出会った時には手遅れだった、というのは柳の言葉だ。
俺は先に弦一郎と知り合ったんだが、という前置きからその話は始まった。自己紹介の流れで、俺がテニスをすると聞くや否やすぐに精市を紹介されてな。あの弦一郎が「俺より強い」などと言うものだからどんな屈強な筋肉ダルマが出て来るのかと思えば、あの容姿だ。正直あれは俺の予測外の存在だったよ。
ただ、それ以上に衝撃を受けたのは弦一郎に対してだったな。
俺は知り合ったその時、こいつは他者に左右されることなく自分自身にのみ全てを捧げるタイプだと考えていた。武士みたい、といつか赤也が言っていたが、感覚的にはわりと正解だろう。
それがどうだ、弦一郎は自分より一回り小さい柔和な男に、武士は武士でもまるで御家人のように従っている。しかも事もあろうか、「こいつの隣に立てるのは俺だけだ」とでも言わんばかりの誇らしささえ滲み出ていたのだ。その時にはもう弦一郎はその不器用なまでの実直さでもって、ただ精市に盲従することを決めてしまっていたんだよ。
そのことに俺はひどく狼狽えたし、失望に近い悔しささえ感じた……ただのデータ不足じゃろ、とお前は言うだろうが、そうではない。勿論データはほとんどなかったが、弦一郎のその姿は俺が数少ないデータ——むしろ第一印象と言って差し支えない前提条件——から予測したうち、最も最悪の状態だったのだ。
ああいうタイプは一度他人に心酔してしまうと、加減というものを知らない。あれらの出会いがどんなものだったかは知らないが、弦一郎にとっては恐らく人生で最大の衝撃を伴ったことは確かだろう。そして弦一郎が弦一郎であるが故に、その衝撃は何ものにも吸収されることなくダイレクトに伝わったはずだ。精市について誰も理性的な説明をつけてくれなかったし、衝撃を分かち合える地位にいる者もいなかった。
そのことが俺を絶望させた。
手遅れだったのだ、俺が出会ったときには、何もかも。独特の、感情の見えない話し方で柳は言った。
ちゆうまえんだ
効率の良い光合成の促進という意味では確かにこの場所は最適なのかもしれない。それから、エコロジーの一旦という名目で、昨今一部の都市に於いてそういう取り組みが盛んだともいう現状もある。
それでも仁王は不自然に持ち上げられた土に違和感を覚える。扉を開けて埃っぽい風の中にフローラルな香りが混じるのも、やたらと昆虫が多いのも気に食わない。そして彼にとって何より不快なのが、それらを育てる人間が出入りするというその事実だ。
「またサボったんだって?」
影に覆われて、瞼の裏にあった闇が赤かったことを知る。大声を出されたわけでも揺すられたわけでもないのに起きてしまうのは、現れたこの男の希薄でありながら強烈な存在感の所為だろうか。それとも仁王の眠りが浅い所為だろうか。たぶん両方だろう。
「さっきブン太に会ったんだ、今日小テストだったのに留年する気かよって言ってたよ」
仁王はどこからどう見ても眠っているはずなのに、その男は起きていることを確信して話しかける。狸寝入りを決め込んでもこの男には意味がないから、と観念して仁王は目を開く。
「…もう昼かいの」
下は捲り上げられた学校指定のジャージ、上は素っ気ないほど白いTシャツ。首に掛けたタオルを軍手で握っている。登下校中に電車の窓を走る田園地帯に似合いそうな格好なのに、どういうわけか親父臭くも田舎臭くもない。
「邪魔だよ」
さらに視線を上に滑らせると、標準装備の笑顔を携えた幸村がいた。大きめの麦わら帽子は背中に垂らされたままだった。
幸村は昼休みになると必ず屋上にやって来る。中学には生き物係がないからという至極単純な理由で美化委員に立候補し、ボランティアで行われる清掃活動なんかには見向きもしないで屋上に花を植えることばかりに入れ込んでいる。おかげでこの場所は、今では立派な庭園と成り果ててしまった。
幸村よりも先にこの場所を陣取っていた仁王は、それでもささやかに抵抗した。直接やめろとは言わなかったが、幸村が持ち込んだレンガで造られた生垣とは反対方向をテリトリーとし、なるべく無視を決め込んだ。作業範囲に踏み込まない限りは幸村も必要以上に干渉してくることはなかったし、始めのうちはうまくいっていた。
