佐伯の目から涙が零れ落ちたとき、不二は彼に背を向けていた。

 佐伯から見える不二は、綺麗に整頓されたレコードのジャケットを引き出しては戻し、楽しんでいる。やがて一枚のレコードで手を止めて、控えめに流れていたジャズを止める。そっと針を上げて黒い円盤を取り出し、立てかけていたジャケットへと仕舞い込む。選び出した新しい盤を嵌め込み、針を落とすと静かなギターソロが流れた。佐伯はそのメロディを知らなかったが、ジャズでないことだけはわかった。
 「ねえ佐伯、」
 そのレコードジャケットを手に振り向いた不二が固まる。いつも見え過ぎている美しい顔がぼやけていたから、そこで初めて佐伯は自分が泣いていることに気が付いた。
 「え、何、佐伯、どうしたの?」
 パサリ、とジャケットが滑り落ちて不二が近付いてくる。彼は音楽を鑑賞するにあたり、何万曲も抱え込める手の平大の機械よりもその大きな黒い円盤を好んだ。だから自然と好む音楽も、クラシックやジャズ、古いポップスなんかに集約されている。手触りの良い絨毯を滑る大きなジャケットは、やはり佐伯の知らないものだった。夜の雨の中で男が一人、大きなバイクに跨ってポーズを決めている。着込んだ紫のスーツが時代を物語っていた。

 不二の手が頬に触れて、佐伯はジャケットから目を離す。ベッドに座る佐伯を小首を傾げて覗き込む表情は、昔彼の勝気な弟が転んで擦り傷を造ったときと同じものだった。彼は形の良い眉を寄せて、どうしたの?ともう一度尋ねた。
 「何でもないよ」
 佐伯は彼の手に自分の手を重ね、ゆっくりと離した。もう片方の手で乱暴に涙を拭う。膝をつき、尚も心配そうに見上げる不二の髪に手をのばす。色素が薄く柔らかい髪は佐伯の指を難なく受け入れ、素通りさせた。不二はされるがままになっている。不安そうに見つめる彼に、佐伯は微笑んでみせる。
 「昔飼ってたペットのことを思い出したんだ」
 「ペット?あのラブラドール?」
 「うん、よくわかったね。不二は見たことあったっけ」
 「あるよ、小さい頃だったからあまり覚えてないけど、僕より大きかった気がする」
 「そうだね。でもたぶん、俺達が小さかったんだよ」
 そのラブラドールレトリバーは佐伯が生まれる前から家族として存在していて、彼が五歳のときに死んだ。覚えている限り人生で最初に死というものを知覚した瞬間だった。彼が可愛がっていたというより可愛がられていたという方が正しいほど聡明で慈愛に満ちた犬だった。
 「何で急に思い出したの?」
 「さあ、何でだろ」
 わかるはずもなかった。佐伯はラブラドールレトリバーのことを考えていたわけではなかったからだ。

 佐伯の頬にまた一筋涙が流れる。繋いだままの手が震えて、不二は徐に佐伯の頬へと顔を寄せる。赤い小さな舌で涙を舐めとる彼と至近距離で目が合った。佐伯は視力が良すぎるから、近くのものが少し見えにくい。腰を引き寄せてやれば、自然と唇が重なる。触れるだけの口付けを繰り返して不二の腕は佐伯の首に回る。
 「ねえ、本当にどうしたの?」
 「何でもないよ」
 訝しんだ不二が少しだけ空けた空間を惜しむように、佐伯はもう一度強い力で彼を引き寄せる。そのまま体を反転させれば、綺麗に整えられた布団に皺が出来て榛色の髪が広がった。見上げる瞳は琥珀色。佐伯は目眩を覚える。不二の美しさは、昔からちっとも変わらない。
 「大好きだよ、不二」
 鼻声でそんなことを言うなんて狡いかもしれない、と佐伯は思った。けれどどうせ泣いてしまったのだから同じことだった。不二は佐伯の言葉に一瞬目を丸くした後で、ふんわりと花が咲くように笑った。
 「うん、僕も、大好きだよ、佐伯」
 また新しい涙が込み上げて、隠すように佐伯は不二に口付ける。今度は触れるだけでなく、情欲を伴って。こんなキスを覚えたのはいつだったろうかと佐伯は考える。ずっと大切にして来た、俺の可愛い恋人。

