シーン29。審判がコールを掛けると同時に、彼は駆け寄ってきた。
「やりましたね、白石さん!」
「切原クン」
ええ感じやったで、と笑いかけると切原は至極嬉しそうな、それこそ天使という喩えがぴったりくるほどに純粋な笑顔を見せた。
「俺、なんか知らねーっすけどすっげーのびのびプレイ出来ました!こんなの初めてかもしれないっす!」
にこにこと、小型犬のように懐いてくる。これが悪魔と呼ばれていた少年なのだろうか。やりやすい試合だったのは、白石も同じだった。自分の言葉が真っ直ぐに彼へ落ち、テニスボールの如く強い弾性率で跳ね返ってくる感覚。試しにふわりと髪を撫でると、切原はもう一度、天使の微笑みを浮かべた。
この感覚は初めてかもしれない。何だか、ひどく癒される。
シンプルストーリー
シーン45。コーヒー豆と、トーストに溶けるバターの香りが充満する朝の食堂。栄養管理よりむしろ精神的満足を重視しているようなバイキング形式の朝食は、時間にも幅が持たせられ、皆思い思いのタイミングで各自が好む朝の始め方を実践している。
「何なんお前ら、毎日こんなええモーニングやったんか?」
「せやで。自分らは?何食っとったん?」
目にも留まらぬ速さで集めてきた食材を掻き込み早々に食事を終えた忍足は、今に始まったことではないからと別段ペースを合わせるでもなく味噌汁を啜っていた白石を恨めしげに見ていた。
「川で魚釣るか山で山菜漁るか、見つからんかったらメシ抜きや」
「そら難儀やったなあ」
忍足が合宿所を去らなければならなかった直接の原因は白石だった。けれど元より勝敗で全てを決めてきた彼らは必要以上にそのことを掘り返さないし、「おかえり」と「ただいま」、その挨拶だけで丸く収まり、当たり前のように食卓を共にする。ある程度互いを知り尽くしていることでもたらされる共鳴、安心感。共にチームを作り上げてきたからこその絆がそこにはある。
「金ちゃんも見つかったみたいでよかったわ」
「ああ、なんや越前と二人でコーチに拾われてきてん」
合宿へ来て早々行方不明となった後輩には頭を痛めるばかりだった。無邪気で可愛いけれど、一秒たりとも大人しくしてくれない遠山を抑え付けることは、少し前まで白石にとって最大の悩みの種だった。子供騙しの嘘で乗り切ってはいたが、所詮はその場凌ぎで根本的に解決していたわけではない。
「金ちゃん、周りに迷惑掛けてへんかったか?」
元気な姿を見て心底ホッとした一方で、数週間もの間他人と共同生活をしていたと考えれば心中穏やかでいられなかった。聞かれた忍足の方は、んー、と少しばかり考える素振りを見せて、別に、と首を振った。
「ほとんど越前追いかけ回しとったからなあ。他は大丈夫やったと思うで。立海の真田によう懐いとったけど、迷惑っちゅー感じでもあらへんかったし」
「え、真田クン?」
思いがけない名前を聞いて、箸が止まる。
「意外やろ?結構面倒見ええとこあんねんな」
確かに意外だ、と思った。遠山が世話になったならば、あの堅物の塊みたいな彼に礼のひとつでも伝えた方がいいかと考えたが、瞬間それを振り払う。この合宿ではそれぞれがそれぞれなりに新しい関係を築いていっているのだし、それらは全て当人の間で培われるものだ。大体、白石はもう部長ではない。
「そっちは?師範はまあ問題ないやろけど、千歳とかちゃんと真面目にしとったん?」
「……ぼちぼち。橘クンおるし、俺は別に気に掛けてへんわ」
「ああ、やっぱ橘の言うことは聞くんや」
「言うこと聞くっていうより、あれは橘クンの扱いが上手いって感じやな」
白石は意識的に淡々と答えた。事実合宿所へ来てから千歳とそう多くの時間を過ごしていたわけでもないし、語るべきことは特に持たない。忍足はその反応を気にするでもなく、食堂に現れた金色と一氏を見つけ、手を振った。
