誰かに何かを与えたいと思うなら、それはもう愛だ。与え得る物が何もないと嘆き手を離す、それもまた愛だろう。
愛し方は人により、また時により様々であって、一様な正解など存在しない。そして、報われる愛の形というものは、現実問題そう多くない。
嘘吐きたちのサイコロゲーム
静けさを取り戻したラウンジの隅、乾いた衝撃音だけが規則的に響いている。テニスボールがラバーコートに跳ねる音に似ているが、それより幾らか軽い。タン、タン、タンと三つ続いて間が空く。磨き上げられた床を密やかな足音が滑り、また三つ音が鳴る。
目の前を走る矢を、或いは飽きもせず往復する影を、跡部はじっと見ている。目で追っているわけではなかったから、見ているとすら言えないかもしれない。椅子に腰掛け、腕と脚を組んで正面の壁を睨む跡部には、眼前の光景が半分も見えていない。
「樺地は?」
何度目かに聞いた三つの音の後、そのままの体勢で跡部は言った。
「もう寝とるよ」
仁王は放った三本の矢を回収するために、何度目かで跡部の前を通る。立ち止まりはしないし、目をくれることもない。
「てめぇ、あいつに何しやがった」
「別に、なんも」
円形をした的の上部中央、内側の細いライン上に刺さった三本の矢をまとめて引き抜き、仁王は言った。
「何回かお前さんの声借りたら、ついて来るようになっただけナリ。よっぽど恋しかったんじゃろ」
また仁王はきっかり二メートル三十七センチを引き返す。その途上、それも肩から下だけが跡部の視界に入る。手の中にあるハードダーツの先が落とされた照明に鈍く光っている。視界の上部に白い毛束が揺れる。
「なら何故あいつは帰ってこねえ」
「知らんよ」
タン、タン、タン。小気味良いテンポで乾いた音が響く。三本の矢が先程から正確に二十トリプルを射抜いていることを、ボードに目を向けない跡部は知らない。知る必要もない。
「俺は他人の心まで弄れるわけやないけぇの」
「じゃああいつの意思だとでも言うのか」
「それ以外の何があるぜよ?」
左から右へ、仁王の影が跡部の視界を横切る。仁王は集まった三本の矢を片手で引き抜く。右から現れた仁王の影は、しかし今度は消えることなく跡部の目の前で止まった。
「返してほしいか?」
ここで初めて跡部が肩から上の仁王を捉える。暗い照明の中、白い髪がやけに目立っている。
「樺地はてめぇのもんじゃねーだろ」
「お前さんのもんでもないがの」
跡部は立ち上がった。見下ろされることに慣れていない。彼らの目線は全く同じ高さで交差した。
「本当にあいつがお前の方がいいってんなら無理強いはしねーよ」
「殊勝じゃの」
「言っとくが俺は一度もあいつを縛ったことなどない」
「俺もないぜよ」
同じ高さで彼らは見つめ合う。跡部は睨んでいるし、仁王は少し笑っている。
「樺地はええ、あいつは鏡じゃ。愛せば必ず返ってくる」
「わかったような口を聞くな」
突然仁王は振り返り、矢の一本を的に放った。尖った先が斜め四十五度の角度から正確にインナーブルを抉る。
「で、待つんか?」
「そうするしかねーだろ、お前が本当に何もしてないってんなら」
「それがお前さんの愛なわけね」
「愛だと?」
答えない仁王が二本目を投げる。二十トリプルに刺さる矢を、跡部は初めて目で追った。
「……うまいもんだな」
「まさか、今のはインブル狙いじゃ」
ナイスキャッチ、と意味のない自画自賛で仁王が戯ける。
「投げてみんしゃい」
最後の矢を指先で転がしながら仁王は言った。跡部は暫しその指先を見つめ、組んだ腕を解いて矢を奪う。
「ここからか」
「どっちでも」
跡部はスローイングラインに立った。二メートル三十七センチ離れた的を見据える。斜めに刺さった二本の矢の所為で、右側は狙えない。
「指定はあるか?」