 

——哀しい思いをさせたいわけじゃなかった
 ——君を苦しませたいわけでもなかった

 オーディオセットからは哀しげな男の声が聞こえている。きっと紫のスーツを着た男が歌っているんだろうと佐伯は思った。

パープル・レイン

 初めてキスをしたのは、小学校へ上がる前の春休みだった。

 佐伯の父親と、その頃はまだ日本に居た不二の父親は学生時代の友人で、長い休みになると恒例行事の如く家族ぐるみで旅行に出かけた。
 あれは関東近郊にある温泉地へ出掛けたときのことだ。大人はアルコールと共に大人だけの時間を楽しみ、その傍で二人の姉はひそひそと女の子だけの会話に浸っていた。不二の弟である裕太は昼間はしゃぎ疲れた所為か布団の敷かれた部屋で眠ってしまい、彼らはその部屋の縁側に腰掛けて星を眺めていた。
 「あまのがわって、たなばたじゃなくても見えるんだね」
 舌足らずに不二がポツリと呟く。当たり前のように手を繋いで、見上げる空は都会と違って星の海だ。
 「そうだよ。すごいよね、カーテンみたい」
 佐伯が見る星は不二に見える星よりも多い。佐伯が指差す星を不二が見つけられないことが時折あって、彼らはそれを不思議に思った。人によって世界の捉え方が微妙に違っていることをまだ知らなかった。
 「佐伯は、たなばたのおはなしを知ってる?」
 「知ってるよ、ようちえんでならったもん」
 「あのおはなし、ちょっと僕たちみたいだなって、思ったんだ」
 「おりひめと、ひこぼし?」
 「うん、会いたいって思っても、たまにしか会えないから」
 星を見上げる白い横顔を盗み見た。まだテニスを始める前の不二は早生まれであることも手伝って本当に華奢で、街を歩くとよく女の子に間違われた。そんな不二は佐伯にとって壊れやすい宝物のようなもので、いつも傷つけないようにと手を引いて歩いた。
 「俺と不二がおりひめとひこぼしなら、俺たちはコイビトドウシだね」
 「コイビトドウシ?」
 耳慣れない単語に不二が首を傾げて佐伯を見遣る。いつかの七夕に、ませた姉から聞いた話だった。あの二人は年に一度しか会えないけどね、ずっと愛し合っている素敵な恋人同士なのよ。あいしあうって何?と佐伯が聞くと、お互いのことが好きで好きでたまらないことよと瞳を輝かせて姉は言った。
 「好き好き同士のことだよ。俺は不二のことが好きだけど、不二は?」
 「僕も佐伯のことが好きだよ」
 「じゃあ俺たちはコイビトドウシだ」
 そう言うと不二がとても嬉しそうに笑ったので、佐伯はとても幸せな気分になった。
 「ねえ不二、キスしようか」
 「キス?姉さんがよくおでこにしてくれるあれ?」
 「そうなんだけど、ちょっと違うかな。コイビトドウシだけの、ひみつのキス」
 「どうするの?」
 「こうするんだ」
 そっと佐伯は口付ける。頬でもなく、額でもなく、不二の唇に。不二は普段細められている目を見開いて、至近距離にある佐伯を眺める。一瞬触れた後でそっと離れると、春の夜特有のどこか花の香りを含んだ優しい風が二人の間を通り抜けた。
 「今のが、コイビトドウシのキス?」
 「うん。……イヤだった?」
 少しだけ不安気に見つめる佐伯を、細く戻った瞳の奥から不二は見返す。暫し考えるような素振りを見せて、ううん、と首を左右に振る。その動きに合わせて柔らかな髪がさらさらと靡いた。
 「イヤじゃないよ、佐伯のこと、好きだから」
 そして二人は笑い合う。どちらともなく距離が縮まり、もう一度触れるだけのキスをした。そのとき満天の星空に光が流れたことを、瞳を閉じた二人は知らない。けれどとても幸福な夜だった。

