1925年、長らく続けられた普権運動の末、加藤高明内閣によって普通選挙法が制定された。それまで行われていた納税額で権利の有無が決定する制限選挙が撤廃され、 満二十五歳以上の男子に選挙権が、満三十歳以上の男子に被選挙権が与えられることとなった。
また同年、治安維持法が成立した。日ソ基本条約の締結により国交が回復したソビエト連邦から共産主義思想が波及することを恐れた国家が、天皇制や私有財産制等の廃止を掲げる活動を制限する目的で制定した。この法律はその後、刑罰の厳重化や取締対象の拡大により、第二次世界大戦時にはあらゆる思想や政治活動を弾圧する役目を担った。
ほぼ同時に制定された二つの法律は、よく飴と鞭に喩えられる。政治参加の平等化と政治活動の制限、相反する概念が同居するあたりに近代日本の迷走ぶりが伺える。
そんな背景など何でもよかったけれど、プリントの空白を埋めるためにキーワードだけを抽出する。1925年、普通選挙法、二十五歳、三十歳、成人男性のみ、治安維持法、共産主義、天皇制、政治活動の制限。写し取って埋めると少し表現を変えただけでつまるところ同じ意味の文章が完成した。授業中適当に引いたマーカーが意外と役に立った。
プリントには別枠で「その頃の文学」と書かれた欄があって、そちらを埋めるため資料集にも手を伸ばす。近代史の章が開かれたままの年表に1925の文字を探した。三つの列に分割された年表は、一番左に日本国内の出来事、真ん中に海外情勢、そして右端には文学史として書籍の名前が連なっている。1925年の行にあったのは三つだけだった。梶井基次郎『檸檬』、アドルフ・ヒトラー『我が闘争』、細井和喜蔵『女工哀史』。そこには簡潔な説明文もついていた。まとめるとつまり、梶井基次郎が肺病に怯えた不安を書き綴っていた頃、アドルフ・ヒトラーは獄中でとある他民族の排除を訴え、細井和喜蔵は女性労働者の過酷な事実を取材していたことになる。三つの書名を書き写しながら、先程「成人男性のみ」と埋めた文字が目に入った。1925年、男は手に入れた選挙権に狂喜し、女は彼らの三分の一以下の給与で機を織り続けていた。
なるほどカオスだな、と思った。俺が物心ついた頃には当然女性にも選挙権はあり、家に入らず第一線で働くキャリアウーマンがいて、学校の名簿は男女混合だった。男女参画、ジェンダー問題、これらは小学校の道徳で耳にした単語達だ。1925年と比べると、随分平等な社会になったもんだと柄にもなく感心する。
けれど男の子は女の子をいじめてはいけませんと幼稚園の頃保育士は言った(ちなみに当時は「保母さん」と呼ばれていた)。それはどちらかと言えば平等を求める発言ではない。だが結局のところ、生物学的な力の差による社会との矛盾を内包しているのだから仕方がないのだろう。一般論として、そして進化論として、男は女を愛し、女は男を愛し、器質的な凹凸を埋めあって新しい命を作る。そこには明確に男女の壁が存在している。
だったら1925年より、現代社会より、「俺達」がある意味一番男女平等なんじゃねえの、と思ったら笑いが込み上げた。小さく笑った声を訝しんでか、何じゃ、と向かいに座る仁王が声をかけてきた。別に、と答えて、味の無くなったガムを捨てた。次の年に向かう前に左手を伸ばしてチョコレートをつまむ。中にアーモンドが閉じ込められている、最近お気に入りのやつだった。脳味噌は糖分しか使えないから勉強中は甘いものを食べるといいですよ、いつか柳生がそんなことを言っていたからこれは正当で合理的な行動だ。
1925
チョコを取るついでに目を上げると、鏡的な意味で俺と同じ側の手に持ったシャーペンを器用に回す仁王が見えた。普段中途半端に伸ばした後ろ髪を束ねるゴムを、今は前髪に括り付けてちょんまげを結っている。おかげで表情がよく見えた。肘をつき、至極つまらなそうな顔をして数学の問題集を睨みつけている。
「チョコ食う?」
「いらん」
チラリともこちらを見上げずに仁王は即答した。わかっていて聞いた。こいつは甘いものを好まない。というかあまり食べ物を口にしない。テニスに必要な筋肉だけがついて、外で走り回っているとは思えないほど色白のこいつは、いっそ入院していた頃の幸村くんよりも不健康に見える。銀の髪もそれに拍車をかけているかもしれない。