「インブル。入れたら身引いたってもええぜよ」
跡部が座っていた椅子に仁王が腰掛ける。片脚を行儀悪く抱え込み、膝に頬を乗せている。跡部は一瞬だけ仁王を睨み、それからインナーブルだけを見つめた。外周がぼやけて仁王も目に入らなくなる。意識の一本化は得意だった。
跡部の手から矢が離れる。緩い角度の放物線は真っ直ぐに的の中央へと向かう。跡部はフォロースルーの指先を見つめた。僅かに眉を顰める。少しだけ左に寄っていた。タン、と乾いた音が響いた。仁王が立ち上がり、ゆっくりと的に近付く。
「……残念、シンブルじゃの」
刺さった矢はインナーブルの僅か左、アウターブルの赤いラインに引っかかっていた。
「気に入らねぇ」
吐き捨てるように跡部は言った。左手を矢に掛けていた仁王が振り返る。
「何が?」
「ダーツなんかに樺地を賭けるな」
仁王はボードに向き直り、一本ずつ矢を抜く。四十五度に突き刺さる二本の矢から抜いていく。跡部の一投は最後に回された。
「賭けたんは樺地やない、俺自身ぜよ」
「何だと?」
「俺自身の樺地への愛」
仁王はアウターブルから最後の一本を抜いて、腰に下げていたケースに収納した。跡部はずっとスローイングラインに立ち尽くしている。
「ふざけたことばっか抜かしてんじゃねーよ」
「俺はいつでも大真面目ナリ」
仁王は言葉の内容となるべく合わない話し方を選ぶ。二メートル三十七センチ離れて二人は向かい合っている。合宿所は静まり返って、夜の気配以外何も感じられない。
「くだらねえ」
最後にそう言い置いて、跡部が踵を返す。仁王は目だけでそれを追う。おやすみ、と聞こえない声量を計算して呟いた。
テーブルの上に硬質で軽い音が転がっている。赤地に白と白地に赤、二つのサイコロがぶつかり、跳ねる。傍に座る仁王と樺地が出目を覗き込んでいる。赤地が三、白地が五でサイコロは樺地に渡る。
「八出したらお前さんの勝ちで、七出したら俺の勝ちな」
「……ウス」
樺地がサイコロを振った。赤地が三、白地が六。仁王が二つのサイコロを掴み取る。
「ベット無しでクラップスなんかやって楽しいか?」
跡部は二段ベッドの梯子に凭れかかり、樺地の斜め前、つまり仁王と並行に立っている。腕を組んでサイコロを目で追っている。
「何、混ざりたいんか?」
「どうなったらそうなるんだよ」
仁王は跡部に答えるだけで、転がしたサイコロを見ている。止まったサイコロは赤地が二、白地が五を示した。セブンアウト。仁王が小さな呻き声を上げる。
「今ので樺地の勝ちじゃ。ルールわかったかの?」
「……ウス」
「ならもう一回じゃ。次のシューターはお前さんな。ナチュラルとクラップスはもうわかるな?」
頷く樺地に仁王はサイコロを握り込ませる。両手を使い、いっそ白々しいほどの甲斐甲斐しさで樺地に接する。
樺地がサイコロを投げる。二のゾロ目。
「次は四が勝ち目ぜよ。七で負けは変わらんけぇ」
仁王がサイコロを振る。五と六で十一。そのままサイコロを樺地に渡す。
「で、何しに来たん」
向き直るでもなく、声色だけを僅かに変えて仁王は言った。誰に向けた言葉かは、誰にでもわかる。
「お前に話がある」
跡部は樺地の手元を見ている。全員がその手に注目している。全員と言っても、三人しかいない。
「樺地のことなら昨日話したじゃろ」
「今日は別件だ」
視線の絡まない会話の間で、樺地がサイコロを振る手を緩める。気にすんな、と二つの声が重なって彼らは少し可笑しくなる。それでも樺地の手元を見ている。サイコロの行方を追っている。彼らは決して互いを見ない。
声に押されて樺地が二つの立方体を投げ出す。それらは力無く転がって、摩擦の弱いテーブルを滑る。赤地が一、白地が三。
「……のう跡部、樺地強いんじゃけど」
「知るかよ、てめぇが弱ぇんじゃねーの」