 「このあいだ姉さんがね、家に男の人を連れて来たんだ」
 「由美子姉さんが?」
 年に数回の逢瀬で小さなキスを繰り返し、いつしかそれが当たり前になっていた小学三年生の夏。そのとき彼らは千葉の海岸で、いつものように他愛ない話と触れるだけの口付けを繰り返していた。ふと体を離した不二は思い出したように哀しげな顔をして語り出した。
 「コイビトなのって聞いたらそうよって、周助にもいつかそんな人ができるわよ、って言われてね。それで僕は、僕のコイビトは佐伯だよって答えたんだ。そうしたらちょっと困ったみたいな顔をして、それは違うって言うんだよ」
 「どうして?」
 「男の子と男の子ではコイビトって言わないんだって。でも僕佐伯とキスとかするよって言ったら、やっぱり困った顔で、やめた方がいいって言われたんだ。何で?って聞いたら、まだ周助にはわからないかもしれないわね、ってはぐらかされちゃった」
 不二はそこで一旦言葉を切った。そうして少しだけ首を傾げて、髪と同じ色をした眉尻を下げ、続けた。
 「ねえ佐伯、僕たちは悪いことをしてるのかな?」
 佐伯は言葉を捜した。不二が安心できる返答を懸命に考えた。
 「……不二は、俺とキスするの、嫌?」
 そう問えば不二は少しの間考える素振りをして、やがて静かに首を横に振った。
 「ならいいじゃん。だって俺は不二のことが好きだし」
 「うん、僕も、佐伯が好きだよ」
 そして彼らはまた小さなキスをした。
 「ねえ不二、俺たちのキスは、皆に秘密にしておこう」
 「どうして?やっぱり悪いことなの?」
 「悪くないよ。悪くないけど、少し変わってるかもしれないから」
 「男の子同士だから?」
 「うん、そうなるかな」

 佐伯はその頃既に、自分が少しイレギュラーであるということに気付き始めていた。小学校で周りの子供たちは”好きな人”の話が大好きで、からかったり恥ずかしがったりしながら嬌声を上げる。けれどその全てに於いて”好きな人”は異性であり、男の子は女の子に、女の子は男の子にだけ特別な感情を抱いていた。
 佐伯は女の子を可愛いと思うことはあっても、それはただそれだけのことで、自分を好きだという女の子がいても、笑ってありがとうと言うことしかできなかった。不二に対するように俺も好きだとか、キスをしようとかは思えない。かといって男の子にそういう感情を抱くかと問われれば、そういうわけでもなかった。彼は男の子が好きなのでも女の子が好きなのでもなく、ただ不二が好きだった。不二以上に綺麗で大切な存在なんてどこにも見当たらなかった。

 「僕は、変なの?」
 まだ少し哀しそうな顔をして不二が見上げる。違うよ、と佐伯は優しくその柔らかい髪を撫でる。
 「あくまでそう思う人もいるってだけだよ。俺は不二を好きになったことは、変だと思わないから」
 「じゃあ、やっぱり佐伯は僕のコイビト?」
 「うん、そうだよ」
 「僕は佐伯のコイビト?」
 「うん、そうだよ」
 きっぱりと肯定すると、不二はホッとしたようにその表情から哀しみを消した。そのことに、佐伯も心の中だけでホッと胸を撫で下ろす。
 「わかった、じゃあ秘密のコイビトなんだね」
 「そう、俺たちだけが知っていればいいことなんだよ」
 俺が不二だけを好きなように、不二も俺だけが好きならいいのに。心の底から佐伯はそう思った。不二が俺だけのことを考えていればいいのに。俺でいっぱいになればいいのに。
 そう思うと居ても立ってもいられなくなって、佐伯はそっと不二の唇を舐めた。ピクリと身体を震わせて、離れた不二が不思議そうに佐伯を見上げる。
 「今のは、何?」
 佐伯にもよくわからなかった。ただもっと不二に近付きたかった。うまく説明できなくて、何も言わずに再び口付けた。唇を重ねたまま何度かその隙間をなぞると、やがておずおずと不二も舌を出した。一度絡め始めるともう止まらなくて、佐伯は夢中でその温かい器官を吸った。その日初めて二人は長い長いキスをした。息苦しくなって不二が佐伯の袖を握り締めるまで、その口付けは続いた。