「どんくらい進んだ?」
「三分の二くらいかの」
これも問題集を眺めたまま答える。少し身を乗り出して覗き込むと、すり鉢状の曲線が描かれたグラフが見えた。二次関数、中高一貫の利を活かすとか何とかで、カリキュラムは今年の梅雨と共に高校数学に突入していた。問題文の末尾に「証明しなさい」という文字が見えて、げ、と思う。俺は数学が嫌いだけれど、証明問題よりは計算問題の方がまだマシだ。
「何じゃ」そのまま問題集を覗いていると、漸く仁王が顔を上げた。
「いや、どこで悩んでんのかなと思って」
「んな事より自分のノルマをさっさとやりんしゃい」
そうしてさっさと問題集に帰ってしまう。今度は肘を下ろして、器用な指先が模範的にシャーペンを握り込み、ノートにさらさらと解答を書きつけていく。その字は細く薄く、繊細だ。仁王は字が上手い。初めて見たときは意外な気もしたし、当然のような気もした。
「そっちはどうなん」
思考が終わったからか、手を動かしながらも言葉が続いた。俺?淀みなく動くその手元を見つめながら二つ目のアーモンドチョコレートに手を伸ばす。
「今、1925年」
視線を一度プリントに戻す。1925年、普通選挙法、共産主義、アドルフ・ヒトラー、三十歳、それから女工哀史。手書き文字の単語を秩序なく目が追う。俺の字はたまに女子みたいだと言われる。いわゆる丸字に近く、ペンの持ち方が正しくないこともわかっているが今さら直すのも面倒だった。
「全然進んどらんやんけ、さっきは1920年やったよな」
「五年進んでるじゃねーか」
「一時間で五年はどう考えても遅いぜよ、桃鉄でももうちと早く進むじゃろ」
一時間は一時間だし五年は五年だろ、と思ったけれど口にはしなかった。歴史の授業中は一時間で十年も二十年も時が進んだりする。だから歴史上の出来事はいつだって記号的で現実感を伴わない。たまに読む小説と同じようなものだ。
「1925年ゆうたら、治安維持法じゃったかの」
「すげ、正解」
「中学受験でも出てきよったじゃろ」
「んなもんいちいち覚えてねーよ」
仁王とは今年初めて同じクラスになって、部活だけの付き合いでは知らなかったことをいくつか知った。それまでは見た目や得体の知れなさの所為かあまりよくない噂を耳にするばかりだったけれど、思っていたより授業には出ているし、テストでも常に平均点は超えているし、それでいて結構しょうもないイタズラが好きだったりする。
「つかそれなら自分でやりゃいいだろい」
「ならおまんは数学自分でやりんしゃいね」
そう言われて言葉に詰まる。新しく知った仁王の一つに、理系だったことが挙げられる。別に文系と思っていたわけではないけれど、数学が得意とも知らなくて、それで俺と得意分野が逆だからこうやって溜まりに溜まった宿題を分担したりしている。宿題の出来とテストの点数が噛み合わないあたりはまだ教師達には訝しまれていない。
俺はまたチョコレートの袋に手を伸ばした。けれど、予想に反して風のように軽い袋が探る手に引っ掛かって持ち上がっただけだった。そこにあの愛しく固い感触はない。品切れだ。この絶望感は何度味わっても嫌いだ。
「プリン取ってくるけど、お前食う?」立ち上がって言った。
「まだ食うんか」
「だってチョコ無くなっちまったし」
「……チョコ、新(さら)やなかったかの」
家に帰る途中にコンビニで買ったチョコの袋が膨らみを失っていることに気付いて、仁王が眉を寄せ苦々しい顔をする。吐き気がするとでも言いたげだ。これは正直な顔だ、と思った。ポーカーフェイスなのか何なのか、いつも人を喰った不敵な笑みか不機嫌そうな表情のどちらかである仁王が、時折こんな風に妙に人間くさくなるときがある。そんなときはちょっと勝った気分になる。
「で、食う?」
「せやの、さすがに頭使いすぎじゃき」
「食うのかよ」
「だめなんか」
「いや、いいけど」
基本的に俺は人に愛するおやつをあげたりしない。仁王はいつもいらないと言うから何となく食べるか聞いたりするが、気分が乗るときもあるようだ。まあ元々一つずつ買ったやつだしな、と思って冷蔵庫に入れておいたプリンを取るため部屋を出た。