たかが確率ゲームだ、と彼らは知っている。知っているから簡単に強弱を論じる。これがテニスなら、こうはいかない。
「もう一回!次もお前さんからじゃ」
「……ウス」
「おい、樺地」
低く響いた声に、仁王が手渡したサイコロが樺地の手を擦り抜けて転がる。一つは床の上、跡部の足元で止まった。跡部はそれを気にかけない。自らの声に樺地が反応したことに安堵している。
「俺様はこいつと話があるんだ、少し席を外せ」
樺地は暫し、向かい側の二人を交互に見た。仁王は床に転がった白いサイコロを見ていて、跡部は樺地を見つめている。仁王は無関心に、跡部は祈りを交えて沈黙を守っている。
「……ウス」
樺地は一番新しい命令を遂行した。彼にとってはそれが唯一と言っていい正義だった。
「俺様の部屋にいろ。そのまま寝てもいい」
「……ウス」
樺地は立ち上がった。出口に向かう道すがら、仁王がぼんやりと眺めている白地のサイコロに目を止めた。もう一度仁王と跡部を見遣って、そのサイコロを拾い上げる。テーブルの上へと静かに置いて、ゆっくりと、けれど真っ直ぐに部屋を出て行った。
二人になった部屋の中、彼らはまだ並行なままでいる。樺地が置いて行った白いサイコロを見ている。いつも快適な温度に調整されている空調の音がやけに目立つ。
仁王は白いサイコロを摘み上げた。親指と人差し指の二本だけを使って、目線より少し上まで持ち上げる。跡部から彼の表情は見えない。だからサイコロを見ている。
「樺地って、お前さんの声が好きなんじゃな」
「あーん?当たり前だろ」
仁王がサイコロから指を離した。重力に従い、回転しながら立方体は落ちていく。彼らはそれを見ている。実際の速度より少し遅く見えている。時間の延長を彼らは感じた。永遠に到達しないと思われた机に、けれどもちろんサイコロはぶつかる。大きく跳ねて再度磨き上げられた木目を打ち、惰性のように転がっていく。そうして目を定めるより先にテーブルの端に到達してしまう。再び抗力を失いかけた刹那、跡部の手がサイコロを捕らえた。
「お前に頼みがある」
サイコロを追っていた仁王の目がゆっくりと上がる。跡部の瞳を初めて見る。瞳孔が引き締まり、碧さが際立っている。
仁王は机に向き直り、正面を指差した。
「座りんしゃい」
跡部は掴んだサイコロを手放して、樺地が座っていた席に腰を降ろした。斜めの角度で、十分な空間を使って脚をゆったりと組む。演出的な尊大さで仁王を見た。
突然、無表情だった仁王が破顔した。
「何して遊ぶ?」
「あ?」
「カードはブン太に貸しとるんよ。お前さんとクラップスやってもおもんなさそうじゃけぇの」
仁王は立ち上がり、勉強机の下に置いていた荷物を探り始める。跡部はあからさまに眉を顰めた。
「どういうつもりだ」
「オセロ?バックギャモン?チェス……は、こないだ白のルーク失くしたんじゃった」
丸い背の向こう、修学旅行のように浮かれた荷物が見え隠れする。跡部は聞こえるように舌打ちを放つ。
「おい」
「あ、これにしよ」
そう言って仁王は立ち上がり、振り向いた。手には二つのダイスカップが握られている。
「ライアーズ・ダイス」
仁王は一見無邪気と見間違える笑顔を貼り付けている。跡部の苛立ちを知っている。
「ふざけてんじゃねえよ」
「お前さんが勝ったら何でも言うこと聞いちゃるよ」
仁王は席に戻り、二つのダイスカップを同時に伏せた。ジャラリ、と中からあまり耳触りの良くない音がして、それが余計に跡部の神経に触る。
「内容くらい聞いてからにしやがれ」
「俺が勝てば同じナリ」
仁王はあくまで跡部の目的に興味を持たない。或いは持たないフリをする。その違いが跡部にはわからない。
「……好きにしろ」
投げ遣りに跡部が言って、仁王は笑顔から無邪気さだけを取り去る。残った薄い笑みのままでダイスカップの一つを差し出す。