 小学校の高学年に上がる頃、佐伯は自慰を覚えた。自分の身体の中に特別な感覚を持つ器官が存在することを認識したのは、朝目覚めると時折下着が濡れるようになったすぐ後のことだ。
 何かいけないことをしているような背徳感に引き留められながらも、その場所に触れる手が止まらない。そしてある日、目の前の世界が弾け飛ぶような、別の次元に飛び立ってしまったような強い衝撃を感じた。身体も意識も拡散していくようなその感覚にはいっそ恐怖心すら沸き起こった程で、それでも一瞬後にはやけにクリアな意識だけがきちんと佐伯の元に帰ってきた。
 ——この感覚は何だろう。けれど、すごく気持ちいい。
 佐伯はそれを、不二に教えてやろうと思った。

 小学五年生の冬休み、スキー旅行と銘打って借り切っていた信州のコテージで、二人は温泉に浸かっていた。些か熱すぎる水温が真冬の凍り付く空気を冷やし、頭上に広がる星空を霞ませていた。のぼせた裕太は佐伯の父親に連れられ先に室内へと戻り、二人の他には誰もいなかった。
 「不二、いいこと教えてあげる」
 「いいこと?」
 佐伯は不二に口付ける。あの夏の日から時折するようになった絡み合う方のキスだった。その頃には二人とも慣れきっていて、互いを抱き締め角度を変えながらもっと深くと求めた。
 そうして佐伯はそっと、不二の下半身へと手を這わせた。知らない感覚に、不二は弾かれたように佐伯から身体を離した。
 「えっ、何?何するの?」
 「いいから」
 戸惑う不二の言葉を口付けの続きで遮る。
 「駄目だよ佐伯、汚いよ、そんなところ」
 「なんで?不二に汚いところなんてないよ」
 それにさっき洗ったじゃん。優しくそう言って、佐伯はゆっくりと未熟な不二の性器を擦った。自らが快感を覚えるときと同じように勃ち上がるその器官に頬が緩んだ。
 「気持ち良くない?」
 「わからない」
 湯の温度と羞恥心の両方で上気する不二の頬に佐伯は何度も口付けを落とした。
 「わからないけど、変な感じがする」
 佐伯に捕まって目を伏せる不二が愛おしくて、口付けを唇に戻して握る手を速めた。
 「駄目だよ、佐伯」
 一際高い声が上がり、不二の身体が震えた。張り詰めたように強張り、やがて力なく佐伯の腕の中へと崩れ落ちた。そこから液体が零れることはなかったけれど、佐伯は自分の知る快感を不二に与えてやれたんだと思って嬉しくなった。
 「気持ち良かった?」
 頭上から降る声におずおずと顔を上げ、少し考えるような素振りを見せたあと、不二は小さく小さく頷いた。佐伯は気取られないようにホッと胸を撫で下ろす。不二の嫌がることは、したくない。
 「でも、何で?何で佐伯はこんなことするの?」
 「不二が好きだからだよ。俺は不二に気持ち良くなって欲しいんだ」
 「僕が、好きだから?」
 「うん、キスと同じだよ」
 佐伯の言葉を噛み締めるように暫し考え込んで、不二の右手が濁った湯の中で佐伯を探した。
 「じゃあ、僕も佐伯にしてあげるね」
 とっくに勃起しきっていた性器に触れる手を払う理由は、佐伯にひとつもなかった。

 それから彼らはことある毎に、互いが快感を得られる部位や方法をたくさん探した。何年か前、千葉の海岸で約束したようにその全ては二人の秘密であって、誰も知らない彼らの世界は強固に守られ続けた。