けれど加減を知らないこの男は順調にその領域を広げ続け、いつしかこんな風に生垣の合間に寝転ぶ仁王が完成したというわけだ。
有無を言わさない笑顔に黙って体を起こす。テニス中と園芸中の幸村には逆らうな、が平和な人生における鉄則だ。
立ち上がって移動するのは面倒で、妥協点として作業の邪魔にならない程度の距離を取り、仁王はレンガに凭れ掛かる。甘い香りが鼻をつき、縛った毛先が葉か花弁か、何かに触れてこそばゆい。幸村方面からは新しい肥料の匂いがした。それが一番不快だった。
「飽きもせずにようやるのう」
「飽きるわけないだろ、この子達は毎日違った顔を見せてくれるんだから」
こっちを向かない幸村の興味が花壇にしかないのは明らかで、仁王は躾の良い犬のように大人しく幸村の背中を眺めていた。
幸村の強さは、その淡白なテニスにある。どんな奇策を労しても、力押ししても、理詰めで挑んでも、起き上がり小法師よろしくボールは戻って来る。相手はテニスとは何だったか、という境地に陥り、やがて全身の感覚を失ってしまう。そのイップスと言われる状態に人々は恐怖し、畏敬を込めて彼を『神の子』と呼んだ。
けれど何も見えず、聞こえず、感じもしないその状態が、仁王は嫌いじゃなかった。
そもそも彼がやっていることと幸村がもたらす闇は、結果的に似たところがある。仁王は人の目に映るものを塗り替え、耳に届く音をねじ曲げ、ラケットを通して触れる打球にすら錯覚を起こさせる。
人体の認識機能というのは曖昧なもので、見ている聞いていると思っている対象は光や空気の波でしかない。なのに人はそれらを電気信号で伝えただけに過ぎない視覚や聴覚というものを妄信する傾向にある。だから全てを偽る仁王のテニスと、全てを奪う幸村のテニスは、人の入力装置にアプローチをかけるという点である意味同義のものだ。
そして仁王は常に、自分が自分であると認識されることを避けている。彼は誰かにとって一定の何者かであることに我慢がならない人間だ。柳生あたりに言わせればそれは「弱さ」だそうだが、そんな安っぽい揶揄で瓦解するほど弱い信念じゃないことは確かだった。
仁王にとっては、幸村によって自分が自分であるかどうか知る術を全て奪われたときの、自分が何者でもなくなったような、無くなってしまったような、そんな感覚がたまらなく心地良かった。
だから彼はたまに、あえて幸村に試合を挑む。もちろん全力でやる。足掻けば足掻くほど絶望は強くなり、自分が本当に仁王雅治であるのかわからなくなっていく過程が加速するからだ。
そういうわけで、幸村に手を出したのも、もしかするとこの男はセックスでも同じことができるんじゃないかと思ったからだった。そうであれば何も引退してまで炎天下のもと走り回る必要もない。暑がりな仁王が耐えられる気候になるまではまだ時間があった。
だが結果としてその取り組みは失敗に終わる。性行為に関しては、この『神の子』は存外一般人類とさして変わらない感度を持っていた。ついでに付け加えるとするならば、姦淫を罪だとも考えていなかった。
だから今では、彼らの関係は思春期らしいただの惰性だ。
作業を終えた腕を徐に捕らえても、幸村は何ひとつ抵抗しない。その代わり、仁王が気紛れで午睡を決め込んでも名残惜しさひとつ残さず教室へと帰る。
仁王にはひとつだけ、幸村が作り上げた屋上庭園に感謝していることがある。それは庭園が持つ冷却効果の仕組みそのもので、直射日光を和らげる吸熱効果だ。だから押し倒しても幸村は背中が熱いとは言わないし、その横に置いた仁王の掌もちゃんとコンクリートを掴む。
掌の横のウェーブがかった髪は汗で湿っていて、花壇から零れ出た土やグラウンドから巻き上げられた砂が絡んでしまうのは難点だったが、どちらにせよ昼休みが終わると作業の汗を流すために幸村はシャワーを浴びる。
この間さ、首筋に噛み付く仁王の背にゆるく腕を回して、至極間延びした声で幸村は言った。
「この間真田に、”知らない匂いがする”って言われちゃったよ」
一仕事した後の幸村からは、それでも汗の匂いなどしない。もしかすると土の匂いや花の香りに紛れているのかもしれないが、少なくとも不快感はない。塩辛さだけを舌先で感じる、これが汗の証拠のようなものだ。