仁王が初めて俺になったのは二年の冬だった。身長や体型なんかはまるで違うはずなのに、そこにはどこをどう見ても俺がいた。小学生の頃から一緒にいるジャッカルも簡単に騙された。正直驚いた。いっそ怖かった。仁王の変装はいつでも完璧で、その錯覚を生むのは決してこっそり買い漁っている道具の所為だけではない。声や仕草やちょっとしたクセなんかの、本人すら気付かない色んなものを見抜いて身につけてしまうのだ。つまり仁王は他人に成りすますが故に、相手以上に相手を知らなければならなかった。
クラスが一緒になった頃、自然と行動を共にすることが多くなった仁王は俺を観察し続けた。更に見分けをつかなくさせるためだ。自分と俺との相違点を探し続け、同化させようとした。それは仁王があらゆる他人に行うルーチンワークみたいなもので、放っておいても仁王は俺を俺以上に掘り下げただろう。事実、大抵の場合はそうやって一方的に他人のパーソナリティを盗んできたのだと思う。けれど、俺はその視線を見返してしまった。俺は知らなかった仁王のパーソナリティを見つけることに好奇心を刺激され、俺の中に何かを見つけた仁王と互いを共有するようになった。そして、合わせ鏡のように反射し合い覗き込みあった俺達はやがて恋に落ちた。こういうこともたまにはある、といつか仁王は言っていた。
別に初めての恋ではない。もちろんお互いにだ。ただ、俺自身は男相手というのは初めてだった。戸惑いはあったが、まあそんなこともあるかと受け入れた。元々細かいことにはこだわらないし、恋は女にするものという固定概念の崩壊は世界を変えたようにすら思えた。仁王に関して言えば、過去に聞いた噂によるとたぶん初めてではない。もちろん噂と食い違う仁王を俺が見つけていったように、そんなものは半分以上が嘘か誇張だろう。ただ、火のないところに煙は立たない。事実仁王が初めて俺を抱いたとき、そこには確かに同質の経験が見え隠れしていた。仁王には常に嘘と真実が半分ずつ纏わり付いている。望んでそうしている。
とにかく恋に落ちた俺達は、いとも簡単な発想の転換で男女の壁を逆説的に取っ払った。だから俺達は平等だ。平等に人を愛することができる。これも仁王と一緒にいるようになって見つけたことだった。
一階のキッチンに降りて、冷蔵庫から二つのプリンと、ついでに飲み物も持っていくことにした。自分のためのオレンジジュースと、仁王にはブラックコーヒー。俺の嫌いなそれを仁王は好きだと言う。何でわざわざ苦いものを飲むのか理解しかねる。
製氷室から氷を二つずつ落とすついでに、一つ口に放り込んだ。プリントと睨めっこしてふやけた脳が覚醒した気がした。落とした氷はグラスとぶつかり、カランと小気味良い音を立てた。それぞれのグラスにそれぞれの飲み物を入れるとパキ、といって氷にヒビが入る。なんでこんなヒビの入り方をするのか、浅学にして俺は知らないけれど、俺はそれを目にするとなぜだかいつも少し哀しい気分になった。少し小さくなった口の中の氷を噛み砕いてそれをごまかす。グラスの中では、ヒビの隙間からオレンジと黒の液体が中央の空洞に向かって侵入するのが見えてホッとした。
部屋に戻ると仁王は問題集を開いたまま、猫のように床に丸まって携帯をいじっていた。前髪は降ろされて、ヘアゴムはその右手首に嵌められている。ノートはさっきのページのままで、末尾に流れるような字で q. e. d. と書かれているのが見えた。
「おかえりんしゃい」
気怠げに俺を見上げ、後ろのベッドに携帯を放り投げてゆっくりと体を起こす。上から見るその髪は地毛と錯覚するほど根元から綺麗に染め抜かれている。普段俺よりも上に位置するその頭を見下ろす機会はそんなにない。数少ないそんなシチュエーションの限りでは、俺はこいつの髪に一部でも違う色が混じっているのを見たことがなかった。俺の方は黒が見え始めていて、そろそろ染めなければならない頃だった。
「お前って、プリンとかならねーよな」
適当にテーブル上の参考書やらノートやらを除け、持ってきたお盆を置きながら言った。
「え?」
意図をはかりかねたように、仁王は俺と手を延ばしかけたプリンとを交互に見る。
「そのプリンじゃねーよ、髪だ、髪」