自分が居なくたって、皆それぞれにやっていけるのだ。手の届かない場所でも、届く場所でも。元チームメイトの他愛ない声を聞きながら、ゆっくりと味噌汁を飲み干す。溶けきらない大豆の断片が舌に残って、磨き上げられたグラスに光るミネラルウォーターで洗い流した。
シーンマイナス410。千歳千里の存在は、正直言って、気持ち悪かった。
散らばったボールをひとつひとつ集め、ネットを降ろし、軽くトンボがけをして、最後に夜間用の照明を落とす。夏の気配が増した所為か、太陽は既に姿を隠したというのになかなか汗は引かなかった。
タオルとラケットを拾い上げようとしたとき、左腕が視界に入った。包帯が緩んでいる。綻びは何処かと腕を反転させれば、掌の中心で擦り切れていた。巻き直さなければ、とぼんやり思って、今日はもうこのまま帰るだけなのだし、解いて捨ててしまってもいいような気もした。
綻ぶ包帯ごと、ラケットとタオルを握り込んで部室へ向かった。電気が点いていることに気付いて、知らず眉を顰める。消し忘れた不届き者がいたか、まだ誰かが残っているのか。予想なら付いた。些か波風の立つ感情のまま扉を開け放った。
「おつかれさん」
制服姿でベンチに腰掛けていた千歳が、読み耽っていたらしい将棋の本から目を上げ、笑った。白石は溜息を隠さないで、おつかれ、と素っ気なく返す。
「機嫌悪かね」
「別に」
何故居るのか、とか、何をしているのか、とか、聞くのも面倒で足早に自分のロッカーを目指した。それでもゆっくりと近付く気配には気付いてしまうわけで、振り返るべきか迷っている間に、千歳の大きな手は白石の両肩に乗った。そしてそのまま、ぐっと力を入れられる。
「……何?」
「肩、凝っとらんかち思て」
数回、肩甲骨の辺りを圧され、ばってんそぎゃんこつもなかね、と呟いて千歳は簡単に離れていった。束の間、緊張が解れる。
「凝ってるわけないやろ、俺が何の為に毎日ヨガしてると思てんねん」
「え、肩凝り防止ん為やったと?」
漸く振り向けば千歳は少しだけ空けた距離の向こうから、白石を見下ろしていた。いつものように、酷く苛立つ曖昧な笑顔を浮かべている。
「……ちゃうわボケ」
千歳の考えていることは、基本的にわからなかった。大して部活にも来ないくせに、白石が自主練を終えるタイミングで何故か部室に居たりする。そうして何かとちょっかいを掛けてきたりするのだけれど、千歳を持て余す白石を見透かしているかのようで、その態度がいつまで経っても気に入らなかった。
「白石は、無駄が嫌い、ち言いよるばってん」
隣のロッカーに凭れ掛かり、世間話のように千歳が言う。
「色々抱え込みよるけんね。見とる方が肩の凝りよっとよ。重くなか?」
そうして勝手な見解を口にするのだ。
「何がやねん、何も重ないわ」
そう言って着替えを取り出そうと延ばした左腕を掴まれた。白石自身に触れた感覚は伝わらない。純度の高い金属がいつでも白石を捕らえ、あらゆるものを遮断していた。
「重か腕」
「……意味違うやろ」
千歳は緩む包帯をふわふわと辿り、白石の掌、擦り切れて剥き出しになっている辺りを指先で撫でる。暗がりでは気付かなかったけれど、微かに血で汚れていた。
「離せや」
振り払うわけではなく、呟く声量で一度だけ嗜めた。千歳はその声を気にも留めず、端からするすると包帯を解いていく。やがて姿を現した純金が、蛍光灯の光を冷たく跳ね返した。金色を帯びた反射光が千歳の頬にゆらゆらと踊る。千歳は自らの手に古い包帯を巻き取り続け、端までいってぱさりと落とした。
「何なん、お前」
「俺は、俺」
替えは、と聞かれたので、暫し迷った末、空いた右手で荷物を漁り、真新しい包帯を取り出した。受け取った千歳は、慣れた手付きで黄金を隠していく。