「いつもこんなガラクタ持ち歩いてんのか?」
引き寄せて開いたカップの下には、サイズも材質も違う五つのサイコロが身を寄せ合っていた。そのうち三つを傍に除け、残りの二つをカップに入れる。カラン、と渇いた音がした。
「退屈が嫌いなんよ」
仁王のカップの下には三つしかサイコロが隠れていなかった。それを放置し、樺地と使っていた赤と白のサイコロを器に入れる。
二人同時にカップを伏せる。
「オープン」
跡部が二と四で六、仁王が四と五で九。
「本当に俺様が勝てば何でもするんだな?」
「しちゃるて。しつこいのう」
「オールマイティは六だったか?」
「それはブラフじゃろ。一ぜよ」
五つのサイコロがそれぞれのカップに収まる。ジャラリと大きく鳴り合って、二つのカップがテーブルにぶつかる。少しだけ浮かせて、中身を覗き込む。仁王のベット。
「五が五」
「いきなりか」
跡部はもう一度カップの下を覗く。少しだけ考える素振りを見せ、仁王を見据えて口を開く。
「五が六だ」
「ライアー」
間髪入れずに返ってきたコールを不審に思いながら、跡部は手を開く。一が二つに五が二つ。残りの一つは二。
「そんな持っとったんか」
遅れて仁王が手を開く。二が二つに三、四、六。一も五も無かった。
「……てめぇ」
「何?」
仁王は五つのサイコロを集め、淡々と次のラウンドの準備に入る。
「見えてんのか?」
「まさか、たまたまぜよ」
跡部は仁王を睨みながら三つだけをカップに放り込み、残りを中央に押しやる。
「挨拶代わりナリ。てっきりすぐチャレンジすると思ったがの」
「ふざけやがって」
またけたたましい音が鳴って、カップが伏せられる。サイコロ二つの差が少しだけ音の種類に隔たりを与える。最初のベットは跡部。
「二が一」
「えらい守りに入るのう……三が一」
「何とでも言え。五が一」
「六が一……そろそろ賭けの内容でも聞かせてもらおうかの」
「二が二」
跡部は仁王を見る。仁王は首を傾げて見せる。口元にはずっと薄い笑みが浮かんでいる。
「……明日、俺様とダブルスで出ろ」
跡部は簡潔にそう言ってから、注意深く仁王を観察した。驚きは見えない。笑みも消えない。予測していたようにも、どうでもよさそうにも見えたし、そうであるからこそ興味を持ったようにも思えた。
「五が二……俺が?お前さんと?」
「一軍に勝つにはそれが最善なんだ。二が三」
「俺もうバッジ持っとるんじゃけど?四が三」
仁王は窓際、カーテンレールに掛けられたジャージを指差した。跡部のものとは違う黒いジャージの襟元、つけられたバッジが光を反射している。並んで掛けられているサイズの大きい、けれど同じく黒いジャージも同様だった。
「六が三……知ってるに決まってんだろ。だがお前しか駄目なんだ」
「何それ口説き文句?……二が四」
「Liar」
開けられたダイスカップの下、彼らは一を一つずつ持っていたが、二はどちらにも無い。仁王がサイコロを一つ失う。仁王は悔しがらなかったし、跡部も喜ばなかった。
「発音ええのう」
「母国語だからな。当たり前だろ」
次のラウンドを、仁王は”三が三個”から始めた。
「で?なして俺?」
跡部は少し間を置く。まだラウンドは始まったばかりで、仁王の質問について考えている。正確には、質問に正直に答えるか否かを。ダイスカップから手を離し、腕を組んで左手で顔を覆う。それは一種の癖で、指の隙間から仁王を睨みつける。
「お前、今どのくらい手塚になれる」
「……まあそれじゃろな」
質問には直接答えないで、仁王は覗く碧い瞳を真っ直ぐに見返す。それで十分に伝わることを、彼らは知っている。跡部が薄く笑って、仁王もそれに倣った。跡部は手を降ろす。仁王は頬杖をつく。