ああ、と漸く合点がいったように頷いた。止めた手がプリンを掴む。降ろした前髪が顔にかかって、鬱陶しげに小さく首を振る。仁王がコンビニで選んだのは小さいなめらかプリン系だった。俺は一番大きいスタンダードタイプのプリンだ。
「それだけじゃ足らん言うんかと思った。さすがの俺でも食いもんにはなれんぜよ」
「さすがに俺もカニバリズムの趣味はねえよ」
「それはどうかの」
いつもの人を喰ったような笑みでプリンを掬い、口に運ぶ。どういう意味だと言っても飄々とかわされる。
「髪はまめに染めとるきに」
「金かからねえ?」
「まあそれなりじゃな」
「お前が金に困ってるところとか見たこと無いんだけど、小遣い多いのか?」
「たぶん普通じゃろ。おまんが菓子に使い過ぎなだけナリ」
「お前の変装用品のほうが金かかるだろい」
「消耗品やないき、困るほどやないぜよ」
それはどうかな、とさっきの台詞をそのまま返しておいた。仁王は不敵に笑うだけだ。
最早三年目になった俺達の髪色に関しては、教師も口を出さなくなっていた。それが言っても無駄だという諦めなのか、全国レベルのテニスの腕前が免罪符になっているのか判別はつかない。ただ口煩く言われないならそれで十分だ。風紀委員の真田や柳生はそれでも時折口を出してきたが、俺達は髪の色云々に関わらず基本的に人の言うことを聞かない。指定のマフラーは使うのに髪は自由なんて面白いね、と幸村くんが笑っても、確かに縛られるのは嫌いだけれど別に反則するために染めているわけでもないから気にしない。
だから見た目から推測される不良のレッテルだけが、知らない生徒たちの間で一人歩きしていた。素行が悪いとか女癖が悪いとか。現実問題、帰り道に寄ったゲームセンターで他校生と揉めたことはあるし、校内に昔付き合った女子もいるわけだから嘘ばかりとは言い切れないが、どれだけ厳しく持ち物検査をされたって俺の鞄からはお菓子しか検出されないし、仁王に至っては用途不明のガラクタしか出てこない。それでも良くも悪くも目立つテニス部員のスキャンダルはそれだけで話のネタになるというわけだ。実際初めてクラスが一緒になった女子なんかは、「丸井君ってもっと怖い人かと思ってた」と言って手の平を返したような親しさで話しかけてくる。お菓子くれたら悪さはしないぜと秋にある最高のイベントの如く言うと「何それ」と笑いながら何かをくれる。俺はそれでうまくいっている。好意を増やすに越したことはない。
ただ仁王の方では、あまり多くの人間と深く馴れ合わないことが手伝っていつまで経っても「怖い」と「軽い」の評価が消えない。もちろん本人は気にしちゃいないしむしろ楽しんですらいるが、まことしやかに囁かれていた噂の中には「あの人身体売ってるらしい」なんて噴飯ものの内容も含まれている。さすがにそこまではしねえだろと思うが、どこにいるとも知れない夜の間にどこから湧いてくるのかわからない金をそんな方法で手に入れていたとしても何かありえる、と思えてしまうのがこいつの恐ろしいところだと思う。実際にそういう仕組みがあることも知っている。俺自身然るべき地域近くで遊んでいるとき、話を持ち掛けられたこともある。もちろん丁重に断ったけれど、言っちゃ悪いが貞操観念のまるでなさそうなこいつが人生経験とでも言って付いていかないとも限らない気はした。今食べているプリンのように、人でさえも金で買えることは事実だ。要は売るかどうかの問題で、需要はいつもそこにある。
金で買われる自分や仁王を想像して、そういえば俺達を買う人がいたとしたら、そのタイプは違っているだろうなと思う。女に限って言えば、俺と仁王は言い寄ってくる種類が異なっている。俺は同級生が多くて、仁王は年上が多い。何人か仁王の元カノを知っているが、確かどれも年上だった。最高で女子大生だったと思う。
ただ共通するのは、馬鹿な女が多いということだ。馬鹿さの種類が違うだけで。だったら惹かれ合う俺達も馬鹿なんだろうか。残念なことに、俺は仁王がどんなタイプの男と関係を持ってきたか知らないし、俺にとっては仁王が初めての男だった。だから答えはわからない。
考え事をしているうちにビッグサイズのプリンは胃の中に消えてしまっていた。消化されるタイプのお菓子はいつか無くなってしまう。だがもう今日買ってきたお菓子は底をついてしまっていた。