「……真田にでもなればええんか?」
「イリュージョンって、匂いも再現できるんだ?」
「どうかの、意識したことないきに」
香水でも使ってれば別なんじゃが、と付け加えてあの男がそんなもの使っているわけがないと言外に揶揄する。
「バレたら困るんか」
「どうかな」
素っ気ないTシャツの中に手を滑らせればちゃんと湿った感触がある。衝動的に始まった関係は、幸村が自分と同じ人間であることを仁王に実感させたという点で思いがけず益をもたらした。
それでもあの頃はまだ弦一郎の眼の中に、精市に対する敵対心のようなものが微かに残っていたんだがな。柳の言葉はこう続く。ほらよくあるだろう、敵わない相手の懐に飛び込んで、虎視眈々と寝首をかく機会を伺うなどという説話なりフィクションが。大体の場合それは失敗に終わるわけだが……あれに至っては、もうそんな煌めきも喪ってしまったな。精市が入院した辺りで、完全に。
あの件は純粋に我々テニス部全体にとっても重大な出来事だったが、それ以上に二人の関係性に甚大な被害をもたらしたのだと俺は思う。それはもうほとんど致命的だった。それまでは忠誠の内にも微かに残るライバル心を弦一郎自身認めていたし、あるいはそれらを共存させようという試みすらあった。それが、完全に折れてしまった。その上あれは一年に負けただろう。それも大いにまずかった。精市を失う恐怖と、決して責められることのなかった約束の反故、これらによって弦一郎は完全に屈服してしまったんだろうな。
そんな内容の割に淡々と語る柳の口調からはその関係性を何とかしようとか、見る者によっては痛々しく映る真田を救おうとか、そんな気概は一切感じられなかった。むしろ愉しんでいるようでさえあったかもしれない。
気付いたときには当たり前のように件の二人と共にいた柳であるが、その場所が簡単には手に入り難いもので、そして決して万人向けでないということは明らかだ。其処において平然としていることを許された存在のはずなのに、その食えない男は絶対に二人の関係に首を突っ込んだりはしなかった。
真田を覆うものが悲劇だったとして、ならば間近で見ていながら決して止めたりしない柳だってその増長に一役買ったのではないかと仁王は思うが、そんな悲劇があったからその場所を居所と定め、傍観者を決め込んだからこそ留まれたのかもしれないとも考察する。原因と結果が一方通行かつ対極でない事柄というのは意外とこの世界には溢れている。科学的アプローチでテニスに取り組んでいる割にどこか文学的なものの考え方をする柳ならば、とっくにそんなことなど知っているはずだと仁王は考えている。
柳の独白を聞かなくとも、真田が幸村に心酔していることくらい仁王にはよくわかっていた。だから彼にとっての問題は幸村の方だ。
たとえば同じ目標に向かって邁進する同志だとか、選ばれた人間にしか許されない高みで分かり合える唯一の存在だとか、なるほど傍から見ればそういう解釈も成り立つかもしれない。切原あたりは本気でそう信じ込んでいる節がある。
けれど真田では、幸村と同格というには役不足すぎるのだ。
幸村が『神の子』で真田が『皇帝』であることは、ある程度二人を洞察する人間からすればもはや皮肉以外の何ものでもない。幸村は、真田が築き上げた塔に容赦なく雷を落とすだろう。あるいは、真田が守る世界を四十日四十夜降らせた雨で洗い流してしまうだろう(もちろん箱舟を造る時間など与えずに)。
幸村はいつでも真田を、真田風に言えば「絶望の淵へ案内する」ことができる。そのことを(おそらく何度かは実感させられながら)真田は受け入れ、それでも共にあろうとする。そして幸村も、悪意のない脅威をちらつかせながらその拙い忠誠を進んで受け入れている。そんな風にして、鉄壁に見える信頼関係は実に危うい均衡を保っているだけなのだった。
「あの男のどこがええんじゃ」
台詞とシチュエーションだけ見れば、人はこれを嫉妬心からくる発言と取るかもしれないが、それは断じて違う。もちろん強がりでも何でもない。そして幸村もちゃんと誤解したりはしない。