「しかしお前さん、そんなに手塚が恋しいっちゅーなら、引き留めりゃあよかったじゃろ」
「そういう問題じゃねーだろ。あいつのためだ」
「まあ、そういう愛もあるのう。ベットは?」
「四が三」
「ライアー」
跡部の手、一・二・四。仁王の手、二・四・五・五。
「残念だったな」
仁王がまた一つサイコロを失い、彼らのライフは同数となる。期待値よりも自らの読みが勝負を決め始める。
「で、お前さんは何を賭けるんじゃ?」
四回目のラウンド、カップを伏せ、ベットを宣言する前に仁王が言った。
「何?」
「俺が負けたら明日の試合に出てやるぜよ。お前さんが負けたら?」
彼らはまだダイスカップの下を覗いてはいない。跡部はテーブルから離れて腕を組み、窓辺にかかった黒いジャージを見遣った。並べて掛けられた二つのうち、サイズの大きい方を見ている。仁王は辛抱強く返事を待つ。左手をカップに掛けたまま、跡部の横顔を見つめている。片方だけ見える碧い目は少し細められている。
「てめぇの言う愛ってのは」
やがて跡部がそのままの体勢で呟くように言った。
「何の愛だ?」
左手はカップに添えたまま、右手で頬杖をついて仁王もジャージを眺めた。自分が所有するものを見る目ではない。黒い二着のジャージも襟についたバッジもひどく他人事のようで、けれど同じ方向に向く跡部はそれに気付かない。
「何でもええぜよ、家族愛でも隣人愛でも友愛でも、恋愛でも」
目線をダイスカップに移して仁王は言った。伏せられた頂上の平らな面を、短く切り揃えた爪で叩く。カツカツとプラスチックの安い音が鳴る。苛立ちではない。退屈でもない。
「お前と同じでいい」
跡部は正面を向き直った。組んでいた腕を解いて右手をダイスカップに掛ける。
「同じって?」
「昨日のお前が賭けたやつだ」
跡部の言葉に、仁王は口角を上げてみせる。跡部も同じ種類の笑みを浮かべた。そして彼らは自らのサイコロを覗き込み、騙し合いに戻る。
第四ラウンド、跡部がチャレンジを外し、二対三。第五、第六ラウンド続けて仁王は一つずつサイコロを失うも、第七ラウンドでチャレンジ成功を収めた。
揺れるダイスカップは大きな音を鳴らさない。両者手持ち一つずつで最終ラウンドへ突入する。ベットは跡部から始まる。
「二が一」
「三が一」
彼らはまず用心深く、一つずつベットを上げる。たった二つのサイコロに期待値も何もない。ただただ互いのカップの下にある目を探り合う。いっそ我慢比べだ。
「四が一」
「五が一」
互いのコール以外、響く音は何も無い。空調は慣れ切って背景に溶け込み、脳はその刺激を麻痺させている。この部屋で二人きり残されたときには微かに聞こえていた廊下の、あるいは他部屋の喧騒ももう聞こえない。互いの息遣いや僅かな骨の軋みさえ感じ取れる。
「六が一」
跡部がそう宣言した後、ゆっくりと、しかし一定のリズムで積み上げられていたベットがここでペースを乱す。跡部は仁王を見た。仁王は既に跡部を見ていた。同じく色素の薄い、けれど色味の違う瞳が真っ直ぐに跡部を射抜いている。やがて仁王が口を開く。
「お前さんの愛し方じゃあ、何ひとつ手には残らんぜよ」
「何だと?」
続くはずの宣言が出て来ない。それは跡部に焦燥をもたらす。跡部は自分の出目を思い出す。嘘吐きだと言われても問題ないはずだった。冷静に仁王の言葉を分析する。
「欲を殺した愛は報われんよ」
「てめぇはどうだってんだ」
「試してみるか?」
「どういう意味だ?」
仁王はすぐには言葉を続けない。跡部の背中を冷たい感覚が駆け上る。仁王が溜めているのは跡部への答えではない。それに気付いたときには、もう遅い。
「六が二」