「ああ、食うもの無くなった」
「足らんの?」
仁王を見ると俺の半分以下のサイズしかないプリンを三分の一ほど残してテーブルに戻し、ブラックコーヒーを飲んでいた。
「うん、足りねー」
「食ってええぜよ」
「マジか!」
サンキュと言ってテーブルに飛びついた俺を半ば呆れ顔で仁王が見ている。ベッドに凭れ、片膝を立ててだらしなく腕を引っ掛けている。よくあることだから気にはかけない。食べかけのなめらかプリンは舌に載せると同時に蕩ける。俺に付き合って購入した仁王のあまり好きでない甘い物を、結局俺が食べることはよくあった。素直にその好意に甘えていたが、もしかしてこれはこいつなりの優しさなのかと時折考えたりする。真偽は定かではない。でもそう思った方が美味しく感じる気がした。
一瞬で溶けたプリンにある程度の満足感を与えられ、ソウゴチと礼を言ってから口寂しさを紛らわすためにガムを一枚放り込む。俺は常にアップル系と柑橘系とベリー系の三種類のガムを持ち歩いている。気分によって変えるためだ。選び取ったベリー系の味が口腔内に広がった。それからそろそろ現実を、と思って隅に寄せていた教科書に手をかける。プリントの最下段は1937年になっていて、1925年からあと十二年分の歳月を見て回らなければならない。干支が一周する程度の期間だ。ほとんど癖になっているガムに息を吹き込んで膨らます作業を半ば無意識に行いながら、ページを捲る。そのとき、視線を感じた。
「何、どうした」
顔を上げると、仁王がさっきと変わらない姿勢でまだ俺を眺めていた。ただ表情は何も映さなかった。呆れているわけでも、笑っているわけでも怒っているわけでもない。
「仁王?」
「ガム」
「え?」
「そんなに甘いもんが好きなんか」
声にも特別な感情がこもっているわけではなかったから、だから俺は何も考えていなかった。
「当たり前だろい!むしろ愛してるぜい」
だから、唇だけが笑みの形に歪められたことに気付いたときには遅かった。一瞬でこちら側に移動してきたと思えば、次の瞬間には天井が見えていた。仁王の顔が目の前にある。
「幸せそうじゃのう」
更に近付こうとするそいつを、けれど俺は何とか寸でのところで押し留めた。俺の行動はその表情を不機嫌に歪ませる。それは二番目に親しんだ顔だ。
「宿題どうすんだよ」
「夜やって明日にでも写せばよかろ」心持ち声が低い。
「何、怒ってんのか?」
「いや、けど一人で満足されるのも面白くないけぇの」
「……やっぱ足りなかったのか?プリン」
「元々プリンで満たされるもんなんぞないきに」
「だからってこういうのは体力も使うだろい」
「俺にとってはおまんが甘いもんを食うようなもんぜよ」
そう言って手を取られ、ガムを噛み始めたばかりの口に噛み付かれた。仁王の舌が遠慮なく入ってきて、探るように俺の口内を這いずり回る。意思を持つ舌が追いかけっこを続けて、やがて隅に追いやられたガムが二人分の唾液にまみれて掻き出されていった。少し離れて焦点を結んだ仁王の舌の上で、付けっぱなしの電球を反射したガムが光っている。ベリー系を選んだ所為でそれはピンク色をしていて、垂らされた舌と半分伏せられた瞳と相まって不必要なほど官能的な光景を創り出していた。こんな色気はそこらの女でもなかなか出せるものじゃない。仁王はそのまま傍らにあったゴミ箱にガムを吐き捨てた。こびり付くから俺はいつも紙に包んで捨てるのに。文句を言おうとした口はけれどすぐに再び塞がれて、行き場を失った言葉は吐息として漏れた。
こいつは驚くほどキスが上手い。自分でも自覚しない何かをあのガムのように掻き出される気がして、少し苦手だ。他人に成りすますために他人を必要以上に知ろうとするこいつの前では、知らない自分に直面してしまうことが多々ある。例えば今の吐息がそうだ。仁王の知らなかった一面を知っていくのと同じように、俺は自分の知らない自分を知っていく。そのことが快楽に思えるときもあれば、恐怖に変わることもあった。
「甘すぎるぜよ」離れた仁王が俺を睨む。
「当たり前だろい、まだ味残ってたのに」
