目覚めて最初に飛び込んで来た光景は、見たことのない白い天井だった。ここはどこだろう、確認するため身を起こそうとして仁王は顔を顰めた。頭や肘や肩や色んな部位から、心臓の鼓動に合わせて疼痛が襲い来る。
「お、起きよったか」
不快な痛みに脱力しかけたところで声を掛けられた。動かない体を微かに動かすと、見覚えのある長身が視界に入る。
「……毛利先輩」
「あんたにそない呼ばれよるん、初めてや」
先輩と思てたんやなぁ、と毛利と呼ばれた長身の男は屈託なく笑う。
そういえば試合をしていた。少しずつ頭を整理していく。降って湧いたような話で招集されたU-17の合宿へ来て、仁王は思いがけない再会を果たした。その先輩が代表入りしていることは耳にしたこともあったが、まさかもう一度ネットを挟んで対峙することになるとは思っていなかった。半分以上を朦朧とした意識の中で戦った試合内容の記憶を辿る。
「なしておるんや」
「これこれ」
敬語を使わない仁王のことはさして気にも留めず、毛利はジャージを左肩だけはだけ、ユニフォームを捲り上げた。そこには真新しい包帯が丁寧に巻きつけられている。
「関節外しよったけんね、嵌めてもろうたんよ」
そういえば、薄れる意識の中で嫌な音を聞いた気がする。それから、コードボールを拾って、どうなったのだったか。
「あんたらの勝ちや」
毛利は一瞬だけ表情を消して、それから無邪気に笑った。
「強うなったなぁ、雅治」
その変わらない笑顔が、仁王に忘れかけていた記憶を呼び覚まさせる。
FELL ON BLACK DAYS
出会ったのは、二年前の夏だった。
初対面としては、春が正しい。中学に上がって仁王はテニス部に入部し、毛利はそこに所属する二年生だった。仁王は当時すでに百八十五センチに達しようとしていたその長身が目立つ先輩の存在を知っていたし、毛利の方でも、明らかに浮いた髪色をしている仁王のことを外見だけは知っていた。それでも毛利が部活に出てくることが稀だったので、放っておけば彼らはいつまでも他人のままだった。
ある夏の日、部活と違って既にサボり始めていた授業を抜け出し、仁王は海友会館の裏、西門のすぐ側で猫と戯れていた。普段あまり使われない西門は朝と放課後の一定時間以外は閉ざされていて、教師も警備員も寄り付かないそこは彼のお気に入りの場所だった。
「危ない!」
そこに、毛利が降って来た。反応する間もなく、仁王は見事に下敷きとなる。猫は素早く逃げ去っていて、さすが野良の危機管理能力は違うのう、などと痛みから逃避するように仁王はそんなことを考えた。
「すまんね、怪我しとらん?」
「とりあえず、退いてほしいぜよ」
百八十五センチの毛利に潰された百六十センチの仁王は、頭上から降ってくる声の主を確認することもできなかった。
「あんた、テニス部の子ぉちゃう?」
立ち上がり、ぶち撒けられたカバンの中身を拾い集めながら、毛利は言った。
「……そうナリ」
確かに知っている先輩だった。いい噂はあまり聞かなかった。
「サボりか」
「そっちもじゃろ」
「俺先輩ねんけどなぁ」
失礼やわぁ、と言いつつも機嫌を損ねた風でもなく、毛利は無邪気に笑って仁王に手を差し出した。その手を払うとあらら、と困ったようにして、やはり笑う。
自分と同じように方言を使うその後輩に、毛利は興味を持った。あるいは、同学年の中でも浮いているような彼を、先輩らしい面倒見の良さを持って気にかけたという解釈も成り立つかもしれない。ただ、やがて仁王が自ら望んでそうあることを知っても、その態度は変わらなかった。
そんな風にして、彼らは出会った。
毛利は多くのことを仁王に教えた。それは制服の着崩し方だったり、校門に見張りのいない時間だったり、高等部側にある秘密の抜け道だったり、あるいは校内の誰も寄り付かない死角や空き教室のことだったりした。厳しい教師の弱味とか、貞操観念の低い女子とか、そんなロクでもない情報を秘密基地に集まる小学生のような無邪気さで仁王に教えていった。そういうときの悪戯っぽい毛利の目が、仁王は嫌いではなかった。
脱色した髪からもわかるように仁王は決して真面目な生徒ではなく、彼は毛利が示す”堕落のすすめ”を面白い程に吸収していった。校則は破り続けたし、学校は抜け出したし、性交も覚えた。毛利がレギュラーになりたいならやめておけと言ったから、酒や煙草には手を出さなかった。