跡部は目を見開く。ここで跡部にチャレンジ以外の選択肢はない。サイコロは全部で二つしかない。跡部はもう一度ダイスカップの中を覗いた。赤地の立方体、テーブルから最も遠い面には白い点が一つ。一対一の最終局面では諸刃の剣で、それでも跡部はチャレンジに対する強気を元に仁王を探っていた。その慢心を見抜かれたと悟るには充分な間だった。
「……Liar」
今までで最も流暢な発音で跡部は言った。それは敗北宣言に等しかった。跡部は赤いサイコロを晒す。
「守るだけじゃあ、何も掴めんぜよ」
時間をかけて、実に効果的に仁王はカップを持ち上げる。まず白い筐体の下部が姿を現す。それから赤で打たれた点が見えて、その点は数えるまでもなく三つしかない。影になっていた隣の面にも光が射す。最初に見えた二つの点の幅から考えて、六ではない。その時点で負けは確定するが、跡部にはその先に待つ目がわかっている。仁王の自信の由来はそこにしかない。跡部の方がほんの少し、気付くのが遅かった。
最後に最上部の面が現れる。跡部の予想した通り、そこには赤い点が一つ。
「俺の、勝ち」
仁王はそう言って、ダイスカップを手から離した。丸みのある側面から落ちたそれは一度軽く跳ねた後、扇状に転がってテーブルの端から落ちた。床とぶつかる安っぽい音は徐々に間隔を狭め、やがて聞こえなくなった。
「嘘吐き呼ばわりした方が負けって決まってたわけね」
「俺らには見えんところでな」
仁王は今日一番の凶悪な笑みを浮かべ、跡部は空を振り仰いだ。もちろんそこに星など見えず、シミ一つない天井に味気ない蛍光灯があるだけだった。跡部を慰めるものは何も無い。蛍光灯の光から守るように右手で碧い瞳を覆った。
そのまま黙り込む跡部を気にするでもなく、仁王は最後に残った二つのサイコロを左右それぞれの手で掴んだ。目の高さまで持ち上げ、指先でくるくると回す。
「一つ聞いてええか」
「何だ」
体勢はそのまま、跡部は目線だけを下げた。少し浮かせた右手の下から仁王を捉える。回るサイコロの向こう側から視線が交差する。
「お前さんは、手塚のテニスが欲しいんか?それとも手塚自身が欲しいんか?」
跡部は右手を降ろす。背凭れに預けていた体をゆっくりと起こす。仁王はサイコロを回す指先を止める。
「何言ってんだてめぇ、手塚は手塚だろーが」
「そうか」
仁王は両手で摘まんでいたサイコロを左手にまとめた。そのまま宙に放り、また掴む。二つのサイコロがぶつかるときにだけ音が鳴る。
「邪魔したな」
跡部は立ち上がった。ポケットに手を突っ込み、樺地が出て行った扉に足を向ける。仁王が口を再び開いたのは、跡部が一歩目を踏み出すその刹那だった。
「明日、出てやってもええぜよ」
片手で二つのサイコロを弄びながら仁王は言った。振り返った跡部の表情に驚愕と喜色が浮かび、すぐに冷静が貼りついた。仁王はその全てを見ている。
「何言ってやがる、俺は負けただろうが」
「もちろん。じゃけぇ、条件がある」
パシ、と器用に弄んでいた二つのサイコロを宙で掴み、仁王が身を乗り出した。上目遣いで笑っている。跡部は頭の中で色々なものを天秤にかけている。この場でどこまでプライドを尊重すべきか考えている。
「言ってみろ」
「お前さん、俺と寝られるか?」
今度こそ跡部は目を見開いた。ポケットに手を突っ込んだまま、強張った表情で仁王を見据える。消えない感情の発露を確認して、仁王は満足感を隠そうともしない。
「……ふざけるな」
「ふざけとらんよ。無理ならゲームの結果通りになるだけじゃき」
体を引いて、仁王はまたサイコロを弄ぶ。それは最後の一勝負に使ったサイコロで、その行方を仁王は引っくり返そうとしている。
「これは譲歩ナリ」
金縛りのように仁王を見つめたままの跡部を横目に、更に言葉は続いた。
「お前さんはゲームに負けた。本来ならそれで仕舞いなとこに、チャンスを残してやっとるんよ」
跡部の頭の中で天秤は揺れる。載せるものが何かわからなくなっている。