「……俺のやり方が気に食わんねやったら、別に無理せんでええねんで」
無理に、此処に居なくても。自分に巻き込まれなくても。千歳には目的があって、たまたま同じ方向だったから、同行している。それだけだ。だから白石は必要以上に千歳のやり方に口を出さなかったし、逆も然りのはずだった。
「そぎゃんこつ言っとらんばい」
「ほな放っとけや。俺は俺のやりたいようにやってるだけやし、お前かてせやろ」
包帯が掌の破れた肉刺まで到達し、千歳が伺うように視線を上げる。目が合って、白石は居心地悪く、微かに頷く。そのままで、の意味だ。
「そっが白石ん我、ち言うとなら、自然、ち言うとなら」
傷ごと覆い隠し、指先まで丁寧に巻かれていく。誰よりも大きな身体に繊細な手付きが似合わなくて、触れ続ける体温ごと気持ち悪い、と思った。
「そんでよかたい」
腕まで戻ってしっかりと留める。ぽん、と叩かれた部分にはやはり明確な感触などなく、真新しい包帯の白が目を焼いた。
「……ほんま、ようわからん奴っちゃな」
左手を数回閉じて開き、具合を確かめる。肉刺が擦れて鈍い痛みが走ったけれど、大したことではない。それきり背を向けた千歳に小さく、ありがとう、と伝えた。よかよか、と言ってまた将棋の本を開く千歳の真意など、まるでわからなかった。
シーン51。どうしてかそんなことを思い出していた。漸く訪れた束の間の休憩に、誰かを誘う気にもなれなくて、タオルで世界を遮断したまま一人ベンチで項垂れて。そこに、切原が声を掛けてきたのだ。例の、何の邪気も無い天使の微笑みで。酷く安心した。
響く、返る。癒される。そのような感覚でしかないことを、それでも包み隠さず伝えれば、こちらが期待した通りの嬉しそうな反応が返ってきた。そうして隣に座り、嬉々として話し始めたのだ。
「ねえ白石さん、俺ゲーム好きなんっすよ。基本格ゲー好きなんっすけど、たまにRPGとかやるんっす。女神転生ってゲーム、知ってます?」
「変わったタイトルやな。俺はゲームの事はよう解らんねん。おもろい?」
「はい!悪魔を使って悪魔倒してくんっすよ、すっげー楽しくて」
「ははは、悪魔が悪魔を殺すなんて、えらいこと考える人もおるんやな」
「でしょ?んで、俺それの悪魔合体ってのが好きで、悪魔と悪魔くっつけて新しい悪魔作っちゃうんっすよ!面白くないっすか?」
「悪魔を悪魔でリサイクル?それは、無駄がのうてええな」
切原の明るい声を聞きながら、ぼんやりと、目の前に茂る植え込みを見つめた。
植物は好きだ。与えた愛情の分だけ綺麗な花を咲かせるし、素直だ。本来そういうものが好きだったと思い出す。響く、返る。切原は、植物の如く与えた分だけ与えてくれる。そんな気がした。じんわりと心に染み渡るような心地良さがあった。
シーン38。負け組と合流して、自分の後継者である財前を見つけたときは驚いた。
「財前、来とったんや」
「……はあ。ユウジ先輩に無理矢理連れて来られたんすわ」
皆が再会を喜ぶ喧噪の隅、まるで興味がないとでも言うように携帯を弄っていた財前は、他人の声に自分の名前が含まれていたから仕方なく、といった体で返事をした。
「特訓、してきたんや?」
「まあ一応。流れで」
ぶっきらぼうに喋る財前に、そうか、と言って白石は微笑みかけた。
渡邉からの連絡を受けて集まった職員室で、合宿への招待状に全員が湧く中、財前一人だけが「めんどいんで」と言って早々に輪を抜けた。
彼がテニスを嫌っていないことは知っている。勝ちたいと思っていることも知っている。それでも、一度として財前はそれを口にすることがなかったし、褒めても叱っても温度の低い返答しか返ってこなかったことが、寂しくなかったと言えば嘘になる。
だから黒いジャージを着た選手の中に彼が混じっていたことは、純粋に嬉しかった。痛々しい生傷でさえも。
