんしゃい」
「でも気になるんだ、進学が嘘だとしたら、一体今度は何から逃げるんだろうって」
その言葉に今度こそ仁王は硬直した。今、幸村は何と言ったのか。
「逃げる、じゃて?」
「そう。お前は昔から逃げてばかりだったろ。本気じゃないフリ、興味のないフリ、詐欺なんて言って誤摩化してたけどさ、何をそんなに怖がってるわけ?」
「……言ってることがようわからんぜよ」
「いいや、わかってるはずだ。お前は怖いんだよ、信じて裏切られることが怖いし、本気を出して負けることが怖いし、居場所を失うことが怖い。だから信じないし、本気も出さないし、必要以上に他人を近付けない」
真っ直ぐに目を見て断言する幸村を、精一杯睨み返す。幸村は目を逸らさないまま、一口アプリコットティーを啜った。そしてわざとらしく、口調を少し穏やかに変える。
「でも俺はこの六年でいくつかお前の本気を見たよ。皆でやってきた中で、信じた人間が増えすぎた、違うか?お前はそれを失ってしまうのが怖いんじゃないのか?だから自分から離れようとしてる。傷付かないで済むように、捨てられる前に捨てようとしてるんだ。テニスが無くなったらどう繋がればいいのかわからないから」
今度は試すような視線を向ける。まるで親身になって相談に乗ってやっているとでも言いたげな表情だ。幸村のこういう所が仁王はずっと大嫌いだった。いつも本音を引き出されないために必死だった。
「何の話かわからんぜよ。俺はこのまま上行くっちゅーとるじゃろ」
あくまで仁王はシラを切り通すつもりだった。やっとの思いで目を逸らし、エスプレッソに口付ける。すっかり冷めてしまったそれは苦味だけが目立って仁王の舌を痺れさせた。その様子を観察し、幸村が一つ溜息を吐く。
「大体お前が進路を明言してる時点でおかしいんだよ。高校だって入学式まではっきりさせなかったろ。まあ、どちらにせよあとふた月もすればわかることだからいいけどさ。でも一つだけ言っとくよ。もしお前が消えるつもりなら、俺にだけは言付けてからにしろ。そうでなければ許さないからな」
許さないって何をだ。心の中でだけ思って仁王はすっかり不味くなったエスプレッソを無理矢理流し込んだ。財布を取り出し、千円札を二枚取り出す。叩き付けるようにテーブルに置き、その勢いで立ち上がる。
「なあ仁王、俺はこれから世界に出て行く」
無言で出て行こうとした仁王の背中へ、独り言のように幸村が呟いた。仁王は振り返らずに足だけを止める。紅茶を啜る音が響く。
「前向きにだよ。これが俺のタイミングだと思ってる。でもお前は今じゃない。どうせならもっとちゃんと絶望して、それから希望を持って行けよ。そうでなければ意味が無い」
返事はしなかった。幸村の中では仁王の失踪がすでに前提となっている。けれど仁王としてはそれを認めるわけにはいかない。幸村が紡いだあらゆる言葉を、空回った見当外れのものにしておかなければならなかった。冷めて不味くなったエスプレッソが呪いのように喉に引っかかっている。木製の扉を押して外へ出ると一月の冷たい風が吹き付け、より一層苛立ちが増した。
控えめなアナウンスが静かな埠頭に響き渡り、乗船の時間が来たことを告げる。千歳は二本目の煙草に火を点けたところだった。飲み終わった缶コーヒーを灰皿代わりに、先程捨てた吸い殻も回収していた。軽い雪の結晶は時折思い出したかのように煌めくだけになっている。
「さて、行くばい」
煙草を咥えたまま、千歳がその巨体を伸び上げる。仁王は空になった途端に急激に冷えた缶を両手で握りしめていた。結局、幸村には何も告げずにこの埠頭へ来てしまった。姿を消してしまうなら立てる義理もあったものではないが、それよりも言ってしまえば行けなくなる気がしたのだ。これは逃げなのだろうか。
「仁王?」
不審気にかけられた声を振り仰ぐ。やはり千歳の口から吐かれるその名は不自然だった。千歳は煙草を指に挟み直して不思議そうに仁王を見下ろしている。
「千歳」
「何ね」
呼んでみた名前もまた不自然に響いた。冷静になってみれば、ロクに名前を呼び合ったことも無い男と二人、駆け落ち同然に出航することが不思議に思えてならなかった。それでもこの男となら行ける気がしたのだ。同じように自由を好み、同じような理由を持つと思えたこの男となら。