「俺と寝るっちゅーなら樺地も諦めちゃるよ。お前さんの愛を守らせちゃる」
「……てめぇはどうなんだよ」
上半身だけを捻っていた体勢を崩し、跡部は二段ベッドの梯子に背を凭せかけた。腕を組み、この部屋に来たときと同じ姿勢を取る。違っているのは、跡部は仁王を見下ろしていて、仁王は跡部を見上げているというところだ。
「俺様と寝ることがてめぇの愛だとでも言うのか」
跡部は意識的に尊大さを取り繕う。手塚と樺地のことを考えている。仁王はそれらが醸し出す複雑な空気を捉え、咀嚼するようにゆっくりと笑った。
「そうかもしれんし、そうならんかもしれん」
「どういうことだ」
「賭けぜよ」
仁王はサイコロを転がした。三と四の目がテーブルを滑る。期待値通りの出目がいやに皮肉だった。
「お前さんは手塚への愛を賭ける。俺は俺自身の愛を賭ける」
「どっちが勝ったらどうなんだ?」
「ちっとは頭使いんしゃい、どう転んでも明日俺は出る」
何が勝利を決めるのかもわからないのに、跡部に理解できるはずもない。わかるのは、自分の選択が導く結果だけだった。
カーテンを閉めた寝台の中で二人は対峙している。枕を背もたれに、立てた片膝に肘をついて、指先で頬を支える仁王の眼が真っ直ぐに跡部を捉えている。同じく片膝は立てて、けれど後ろに手をつく跡部の背は反って彼の視線は見下すように仁王へ届く。余った脚を、仁王は投げ出し、跡部は折り込んでいる。跡部の方が総じて少し過剰防衛だった。
「するならさっさとしろ」
不機嫌さを隠さない跡部の声は柔らかい布に反響し切れず篭って響いた。仁王は動かず跡部を見つめ続けている。跡部の眉間に増える皺を数えているように見えて、それがまた一層跡部の表情に敵意を塗る。
やがて耐え切れない、と言うように頬を支えていた指に逃げ込み仁王は小さな笑い声を上げた。表情だけで嫌悪感を表すことに限界を感じた跡部はわかりやすい舌打ちで応えた。
「何がおかしい」
「何か勘違いしとりゃあせんか?」
顔を埋めていた指先、少しだけ角度を変えてその隙間から仁王の瞳がのぞく。光の遮られた空間では普段より暗い色をしている。普段の色を思い出せるほど跡部は仁王を見つめたことがなかった。仁王の意図を測りかねて跡部は片眉だけを上げてみせる。
「どういうことだ」
「お前さんが俺を抱くナリ」
戯けた口調で出た言葉に、注意深く見ていなければわからない範囲で跡部の眼が大きくなった。正しく捉えた仁王はまた笑って、ゆっくりと体を起こす。跡部の筋肉が少しだけ強張る。
「俺様が、てめぇを?」
「女相手と変わらんけぇ、楽じゃろ」
仁王に倣って、跡部も体を起こす。できるだけ稼いだ時間が腹筋に負荷を与える。向かい合って彼らは見つめ合う。互いを伺い、牽制し、言うべきこととするべきことを見極めている。
「……脱げ」
諦めたようにそれだけを言って、跡部は目を逸らした。寝台に入って初めて逃げた視線はベージュ色のカーテンに遮られて他の何をも映さなかった。そのカーテンを振り払って出て行くならば今が最後だと気付いている。
跡部の耳に布ずれの音が届く。仁王の手は迷いなく自らの服の裾を掴み、いとも簡単に裸体を晒す。服が頭部を抜ける僅かな合間だけ跡部が視界から消えたが、彼自身は消えなかった。
「下も?」
「いや、いい」
一度逸らした視線を戻すことは、逸らすことそのものよりも気力を必要とした。跡部はぐっと眼を瞑る。きっちり三秒数えて、先に体を仁王に向けた。カーテンの外とは決別した。ゆっくりと眼を開く。
薄闇に仁王の肌は映える。陽の当たる部分ですら白いのだから、服に隠されていた部位はいっそ発光しているかの如く青白い。その白さに誘われるように、それでも十分な時間をかけて跡部は体を寄せた。大した距離があったわけでもないのに、永遠のように思えた。