そうだなあ、幸村は傍らの向日葵を見上げた。仁王にとって左側、幸村にとっては右側に聳え立っている太陽の奴隷だ。
「たとえば今この場に日本刀を持った真田が現れるとするよね」
なんじゃそれ、想像したくもないぜよ、辟易しきって言う仁王を幸村は気にもかけない。
「そしたらさ、真田は俺じゃなくてお前を刺すだろう?」
そういうところだよ。そう言って何の邪念もない微笑みを仁王に向けた。
あえて仁王はそれを想像する。
彼らを見つけた真田は、それこそ雷のように怒声を上げ一瞬にしてその後ろに立つだろう。そして反応する間もなく仁王の腹から日本刀が生える。もちろん手入れは行き届いていて、赤い液体の合間に映る向日葵と、支配者たる太陽の反射光が仁王の目を焼く。切っ先から滴る血液は幸村の真っ白なTシャツによく映えるだろう。いつか幸村が好きだと言っていた赤い花、きっとあれに似ている。幸村が刺されたと錯覚さえするその血痕は、しかし全て仁王の躯から流れ出たもので、先端は絶対に幸村に触れたりはしない。そういう手加減の仕方を、あの暴君はこの美しい男にだけ発揮する。
きっと幸村は呆れたように真田を見るだろう。「いいところだったのに、邪魔をするな」とでも言うかもしれない。それでも真田は幸村を赦す。いや、赦す赦さないを決める権限などあの男には始めから渡されていない。
そんなやり取りを見ながら俺は何を思うじゃろうかと仁王は思う。乱された血流が喉から迫り上がり更に幸村を染めて、それを不快そうに見つめる幸村の目に何を。
白昼夢の如くその幻覚に捕われていると、自然と下半身から血の気が引いていることに気付いた。それで仁王は我に返る。冷や汗が背中を伝っている。これは暑さの所為だと言い訳するように愛撫の速度を速める。幸村は面白そうに仁王を見ている。視線から逃れるように仁王は幸村の下半身へと身を移す。
「浮気相手を殺すのは女の方やなかったかいの」
「真田ほど女々しい奴なんていないだろ」
一足す一は二という程ではなかったが、三角形の内角の和は百八十度だろ、という程度には当たり前だと言わんばかりの口調だった。決して一般的な意見ではないと仁王は感じたが、幸村が言うならそうなのだろう。確かにあの頑固さは、ヒステリーを起こした女に似たところがあるかもしれないと思った。
ところで幸村の入院に関しては、仁王の意見は柳と微妙に異なっている。まだ幸村の汗ばむ肌を知らない頃だったことも手伝って、病に冒されたという妙に人間じみた出来事に少し感動してしまったのだ。
もちろん柳や他のメンバー同様、チームとしての損失や友人としての悲哀はあったが、そこに混ざり込んだ奇妙な歓喜にはさすがに戸惑った。表面的な偽りに慣れた自分に感謝したほどだ。
しかしその感動は、劇的な復活劇によって徹底的に否定されてしまうこととなる。原因不明の難病から生還した奇跡は、ますます幸村を神に近付けてしまった。
真田や柳にとっては喪失の可能性が恐怖だったかもしれないが、仁王にとっての恐怖はその復活にあった。それは磔の際にきちんと命を落としていれば、神格化などされ得なかったキリストを仁王に思い出させた。
あるいは、真田もそれを感じたのかもしれない。だから足掻き続けた自らの昏い心を完全に殺したのかもしれない。
自分の下で荒い呼吸をする幸村を見ながら、真田はこの男を抱いたのだろうかと仁王は考える。彼らは恋人同士と呼ぶには複雑すぎるし、かといって真田が幸村に向ける感情は恋のように激しく愛のように深い。たとえその内訳が何であれ、恋愛の何たるかを経験則で測れない若さでは勘違いしても仕方のないレベルだ。
「何を考えてる?」
瞳を隠していた腕をずらして幸村は尋ねる。茶味の目立つ瞳は少し潤んでいる。その水分が光の乱反射を起こすのか、そこから感じる力だけは不思議に強い。
たぶんあの潔癖な男がこんな瞳に耐えられるはずがないと仁王は思う。
「お前さんのことぜよ」
肉体的にも精神的にも、仁王にだって余裕はない。それでも外から見える余裕を増嵩させる程度には他人を欺く術を持っている。
幸村はフフ、と抜けるような声と共に再び瞳を隠した。
「お前はいつか好奇心に殺されるよ」
そう言って幸村は笑った。本望だと仁王は思った。