「来たからには気張らんとな。特訓の成果、楽しみにしてんで」
「……はあ」
全く以て彼らしく首から上だけで会釈をする財前に、白石はほとんど苦笑に近い笑顔を掛けた。
財前は自分を嫌っているわけではないと、何度となく言い聞かせてきた。事実彼の態度はある意味で誰にでも平等だった。全てを嫌うなんて、並大抵の人間に出来ることではない。興味がないことには一切手を出さない彼が毎日部活に励むことが答えだと思っていた。彼の見えない本音を、見えないままに本音だと信じてきたのだ。それを覆すつもりは毛頭ないし、今でも信じている。
けれどわだかまりはいつでも残った。本当は自分の目的の為に、思い込んできただけなのではないか。言葉で表されない限り、人の心などわかったものではないのではないか。もちろん、言葉だって嘘を吐くけれど。
再びシーン51。くるくると表情を変えながら、切原は話し続ける。
「俺もそう思うっす!そんでね、俺考えたんっすよ、もし白石さんと真田副部長が合体したらって」
「俺と、あの堅物の副部長さん?」
ぼんやりと彼の姿を思い浮かべる。遠山が懐いていたという、真田弦一郎。
「はい……もう、悪夢でした……だって浮かんだのが四六時中顰めっ面で拳骨片手に怒鳴りまくる白石さんだったんっすよ!?で、逆も考えたらマジ気持ち悪くて……!うっわ思い出して鳥肌立ってきた……!」
「ブッ……ははは!君はほんまにおもろいなあ!」
本当に、面白い。押し付けるでもなく、ただ自分が思ったことを口に出す率直さ。彼もまた白石の反応に喜びを感じている。そういったことが手に取るようにわかる。打てば響く、こんな後輩がいるのなら、さぞかし毎日に癒しがあっただろう。
「だからね、俺、白石さんは白石さんがいいし、真田副部長は真田副部長がいいっす。そのままがいいんっすよ。どんなんでも」
その言葉は、そんじゃ、また後で、と切原が立ち上がってから漸く確かな意味を持って白石に届いた。は、と気が付いて、思わず白石も立ち上がり、呼び止める。
「切原くん」
「はい?」
——俺は今、何を考えていた?
他人に多くを期待することは馬鹿げた傲慢だ。何を言おうが施そうがやる奴はやるし、やらない奴はやらない。そんな風にして、他人が他人であるが故に決して埋まらない齟齬を、白石は感覚として掴んでいた。人間に対して諦めを抱いていたわけでなく、ただ無駄を排除したかったのだ。たぶん、自分達を差し置いて組織のトップに指名された後輩に、明確な実力差から目を逸らして唾を吐きかけるような人間、それが最初だったろうと思う。そんなものに構っている暇はなかった。こちらを向かない人間を追いかけはしない。けれど自ら拳を突き上げる者たちならば口先がどれだけ冷えていても、あるいは最終的な目的が違っていたとしても、共に戦おうとしてきた。
やがて言葉は価値を失くし、ただ勝つこと、それだけで示すようになったのだ。そのための努力ならば惜しまなかった。辛いと思ったことはない。何も出来ないままに終わった十四歳の夏、あの瞬間から誰よりも勝ちたかったのは、自分だった。いっそ自分の目的に周りの人間を利用している感覚すら持っていた。それでも付いてきてくれたのだ。チームは、そうやって育て上げてきた、大切な花だった。それが世界の全てだった。壊れないように、崩れないように、守ろうとすることは、当たり前のことだ。
けれど、こう言えば、こう返ってくる。そんな当たり前の人間的悦びに、今更心地良さを感じていた。押し殺した心の底で、こんなものを求めていたとでもいうのだろうか。それは、裏切りではないのか。否定ではないのか。
自分は自分で、別の誰かは思うがままに存在していればいい。それは白石自身の思想であるはずだった。それなのに、切原の言葉がすとんと、まるで聴いたことのない音楽のように、驚愕と共に全身に染み渡ったのだ。