そっと指先を近付ける。仁王は震えていればいいのに、と注意深く観察する。跡部は震えないよう意識の一本化を避けている。伏せがちに震える仁王の睫毛を見ている。
まず頬に触れる。想像以上に跡部にとっては冷たく、仁王にとっては熱かった。そのまま指を滑らせて、首筋を撫でる。掌の温かさに仁王は気分良く目を細める。それは少し跡部の緊張を解す。勢いに乗った掌は鎖骨を通り、骨格の目立つ肩へと辿り着く。
体重をかける。いとも簡単に仁王は後ろに倒れる。長らく背もたれとしてしか機能していなかった枕が本来の役割を思い出し、仁王を受け止めた。左手で自らの体重を支える跡部は、触れたままの右手を滑らせる。離してはいけないような気がしている。掌の下では確かな筋肉の手応えがある。左胸の中央まで降りたとき、その平坦さに戸惑いが滲んだ。
「勃つか心配しとる?」
動きを止めた跡部を見透かすタイミングで仁王が言った。掌はそのままで、跡部は視線だけを仁王の眼に向ける。
「心配しなさんな、無理矢理にでも勃たしちゃるけぇ」
仁王は瞳を楽しげに細めている。言葉の意味を汲み取って、跡部は不快感を顕にした。しなくてもいい想像が街頭テレビの如き無遠慮さで脳内に映し出される。背中を冷たい感覚が駆け抜けた。少しだけ快感に似ていた。
「黙れ」
胸に置いていた掌を仁王の口元に押し付ける。仁王の眼はより愉悦を深める。
「見るな」
今度は掌が仁王の双眼を隠す。再び表れた口元がニヤリと弧を描く。白い肌にポツンと浮く黒子が目を引く。
「耳も塞いじゃろうか?」
「黙れと言ったはずだ」
噛み付くように唇を唇で塞いだ。薄い唇がそれでも笑みに歪む感触があったから、強引に割り入る。跡部は目を閉じた。仁王の目は跡部の掌を舐めた。仁王の手が跡部の服を掴み、やがてそれが脱がされて素肌に変わるまで口付けは続いた。戸惑いを忘れるには十分な程度に熱が上がっていく。熱が全てを正当化してくれる気がして、彼らは素直に身を委ねる。
寝台の中、彼らは背を向けあって横になっている。先程まで高まっていた熱は開けたカーテンから拡散していくばかりだった。どちらも眠ってはいない。取り返しのつかない気まずさを感じている。
「これで満足かよ」
「……約束は守るぜよ」
空いた空間に噛み合わない会話が響く。部屋には空調が効いているはずなのに、彼らの背中は外の風のように冷たい。体温は包む何かを持たなければ逃げる一方で、それ単体では周囲との境界を際立たせるだけに過ぎない。
「で、賭けはどっちが勝ったんだ?」
「焦りなさんな、明日わかる」
跡部は静かに起き上がった。手探りで集めた服を手早く着込む。仁王はただ布ずれの音を聞いている。跡部の体温は跡部に還元され、仁王の体温は拡散を続けている。
「部屋戻るんか?」
「いや、あっちには樺地が寝てる。俺様は隣のベッドで寝る」
「冷たいのう」
心の籠らない呟きを跡部は無視した。乱暴に布団だけを掛けてやり、寝台を抜け出す。ひとつ大きく伸びをする。テーブルの上には三と四のサイコロが置かれたままになっていた。結局何の役割も果たさなかったただのオモチャだ。
「お前の愛ってのは哀しいな」
跡部はテーブルの上、二つのサイコロを手に取った。少しだけ手の中で弄び、コロリと転がす。出目は四と六だった。
「お前の愛も、の間違いじゃろ」
壁を見つめたまま、呟くように仁王は言った。中途半端に掛かった布団を整えもしないで、体温を逃がし続けている。
「否定はしねぇよ」
サイコロを指先で弾きながら跡部は言った。明日は頼んだ、ともう一度だけ念を押して跡部は反対側の寝台に潜り込む。テーブルの上には一のゾロ目が佇んでいる。サイコロゲームに意味はない。セックスと約束、二つの事実だけが夜に転がっていた。