 「この前さ、手塚にキスしようって言ったんだ」
 「え?」
 中学に入ったばかりの初夏だった。開けた窓から潮の香りが漂う佐伯の部屋。子供料金でなくなった電車に乗って、彼らは一人で天の川を渡れるようになっていた。
 「キスしたの?手塚くんと」
 その名前は中学に入った頃から頻繁に不二の口から紡ぎ出されるようになったもので、まだ佐伯はその顔すら知らなかった。テニスが上手くてものすごく真面目、そんな風に不二は手塚というそのチームメイトを語っていた。不二が佐伯に対し、互いの家族やテニスの技術、マイナーな神話や植物以外の話をすることは珍しかったから、佐伯にとってその名は異質だった。
 「それがね、なんかちょっと変な顔をされて」
 あ、手塚って無表情だと思ってたんだけど、最近表情がわかるようになってきたんだ、コロコロと表情を変えながら不二は手塚について熱心に話した。
 「不二は変わった冗談を言うんだな、だって。僕、冗談なんて言ってないのに」
 手塚は、僕のこと好きじゃないのかな。そう言って不二が哀しそうな顔をするから、佐伯は居たたまれなくなって、そんなことないよ、と微笑んでみせた。完璧な作り笑いだった。
 「不二は、手塚くんのことが好きなんだ?」
 「うん、好きだよ」
 佐伯の背中を冷たい汗が伝う。彼らは常に日常から離れた場所で二人ぼっちだったから、不二には不二の世界があるということを佐伯はすっかり失念していた。佐伯にだって佐伯の世界があるにも関わらず、佐伯にとっての不二は全て彼らの世界にのみ存在しているものだと思い込んでいた。
 「……じゃあ、俺と手塚くん、どっちが好き?」
 「そんなの選べないよ」
 どうしてそんなこと聞くの、とでもいうように眉を寄せて不二は言った。だって、と形の良い唇がその先を紡ぐ。
 「だって、好きの種類が違うもの」
 「へえ、どんな風に?」
 「佐伯とは一緒にいるとすごくホッとするんだ。落ち着くっていうか、穏やかな気持ちになれる。でも手塚を見てるとね、こう何ていうか心がすごくざわざわして、ちょっと息苦しくなるんだ。それなのに僕は彼から目を離せないんだよ。ね、比べられないでしょ?」
 その言葉に佐伯は絶望した。自分のものだと思っていた不二が、知らない場所で知らない人間にそんな感情を抱くだなんて。
 不二が手塚に抱く感情は、佐伯が不二にずっと抱いてきた感情そのものだった。そしてそれこそが恋で、不二は佐伯でなく手塚に恋をしている。そう思った瞬間、佐伯は今まで感じたことのない黒い気持ちが沸き上がるのを感じた。
 「ねえ不二、俺は不二が大好きだよ」
 「うん、僕も、佐伯が大好きだよ」
 祈るような告白に不二は笑顔で答える。幸福だと思っていたそんな遣り取りはもう佐伯を癒せない。自分が不二に抱く感情と、不二が自分に抱く感情が別のもので、佐伯の世界と不二の世界は独立した存在なのだと彼は初めて認識した。
 入りたい、と佐伯は思った。自分と不二の世界が別のものなら、彼の世界に入らなければならない。入って溶けて、ひとつにならなければ。でないと不二はどこかへ行ってしまう。佐伯に見える星を不二が見つけられなかったように、佐伯の手の届かないところへ不二が行ってしまう。
 「……だったら、俺が今からすること、許してくれるよね」
 その日初めて、佐伯は不二よりも自分の欲望を優先させた。

 幼い愛撫を繰り返してきた佐伯は、不二への入り口を既に見付けていた。何年もかけて解し、快感を得られるようにもしてきたその場所は、けれど佐伯の質量を受け止めるには狭過ぎた。
 「痛いよ、佐伯」
 「うん、でももう少しだから、我慢して」
 「どうしてこんなことするの」
 「不二のことが大好きだからだよ」
 「……キスと同じ?」
 「うん、だから、我慢してくれるよね?」
 せめてこれだけはと脂汗の滲む額に優しく優しく口付けると、辛い表情に少しだけ笑顔が混ざる。瞬間込み上げた罪悪感を振り切るように、一気に奥まで突き刺した。

 ーー今まで通りじゃないか。今まで通り、不二の白痴的純粋さを利用するだけだ。そうやって俺はいつも不二を丸め込んで恋人に仕立て上げてきたんだから、これからもそうしていけばいい。不二は俺のものだ。他の誰にも渡さない。この美しい存在は、俺だけのものなんだ。