毛利はまた、街での遊び方も教えてくれた。ゲームセンターは公立の連中が鬱陶しいからと、ソフトドリンクでも長居できるダーツバーを紹介した。
「集中力アップにもええし、テニスのためにもなりようよ」
真ん中の黒い丸に吸い込まれるように刺さる矢を、仁王は息を飲んで見つめた。
「やってみらんせ」
渡された矢を我流で持って、的目掛けて投げつける。しかし力の入れ方の所為なのか、台にすら届かなかった。
「へたっぴ」
「初めてやきに、仕方ないじゃろ」
いつものように無邪気な笑顔で仁王の髪を掻き混ぜると、毛利は基本的なフォームを教えた。元来器用な仁王はコツさえ掴めばあっという間に上達していったが、カウントアップもクリケットも、結局一度も毛利には勝てなかった。
毛利の縄張りは仁王の縄張りにもなり、教師の弱味と貞操観念の低い女子は共有され、夜になると彼らはダーツを投げた。彼らは常に師弟であり、共犯であり、兄弟だった。
やがて部活にあまり参加しない毛利が、それでも個人的には毎日練習を欠かさないことを仁王は知った。そこに存在したであろう毛利の内面的な理由には触れなかったが、それならばと一緒にテニスボールを打ち合った。正攻法では勝てない毛利に対し、仁王はトリックプレーばかりを考えるようになった。
仁王が二年に上がる頃には、あの銀髪、今度は何組の誰々を喰ったらしい、などという下世話な噂話は学年を問わず囁かれるようになっていた。噂の的になっている当の本人はまるでそれを気にかけるでもなく、気紛れに授業を抜け、気紛れにテニスをし、気紛れに女を抱いた。年は上が多かった。それは仁王の好みというわけでなく、そういった事柄への興味を実行に移せる割合が中学三年間で右肩上がりとなっていく現象の結果だった。時には同じ敷地内の高校生もやって来た。つまり仁王は常に受け身だったのだ。
「あんた、男でもいけよるん?」
毛利のそんな一言がきっかけだった。仁王はわからん、と言ったが、そんなら試してみらんね、と毛利は悪巧みをしているとき特有の顔で笑った。そこで初めて仁王は男同士でもそんな行為が成り立つことを知った。
まだ誰にも触れられたことのなかった場所を、毛利は先輩らしい優しさでもって丹念に解した。潤滑油はたくさん使ったし、時間もたっぷりかけた。
実のところ、毛利だって女しか抱いたことがなかった。その排泄のために作られた穴を使ったことがないわけではなかったが、脚の開きにくさに、男女が骨格の違う生き物だということを学んだ。
挿入は後ろから行われた。痛みはあったが、その頃仁王は痛みと快感の区別があまりついていなくて、体格に比例して標準より大きめに成長した毛利の性器でも、時間をかけて受け入れることができた。あとは、痛みとも快感とも異物感とも知れない毛利が与える感覚を、仁王は何に変換するでもなく直接受け止めた。世界にはこんなにも複雑な感覚を生む単純な行為があるのだということを知った。
それからは幾度となく抱き合った。その動機を探すとするならば、思春期らしい単なる好奇心が一番当てはまるだろう。彼らにとってそれは恋ではなかったし、まして愛であるはずもなかった。少なくとも当時の彼らはそういった心情がどういうものかを知らなかった。
自分以外との噂話を耳にしたこともあった。それどころか行為を目撃したこともある。お互いにだ。それでも彼らはそういう面では干渉し合わなかった。独占欲も嫉妬心も何もなかった。
知らない女を後ろから突く毛利を見かけると、彼はいつも通りの悪戯っぽい笑みでこっそりと人差し指を口元に当てるのだった。ならばもっと人目につきにくいところにすればいいのにと仁王は思ったが、彼らの縄張りがほとんど同じであるだけだと気付いて、そんなときは一種の共犯者のような愉快な気分が込み上げた。
そんな自分に戸惑いながらも、仁王はせめてものわかりにくい忠誠として、誰でも抱いたが誰にも抱かれなかった。毛利は毛利で、女ばかりを抱いた。お互いが知り得なかったその小さなこだわりだけが、彼らの純情を認めていた。
そんな風にして、彼らが猫と戯れたり、ダーツをしたり、テニスをしたり、抱き合ったりしているうちに季節は流れた。出会ってから一年が経ち、毛利の身長が百九十を超えて止まった頃、漸く仁王は百七十センチに達した。テニスに於いては、仁王はまだ試合に出られず、毛利は部活にあまり出ないまま公式戦で勝ち続けた。そして、勝ち続けてもやがて終わりはやって来た。