なるべく不機嫌に聞こえるように言って、俺はゴミ箱に目線を移した。その成分を出し切る前に廃棄されてしまったガムは、もうそのまま干からびて硬くなるのを待つしかない。こびりついて抵抗したってやがて剥がれ落ち、チョコレートの袋や赤点のテスト、精液が染み込んで黄ばんだティッシュなんかと一緒に回収されてしまう。俺はガムに同情した。
ガラスの小さな音が耳に届いて、視線を元に戻す。仁王の手がテーブルから戻ってくるところで、その先は床に押し付けられた俺からは見えない。
「何、」
疑問を紡ぐ前に両手で頬を固定され、距離が無くなる。仁王の舌の感触がしたと思えば、薄く開いた隙間から予期しない量の液体が注がれた。粘度が唾液ではないと語る。苦味が口いっぱいに広がり、漸くそれがブラックコーヒーだと知って盛大に咽せた。ただでさえ仰向けになっていたのだ、反射で嚥下は行われたが、間違って流れ込んだコーヒーに開いた気管が悲鳴を上げる。のし掛かる重さを必死で押し退けた。受け止めきれなかった液体が一筋、口の端を伝う感覚があった。生理的な涙と口に広がる苦味が忌々しく、精一杯の力を込めて目の前の銀髪を睨む。
「何だよ今の」
「口直しナリ」
「俺はブラックは飲めねーんだよ」
睨む視線に仁王が口の端を歪めて、起き上がりかけた俺を押し戻す。
「キスは苦いくらいが丁度ええんよ」
至近距離にある目の奥が光って、あ、喰われる、と思った。こいつは人間的な部分はなるべく隠そうとするくせに、動物的な部分となれば剥き出しにする。こいつのこの目はいつも俺を金縛りにする。たぶん演技も入っているんだろう。けれどそれに縛られる俺は、わかっていても結果的にこいつのペテンに堕ちることとなってしまう。
口に残る苦味を洗うように舌が舌に絡みつき、歯列がなぞられる。結局どちらも苦味を持っているわけだからそれが無くなるわけではないが。
それにしても、どうすればこれだけキスが上手くなるのかといつも訝しむ。こいつだって始めからこうだったわけではないだろう。噂の何割が真実かは知らないし、今さら経験人数なんて聞きたくもないが、確実に教え込んだ誰かが居たはずだ。それが男か女かは知らないが、少し嫉妬する。嫉妬心もこいつに引き出された俺のうちの一つだ。基本的に好き勝手に付き合って適度な距離ができた頃別れてきた俺はそんな感情を知らなかった。俺達はいつもそれが遊びであるかのように抱き合う。だが俺は遊びに見せかけて、たぶん本当は本気で仁王を愛している。こいつはどうなのだろう。俺と同じように、嫉妬したり、遊びのフリをした愛を隠し持っていたりするのだろうか。
俺がおやつを食べるように、こいつは俺を抱く。だったらこれは愛だな、と思う。けれど俺がガムを噛むように、こいつは人間を嗜む。だったら味が無くなったら捨てられる程度のものなのかな、と思う。包まれることもなく吐き出された俺は、こびりつくように縋るのだろうか。
答えはまだ確かめようもないが、ただ一つ言えるのは俺達に縛り縛られるような関係は似合わないということだ。俺も仁王も、初恋に焦がれる少女なんかじゃあない。燃え上がる感情もそれが醒める過程もきちんと経験していて、やがて訪れる別れの欠落感がまた他の誰かによって埋められることを知っている。男女平等に人を愛せる俺達はまた別の誰かを愛すだろう。それが互いを超える相手かどうかはわからないが。
けれど今はまだその時期ではない。俺達にとって愛とはたぶんガムのようなもので、そしてこのガムにはまだ味が残っている。今この瞬間に限って言えば俺達は求め合い、嫌いな教科を分け合うように隙間を埋め合う。1925年に成立した二つの法律や男と女の如く、互いを補完し合う。仁王は誰にとっても鏡みたいなものだから、俺に嫉妬心を見出したならば仁王もまたそれを持っていることになる。いずれこの時間が歴史の教科書のように記号性しか持たなくなっても、それはきっと現実の一部として残る。俺達がしているのは恐らくそういう種類の恋だ。だったらすることは一つしかない。
キスしたら腹が減った、と思ったが、仁王を満たすのが先だ。それに、俺自身もたまにはこいつ流の満たし方をしてみてもいいだろうと思った。溺れるほどに与えられる口付けを受けながら、俺はその背中を掴んだ。