 ぐったりと横たわる不二の髪を梳く。幼い頃から変わらない榛色の髪は、佐伯の指に絡むことなく滑り落ちる。薄く目を開けた不二が佐伯を見つけて少し笑った。
 「大丈夫?」
 「ちょっと、怠いかな」
 弱々しく言った不二の額に優しく口付けた。ずっと傷つけまいと守ってきておきながら引き裂いて、またそんな風に触れるのは狡い気がした。
 「……ごめんね」
 「何で謝るの?佐伯は、僕が好きだからしたんでしょ?」
 「うん、そうだけど」
 「だったら、いいよ。僕は佐伯が好きだから」
 「俺も不二が好きだよ」
 そして初めてのときと同じ、触れるだけのキスをした。きっと今不二は自分のものだと、祈るように佐伯は思った。

 それからは会う度に身体を重ねた。試合会場で初めて手塚を、その隣で花のように笑う不二を見た日には、不二が気を失うまで抱いて、失っても更に求め続けた。
 不二はそんな佐伯の全てを受け止め、笑う。好きだと言う。そして同じ声で、手塚を語る。佐伯が何をしても不二はただ美しく笑っていた。罪悪感と嫉妬心に溺れていく佐伯には、いっそ残酷な嘲笑にも見えた。
 繋がっている間、佐伯は確かに不二とひとつになれたような気がしたし、二人の世界はあくまで二人の世界なのだと認識しようとした。たとえ不二の気持ちが恋でなくとも、こうして受け入れられる限りそこには愛があると信じた。他の誰かが入り込む隙などないと祈った。けれど、やはり身体を繋げても不二は不二で、佐伯は佐伯のままなのだった。

 

ーーわかってる、わかってるさ、時は流れ移り変わっていく
 ーー誰もが新しい何かに手をのばす時が来たんだ、君だってそうさ

 中学二年の冬、再び静かな音楽が流れる不二の部屋。不二がレコードを選び、佐伯が泣いた。
 佐伯が何かをする度に不二はその声や仕草で反応する。どこをどうすれば不二が快感を得られるか、佐伯にわからない場所なんてない。不二は佐伯に与えられる快楽に溺れている。切なげな表情を浮かべて佐伯に縋り付く。
 佐伯は不二を抱く度に彼から手塚を追い出そうと、自身を注ぎ込もうと躍起になった。けれどどれだけ犯しても不二の中から手塚が消えない。佐伯に染まりもしない。途方に暮れて佐伯は泣いた。
 「佐伯?」
 見上げる不二は、初めてキスをした頃とちっとも変わらない。白痴的なまでの無邪気さで佐伯のことが好きだと言う。そんな彼につけ込んで支配しようと必死で汚そうとした。けれど今でも不二は清廉で美しい。醜く黒い感情に支配されていくのは佐伯ばかりだった。佐伯は泣き続ける。佐伯の涙の意味が、不二にはわからない。
 「ねえ、どうしたの」
 その意味はきっと、いつか他の誰かに教えられるのだろう。それは手塚かもしれないし、そうではないかもしれない。ただはっきりしているのは、佐伯ではないということだ。今までたくさんのことを不二に教えてきた佐伯が、一番教えたくて唯一教えられなかった意味。
 「不二」
 「なに?」
 「大好きだよ」
 「うん、僕も、」
 続くはずだった不二の言葉は、意味を成さない音と変わって消え失せた。突然激しくなった佐伯の動きに悲鳴に近い声を上げて、何かを言おうとしたことすら忘れているだろう。
 これで最後にしよう、霞む視界にあって尚美しい不二をその目に焼き付けながら、佐伯は決意する。ーーもう終わりにするんだ。不二が本当に欲しいものを自分の手で掴めるように、その手を離してあげなくちゃ。だって俺は不二を……。
 不二の嬌声と佐伯の嗚咽の隙間に、哀しげな歌声が入り込む。

 

ーーもう終わりにした方がいいんだ
 ーー僕が君を、紫の雨の中へ連れて行ってあげる

 「ねえ、不二ーーー」

 佐伯が呟いた言葉は、その瞬間意識を弾けさせた不二に届くことはなかった。やがて哀しいメロディが終わりを告げる。二人の思い出と共に。

 

ーー今はただ、紫の雨の中で君に会いたい

2012.9.25