「お前さんは、ほんまに行くんか」
先程された質問をそのまま返す。
「俺と違うて大事な人間もおって、それでも行くんか」
俺と違う、という部分を強調して言った。同じだと思ったのは、自分の願望に過ぎなかったと仁王は気付いていた。自分と千歳とは違う。ならば千歳の理由とは何なのか。
不思議に彩られていた千歳の瞳に、ふと違う色が宿った。それは哀しみのようでもあったし、それでいて酷く穏やかだった。仁王の周りにはそんな色を宿す人間など思い出す限り存在しなかった。
「できれば、行きとうなか」
「じゃあなして」
「今しか無かけん」
紫煙を吐き出しながら、自嘲めいて笑った。別れを告げて来たと言った、あの時の表情だ。
「俺は世界ば見たいちずっと思っとった」
それはわかる。仁王は声に出さず、頷いて続きを促す。
「だけん今行かんといけん。こん目が見えとるうちに」
仁王は目を見張る。見下ろす千歳の顔は、どこまでも穏やかで哀しい。
「お前さんの目……」
「右目ば見えんようなったとき、本当はテニスば無理やろち言われとったと。そげん言われても捨てきれんで、ずっと無理ばしてきよったけんね。大阪で診てもろうてもいっちょん回復もせんし、それどころか左目もどんどん悪うなって来とっと」
「それが理由なんか」
そうだ、と言うように千歳はゆっくりと深く頷いた。乗船のアナウンスが繰り返し響いている。早く行かなければ乗り遅れてしまう。それでも仁王は腰を上げることができなかった。
「千歳」
「何ね」
立ち上がらない仁王を、千歳は決して急かしたりしない。わかっている、とでも言いたげに。
「すまん、やっぱ俺は行けん」
逸らしたくなる目線を、仁王は必死で合わせ続けた。立っていても見上げなければいけない千歳の目を見続け、首が痛くなっている。けれど逸らすわけにはいかなかった。
「……そっか」
驚きも、失望も無く千歳はただそう頷いた。わかっていたのかもしれない。あの夏の日から、仁王の出すその答えが見えていたのかもしれない。
「そいでええち思うと。もう船ば出よるけん、俺は行くばい」
仁王は漸く立ち上がった。千歳の指に挟まれた煙草を抜き取る。半分まで短くなったそれを咥え、思い切り吸い込んだ。頭がぐらりと揺れ、次の瞬間思い切り咽せる。
「無理せんでよか」
「別れの挨拶じゃき」
千歳は涙目で見上げた仁王に笑いかけた。その目にもう哀しみは宿っていなかった。
「一つだけ頼まれてくれんね?」
乗船口まで見送りに来た仁王を振り返り、千歳は言った。
「何じゃ?」
「絵葉書ば送ってもよか?見たもんば絵にしようち思っとったけん」
ちーとだけ画材道具ば入れて来たんよ、と肩にかけたバッグを振ってみせる。
「俺でええんか?」
「お前がよか。俺ん行き先ば知っとるん仁王だけやけん」
「お前さんがそう言うなら」
千歳はありがとう、と笑い、それから、と続ける。
「それから、俺ん最後に見たもん、ちゃんとしたキャンバスに描くけん、それも受け取ってくんなっせ」
「最後?」
「こん左目ば何年持つかわからんばってん、そぎゃん長い時間やなか思うと。俺ん辿り着いたもんば見て、行くか決めたらどがんね?」
選ばれたのは自分の方だったと、そのとき漸く仁王は気付いた。全ての繋がりを断ち切れる人間なんてそういるものではない。結局は船に乗らないことを選んだ仁王のように、行かなければならない千歳にも僅かでも残したいものがあったのだ。例えば彼の恋人だったなら、その力が強すぎるのだろう。誰にも言えない船出に立ち会い、彼の見た物を見届けるために仁王は選ばれたのだった。どこか遠くへ行きたくて、一方で大切な場所に留まっていたかった、同じ心境を持つ理解者として。
遠ざかる船が闇に消えていくのを、仁王はずっと見送っていた。その船に乗らなかったことを、いつか自分は後悔するかもしれないと思いながら。あるいは後悔するのは千歳かもしれない。今はまだわからない。汽笛が波の音にかき消され、船影が闇に紛れても、仁王はいつまでも埠頭に立ち尽くしていた。雪はいつの間にか止んでいた。