誰かと誰かを比べるなんて、意味のないことだ。そんなことさえ見失いかけていた。もう少しで、何か取り返しのつかない考えに取り憑かれるところだった。
呼び止めたきり言葉を発せないでいる白石を、切原は不思議そうな瞳で見つめている。髪と同じ色の透明な黒が、差し込む光を反射してきらきらと輝く。
いつの間にかこの瞳に寄りかかっていたらしい。そんなにも弱っていたなんて気付かなかった。そしてまた、目を覚まさせてくれたのも彼自身だ。
「……ありがとう」
他に伝えるべきこともわからずに、ただそれだけを口にした。多分、笑っていたと思う。
「俺、お前が言っとったこと、わかったような気がする」
「俺の言っとったこつ?どれね?」
「重くないか、て聞いたことあったやろ」
千歳は右上に視線を泳がせ、ややあって記憶の引き出しから該当する情報を見つけたのか、ああ、と頷いた。
シーン54。テニスラケットも持たないで、どこかほっつき歩いていたらしい千歳が、まるで気まぐれだという体で声を掛けてきた。目を離した隙から勝手に消えていくのに、こんなときだけは気付けば居る、千歳はいつでもそうだった。
「あの頃はそんなん欠片も思わんかってんけどな」
「うん」
「切原クンと話しとったら、なんや色んなことがようわからんようなってきて」
「うん」
「ほんまに見えとったんか、とか、合ってたんか、とか、色々考えてしもて」
うん、と、白石を見るでもなく、高い視点から更に空を見上げて千歳はただ頷くだけだ。
今更のように、千歳は外来者だったのだなあ、と白石は思う。あの頃はチームの勝利という確固たる基準のもと、ただただ走り続けることを是としていたから、彼の世界も言葉の真意も理解するような暇なんてなかった。
否、きっと恐ろしかったのだ。違う方法があるだとか、見えていないものがあるだとか、薄々気が付いてはいても一度知ってしまえば走れなくなるようなものを提示されることが怖かった。客観視するということ、他人事として物事を扱うこと、それは時に何処へも行けなくなる危険性を孕んでいる。
それでも一度外から来た人間を受け入れたことがあるという経験、失った基準、そういうものが、無防備に切原を侵入させてしまった。それはこれまでの自分を俯瞰的に見ることを強要させてしまったし、そうやってやはり白石の足は止まってしまった。そもそも、四天宝寺というチームを離脱した後で、どこへ向かえばいいかもわからなかったのだ。ただ腕の中に残った残骸を抱え、崩壊しそうな足場に踏み止まり、更けていく夜に怯えているしかなかった。何かが終わること、始まること、それはどちらも恐怖を伴うことだった。
「千歳……なんや俺、疲れてしもたわ」
酷く脆い足場に立っているような気がして、重力に身を預けるように、千歳の胸へと倒れ込んだ。目の奥が熱い。
「よかよか、それでよかたい」
千歳の掌がふんわりと背中を包んだ。その体温はもう気持ち悪くはないし、その腕が伝う涙を隠す優しさだってはっきりと伝わった。
「それでも俺には、手放されへん」
「うん」
「せやからゆうて、今までと同じようにもできひん」
「うん」
「それでもええん?」
「よかよか」
いなければならなかった自分、いてもいい自分。そうありたかった理想。いて欲しかった誰か、いてくれた誰か。信頼、共鳴、困惑、寂しさ、痛み、不安。勝利。喜び。敗北。悔しさ。切り捨てたもの、残ったもの。
ずっと何かを抱え続けてきた。壊れないように、崩れないように。けれど、守ることと排除することは、たぶん違う。
すっ、と世界が色を変えた。ような気がした。温かくて、怖くて、そして、嬉しい。
背中から伝わる体温が心地良い。大きく息を吸って、吐いた。大丈夫だ、生きている。
行こう、次の世界へ。