「これで俺も引退やぁ」
ずっと暑かった中学最大の大会が終われば、思い出したように急激に空は秋色の様相を呈し始めていた。テニス部の部室には全国で一番強い中学だと表彰する旗が飾られていた。
「ゆうて同じ敷地内やき、高校行ってもちょっかい出しに来るんじゃろ」
「そん事ねんけどなぁ」
そのとき二人は屋上のフェンスの外で、だらしなく虚空に脚を投げ出して座っていた。
「俺な、内部進学せんことにしたわ」
「……なして」
仁王は動揺したが、表には出さなかった。その頃にはすでに、彼は人を欺く術を磨き上げていた。そーやねえ、と言って毛利は立ち上がり、足元の世界を覗き込む。飛び降りてしまうのではないかと仁王は思ったが、それは杞憂に終わった。
「あんま肌に合わんかったんやろねぇ、校則もせやし、他の色んなことも」
そうか、呟いたきり、仁王はその選択について何も言わなかった。彼は自分を過剰に隠すが故に他人の奥に踏み込むことに随分臆病になっていた。
「あんたはここで頑張りんせーね、三強もおるし」
そして彼らは会わなくなった。まだ半年分の中学生活を残していたけれど、突然会わなくなった。どちらが言い出したわけでもなかった。不思議と偶然の遭遇もなくなって、仁王は毛利が行動範囲を変えたことを知った。だから離れたのは毛利の方だったと言えよう。
仁王は相変わらず、放浪し、テニスをし、ダーツを投げ、女を抱いた。男とは何人かと寝て、数ヶ月経つ頃には抱かれることも許した。以前の小さなこだわりが純情だったと知り、淡い恋だったと気付いた頃には、そこに毛利は居なかった。その恋は過去にのみ幻のように存在し、誰からも現在進行形で語られることはなかった。仁王の身長は百七十五センチで止まった。
そんな風にして彼らは終わった。
「高校決めよった?」
ここで場面は現在に戻る。
「上行くナリ。工業科や思うけど」
そうか、と毛利はどこかほっとしたような表情をする。
「よかった、あんたまで外行く言い出しようもんなら俺の所為やけんねぇ」
「どういう意味じゃ」
毛利はいつもの無邪気さとは違う、仁王が見たことのない大人びた笑みを浮かべた。自嘲、という言葉がよく似合う顔だった。
「俺な、あんまあのチーム好きやなかったんよ」
「……」
「やけん、あんたを引きずり込むことで、馬鹿にしてやろう思いよった。すまんね」
懺悔のような独白を、おそらく仁王はずっと前から知っていた。学校からの逃走にも、一人での練習にも、仁王や女を抱いたことにも、全てに理由があったことを知っていた。
「これ、バッジな」
思い出したように、No.10と書かれたピンバッジを仁王に差し出す。
「……ひとつ持っとるぜよ」
え、そうなん?毛利はわざとらしく目を見張った。そのことは前日のコートで知っていたはずだった。
「持っとるのにそんな無茶して、変わったな、雅治」
それでも毛利は手を降ろさない。
「まあこっちのが番号も上やけん、受け取らんせ。誕生日プレゼントや。確かもうすぐやんなぁ?」
一年間一緒にいて、仁王には毛利から何かをもらった覚えはなかった。残ったのは授業を抜け出すスキルと、同年代よりは早熟だった性経験と、小さすぎて気付かないような失恋の痛みだけだった。何かを形に残すような関係ではなかった。
仁王は黙って布団の下から手を伸ばす。落とされたバッジは掌の上で回転し、蛍光灯の光を反射させた。それを確認して、毛利は席を立つ。
「今更やけど、あんたとおるん楽しかったわぁ」
ベッドを隔離する薄黄色のカーテンに手をかけてから、もう一度毛利は振り返って言った。
「たぶんな、俺、あんたんこと好きやった」
シャ、と軽い音を立てて閉まったカーテンは、しばらくの間揺れていた。仁王は掌に残されたピンバッジを見る。居場所を見つけたのだろう、仁王は思った。あの頃は二人ともどこかはみ出たような生活を送っていて、自らそうありたいと願いながらも安心できる場所をいつも探していたのかもしれない。お互い別の場所でそれを見つけた、ピンバッジはその証のように思えた。誰にも語られなかった小さな初恋は漸く形として残された。これはその証なのだと、仁王はバッジを握りしめた。